H.26.01.18
伊勢参宮街道は、伊勢神宮への参拝道として整備された街道のことで、伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれている。 伊勢街道は、日永の追分から東海道と別れ、伊勢にいたる街道で、国道23号線として整備(昭和27年)され、松阪市以南は、三重県道428号伊勢小俣松阪線。
その先に「亀屋清泉庵」という店があり、中に入り、「亀の子最中」を二つ買い求めた。「おろしやこくすいむたん」というお菓子があった。後で出てくるが、白子の漁師大黒屋光太夫の船が難破漂流してカムチャツカに漂着し、ロシアから日本に帰るまでを井上靖が書いた本で、吉村昭も「大黒屋光太夫」という題で書いている。白子には、「光太夫記念館」があるようです。
この辺りには、立派なお宅が多いが、左側に「熊沢」の表札がかかった大きな家があった。先ほどの熊沢翁の家であろうか。 この先で、県道103号線を斜めに横断し、JR関西本線を河原田踏切を渡り右折する。
「神戸別院・専修寺」があり、その境内には、「明治天皇神戸行在所」の石柱が三本も建っていた。 旧道は、T字路に突き当たり、左折する。
新幹線で名古屋まで、近鉄名古屋から四日市まで行き、内部線に乗り換え、追分駅に8時35分に着いた。内部線は、昨年東海道を歩いた際に、8月で廃線になると聞いていたので、心配していた。第三セクターで存続することになったそうで、無事乗ることが出来ました。今日から伊勢街道を歩きます。駅から数分で、「日永の追分」に着く。「神宮遥拝鳥居」や「道標」「清水」がある。
JR 7460円
タクシー 1120円
名古屋〜追分 220円
白子〜名古屋 800円
バス 160円
計 9760円
10分ほど歩くと、右に「老農水原政次翁彰功碑」がある。(水原翁は、1847年、現在の市内木田町に生まれ、青年時代農業をなし、上京して、農学社に学び、32歳から30余年三重県農事試験場や県農会に勤め、農事に関する知識の普及や農事改良につくし、県下初の農事試験場長であった。)道なりに歩き、床屋のある交差点に出る。道を横断し斜めの道に入っていく。少し歩くと、近鉄の線路に突き当たるので、ここを右折する。
その先の神社は、「彌都加伎(みずかき)神社」で、社殿もコンクリート造りの新しいものだった。 この後この交差点を右折するのだが、交差点がいびつになっていて、斜めの道を進んでしまった。大分行ってから間違ったと思い、歩いてきた若い女性に道を聞いた。スマホで道を検索してくれて、この道でいいということになって、歩き続けた。しかし、次の交差点にでて、やはり違っていたことに気づき、引き返した。向こうから先ほどの女性が息せき切って駆けてきた。この道が間違いがと分かって引き返してくれたのだ。
県道8号に出ると、「ジョリーパスタ」があり、ちょうどお昼になるところだったので、昼食にする。街道を歩いていると、食べられる時に食べないと昼食をとれないこともある。昼食の後、県道を渡ると、左側に、「矢掎(やはし)神社」がある。この神社は伊勢神宮の外宮系で、祭神は建速須佐之男神である。、社殿の左側に、山神と書かれた石碑が二基ある。その先を進むと、右側の小路の両側に「大日如来」の石柱がある。
県道103合線をくぐると、「延喜式内高岡神社」社標がある。踏み切りを渡って向こう側に出ると、石段があり、上に上がると社殿があった。御参りをして、石段を下り、街道に戻ると、右側の線路の脇に、大きな常夜燈があった。
道はその先で右にカーブし交差点にでる。左右の道は県道507号線で、伊勢街道はこの道を横断する。フジクラの鈴鹿工場の正門を見ながら進むと、「菅原社」がある。
「日永の追分」(道が左右に分かれている所を追分という。日永の追分は東海道と伊勢街道の分かれ道である。道路が拡張される前は、伊勢街道の入り口に道をまたいて、伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は、久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛という人が、江戸から京都に行く時に、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てた。鳥居は皇太神宮の遷宮にあわせて、二十年ごとに建て替えることになっていた。また、追分は、東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間の宿として旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。)
道筋は、イトウ総業の先で二俣になる。旧道は右側で、旧道を歩くと、内部川に突き当たる。その手前に石碑が2基建っている。説明板によると、「西南の役、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争」で亡くなった河原田地区の方を祀った石碑のようだ。
左側の石垣
右側の石垣
もう14時40分になったので、「白子駅」から帰る事にした。
お堂の反対側には、「役の行者神変大菩薩」が祀られている。
踏み切りを渡った先の奥に、「六体地蔵尊菩薩」と書かれた石碑があり、着物を着せられたお地蔵様が祀られている。 「北の端の地蔵堂」である。説明板によると{今より800年前の鎌倉時代に造られたもので、石像本体周囲に6体の菩薩が刻まれている。)
神社まで戻り、右折して歩き始めると、「式内 彌都加伎神社」と刻まれた石の道標があった。これは、先ほどの神社への道標だが、明治天皇の明治弐年の伊勢神宮参拝に際し、勅使が派遣されたのを記念して建てられた。 5分ほど歩くと、右側に、赤い鳥居と常夜燈があり、山神が祀られている。
その先の交差点を渡り直進すると、左側に玉垣小学校がある。道の先はお寺で、街道は右折する。その角に、「右さんぐう道」と刻まれた自然石の道標がある。右折すると、左側に大きな古い家があり、屋敷の角を左折し、道を直進すると、国道23号の西玉垣交差点で、伊勢街道はこの三叉路を左折する。右側に、元治二年{1865年}建立の指差し道標があり、「左さんぐう道」と刻まれていた。
この先は、畑の中の道を歩き、小さな金沢川を渡る。国道23号線を肥田交差点で渡る。左側にカンセイの工場があり、道は右にカーブして続いている。国道23号と平行するように歩くと、北玉垣町に入った。右側に、鳥居があり、その奥に山神が祀られている。社殿がないと思ったが、集会場の後に小さな社殿があり、伊勢神宮の神を祀る天白社ようだ。(名前が無かった。)
その先に。「豆腐力」とかかれた豆腐屋さんがあり、ヒリョウズ、油揚げなどを買い求めた。おまけで、「おから」をいただいた。豆腐屋さんの先で、道は右にカーブするが、右側には、鳥居と燈籠があり、山神が祀られている。
見付けの先の加美亭旅館辺りは遊郭跡で、神戸宿の入り口にして大いに賑わった。神戸が城下町として発展したのは、神戸信孝の時代で、十日町を中心に、小山町、石橋町、新町の神戸四町が出来た。江戸時代に入ると、一柳直盛が神戸藩を創設し、城下町を拡張し、町数は八つになり、本多氏の時代になると、伊勢街道の隆盛と共に、町は拡張し、明治初めには、11町になり、家数は600軒近くだった。二階建ての連子格子の家が何軒も残っている。
5,6分で、常盤橋を渡った先に「神戸の見付け」がある。説明板によると(神戸見付けは、伊勢街道神戸宿の入り口にあたり、両側に土塁と石垣を築いたものである。町の治安を守るため番人がいて、夜間遅くには、木戸を閉じて、通行を禁じた。両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っている。)その溝を探したが分からなかった。
鈴鹿川の土手に上がり、先の高岡橋を渡り、右折して土手道を歩く。土手道からは雪を被った鈴鹿山系が望める。前方に常夜燈が現れたら土手を降りる。これは渡しの見通し燈籠である。ここからまっすぐな畷道を15分ほど進むと、常夜燈がある。これは先ほどの常夜燈と対をなすものであるということだが、随分離れて建っている。
左手の坂を上って行くと、「忘帰所」の石碑と説明板があった。(明治の元勲田中光顕伯爵が、生前南河原田の熊沢市兵衛翁宅へ来られたことがあり、この場所に案内され、眼下にひろがる田園風景、楠町、四日市、伊勢湾一帯を見渡すことが出来る余りの美しさに、帰るのを忘れたという。標高41mの山頂からの眺めは、一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みまで臨み見ることが出来る。)とある。 今日は、霞がかかっていて、遠くを見とおすことはできなかった。また、四日市の工場群が立ち並び、昔とは違った風景だと思った。
右側に、河原田神社がある。石段の前には、中学生が沢山いて、顧問の先生らしき方もいる。石段で訓練をしていたようだ。長い石段を上ると、社殿がある。境内の左側には、神武天皇遥拝所の石柱が建っている。
左側に「明治の里程標」がある。「距 津市六里三十二町」などと、各地からの距離が刻まれた石柱が建っている。明治時代に建てられたもので、津市六里は三重県庁からの距離である。
堤防を左折して、川原田橋を渡る。昔は、向こうに見える水道橋の付近に仮橋がもうけられ渡り賃2文(約240円)だったそうだ。この袂が旧道入り口になる。ここを下り、叉兵衛橋を渡り、旧道に入る。
六郷川にかかる幸橋を渡ると、左側に背の高い常夜燈がある。嘉永二年(1849年)に建立した常夜燈が、明治8年の洪水により倒壊してしまったので、地元地子町の人々が再建したそうです。またその隣に津波タワーのような建物を建設中だったが、この辺りは海に近いのだろうか?
近鉄鈴鹿線を渡り、信号神戸八丁目を過ぎると、「あぶい旅館」の前で道はY字路になる。旧道は左に曲がる。あぶい旅館の右側には、「距津市元標五里参拾四町六間」と書かれた大きな標柱とその下に、「神戸町道路元標」があった。
水道橋