香辛野菜売り
3日目
ビビ・カ・マクラ廟
34窟のうち、1〜12は仏教窟 、13〜29はヒンデゥー教窟、30〜34はジャイナ教窟である。石窟には2種類あり、ヴィハーラ窟(僧坊 僧院)は修行僧が生活しながら瞑想する。 仏塔のあるチャイティア窟は菩薩と賢者を従えた仏陀の像が彫られている。ステゥーパーを背にした仏陀を配している。
第16窟の正門をくぐると、蓮華の台座の上で足を組み背筋を伸ばしたラクシュミーが両側より水をかけられている図の浮き彫りがあるラクシュミー(吉祥天)はヴェーダ時代から活躍する、国や家の繁栄を意味する女神だ。二象が潅水するラクシュミーの意味は不明である。
アンバサダー・アジャンタ ホテルの庭を散策する。プールもあり、ウオーキングしている人や、落葉を箒で掃いている人がいる。
妃の棺 棺の周囲は大理石で作られている。
デカンのタージ・マハールと言われているが、建てたのはアウラングゼーブで、祀られているのは彼の第一王妃ベルグである。ムガル帝国の皇帝で、タージ・マハールを造ったシャー・ジャハンの息子である。周辺の藩王との戦争の軍事費と、親父がタージ・マハールの建造で巨費を使ったので、国の財政が傾きかけた。彼は父王を幽閉し、二人の兄を殺し、第6代の皇帝についた。グルターバードという村に彼の墓があるが、とても小さな廟で屋根もないとか。彼の遺言だったらしい。
ヒンドゥー教窟の最奥部には、仏教窟における仏塔のかわりに、リンガ(男根)が置かれていることが多い。リンガはヒンドゥー教主要神のひとりシヴァのシンボルである。仏塔は釈迦の涅槃のシンボルだが、リンガはシヴァの生命エネルギーのシンボルである。
第10窟(ヴィシュヴァカルマ窟)大工の石窟と呼ばれる。
仏教窟に立ち並ぶ仏、菩薩たちの姿はヒンドゥー教窟の荒ぶる神々とはまったく異なる静寂の具現である。その静寂の中に、仏教徒が求めた涅槃の境地が存在する。
ライオンに座る女神を説明するガイド
バニアンの樹の下に座る象に乗った男神
サリー
サリーはインド、ネパール、スリランカ、バングラディシュ、パキスタンの女性が着用する民族衣装で、5m程の(お店の人は5m50cmと言っていた)の布を腰に巻きつけ残りを肩の上にまわす。サリーも金糸の入った高価なものから安いものまであり、高価なサリーを身に着けるのはステータスだそうだ。
私が思っているよりずっと多くの人が着ていた。 若い子は、スリットの入った上着にスパッツやパンツをはいている子もいた。年頃になると、サリーの着方を習うのだそうだ。
揚げ菓子の店
外国で、写真を撮らせてもらったことは沢山あるが、「一緒に撮らせて」と言われたことはインドが初めてです。エローラでも2回あり、ガイドさんが、「田舎から来た人は日本人を見るのが初めてで、村に帰って皆に見せるのだ。」と言っていた。
オーランガバードに戻り、市内の市場を散策する。
オーランガバードへ戻り、南インド料理をいただく。私は昨日の夜から下痢をしていて、食欲がない。珍しい料理だったがやめておいた。
他の寺院は、岩山を横に堀る洞窟式石窟だったが、この寺院は、真上から下に向かって堀り、岩を掘り残しながら寺院の建造や装飾をしている。奥行き92M、高さ36M、中庭の幅は51Mもある。 757年から掘り始め975年に完成する。その間、王朝も変わったが掘り続けられた。 須弥山(しゅみせん)のモデルといわれるカイラーサ山の主(ナータ)はシヴァ神のことで、8世紀中葉から約1世紀の間にラーシュトラクータ朝クりシュナ1世の命により造営。
第11窟
第7窟
8窟の入り口にある浮き彫り、バンチカとハリティで、ハリティはガンダーラ地方の原始信仰の女神で、日本には鬼子母神として伝わる。
聖者たちの簡素さとは対象的に教窟の内部は多様な装飾が施されている。クッション形の柱や小堂入り口の壁の複雑な浮彫りはジャイナ教の内部を豪奢なものにしている。
ジャイナ教石窟
世界遺産エローラ石窟寺院は、オーランガバード市から車で約40分ほどの所にあり、台形の火山岩からなる丘陵地の麓にある34の石窟群である。南端から第1〜12窟が仏教窟(5〜7世紀)、第13窟〜29窟がヒンドゥー教窟(8〜9世紀)、第30〜34窟が ジャイナ教(9〜10世紀)で、ジャイナ教窟だけが少し離れた所にあるので、先に訪れた。
ホテルで夕食。またカレー料理が出たが、私のためにおかゆを作ってくれた。、インディカ米のおかゆなのでお粥らしくなかった。が、どうもありがとう。
インド人が食後に食べる、種のようなもの。整腸作用や消化作用がある。食べやすいように砂糖をまぶしたものも出てきた。
インド綿のクッションカバーを購入
織物会社を見学。実演を見たが、実際は織物の販売が主で、デリーに夫が駐在しているという日本人御夫妻がショールを買っていた。サリーを着てみたらと言われたが、体調不良で意欲が湧かなかった。
種類の多い香辛料店
にんにく、しょうが売り
黒砂糖売り
ガイドさんの友人のシーク教徒は、ターバンを巻いている。シーク教徒は一生髪の毛やひげを切らない。ターバンの中は5mにも伸びた毛を巻いて入れていて、ひげも両方に分けて撚って耳の上から入れて頭の頂で結んでいた。 ターバンは帽子と言うより、髪の毛やひげをしまう場所なのだ。 インドというとターバンを思い浮かべるがシーク教徒は全体の2%しかいないそうです。
真ん中の線より下が大理石、上は漆喰で白い
オートリクシャ
高さ15mの幢柱
リンガ祀堂 リンガは男性原理、ヨーニは女性原理、リンガ・ヨーニとは両原理の統一を意味する。
踊るシバ神
叙事詩の浮き彫り
極彩色に彩られていた跡が残っている。
初期の仏教窟
ここから下の広場をのぞく。
水を流すためか溝が彫られている。
枕の付いたベッド
3階の七仏像
ステゥーバを背に高さ15フィートの説法をする仏陀が鎮座する。
第8窟
ジャイナ教徒はリンガを崇拝せず、仏教徒の仏塔のような卵型を基礎とする崇拝対象を持たない。が、写真のような塔を造ることはあった。
天井の大きなハスの花
マンゴの樹の下に座るライオンに乗った女神
ジャイナ教における聖者達の像は動きも少なく、冠や天衣などを着けない。
立って修行するうちにツルが体に巻きついた。
オーランガバードの西13Kmの地点に、ダウラマバードという草ぼうぼうの城の廃墟が、エローラへ行く途中にある。ダウラマバードとは「富の街」という意味だそうで、14世紀のトゥグルク朝のムハンマドが命名者だ。彼は、「首都がデリーでは遠すぎて不便だ。ここに都を移す。」と言い出し、デリーの住民に移住を命じた。徒歩で1120Kmの行程を歩かせるという過酷なものであった。この大移動で多くの人民が行き倒れ、命を落とした。水がなくて暮らしにくく、7年後に再び都をデリーに戻した。 昔から、「この地を制するものはデカン高原を制する」と言われるほど富み栄えていたそうだ。
ジャイナ教は、仏教とおなじ時代にバラモン勢力に対抗して生まれた。ジャイナ教は、ヴェーダ聖典の権威、バラモンによる祭祀のの意義、カースト制度などを仏教と同様認めない。ジャイナ教の修行者(比丘)は不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有の五戒を守る。とくに不殺生は厳守され、空気中の虫を吸い込まないようにマスクをし、地面の虫を踏み潰さないように地面を掃きながら進む。在家信者達も、不殺生を守り、土の中に出来る作物は食べないとか、(ねぎもだめだそうだ。)農業や林業は不適当で、商業や金融業に就くものが多く、大きな資産を残したといわれている。
30〜34窟
第12窟 3階建ての石窟院
カイラーサナータ寺院(第16窟)
第32窟