姫街道続き 5日目
H.25.12.21
藤枝駅からJRで新所原駅まで行き、天浜線に乗り換え、三ケ日駅で下りる。電車の窓から虹が見えた。今日は、黒い雲がかかり、みぞれ交じりの霧雨が降っている。
しばらく歩くと、右側に火の見櫓があり、「釣」というバス停があるということだったが、バス停は無かった。室町時代の文書に、津里または津利の表記があり、伊能忠敬が編纂した地図には釣村とあるので、江戸後期には現在の名前になっていたようだ。 その先に、右側の小高い所に「秋葉灯籠」の案内板とお堂がある。案内板によると(これは釣村の秋葉灯籠で、明治14年の棟札がある。石灯籠は大正5年12月の刻字がある。)とあり、鞘堂のほうが灯籠より古いということになる。普通は鍵がかかっているが、ここは、引き戸を引くと開いて、中を見ることが出来た。
護送の役人に咎められながらも付き添ってきた逸勢の娘は父をここに葬り、墓の近くに草庵を営み、尼となって菩提を弔い続けた。後に、逸勢は罪を許され、従四位下の位を贈られ、娘は遺骨を京に持ち帰ったと伝えられている。説明板によると、(代わりに埋めた銅鏡は、江戸末期に東南にあったが庄屋竹平氏により捜索発見されたが、大正末再び紛失し不明のままである。)
前回の豊文堂書店まで戻り街道を歩き始める。「吟醸酒三ケ日姫街道」の看板のある酒屋さんがある。(三ケ日宿は、姫街道一番の難所、本坂峠と引佐峠に挟まれた宿場で、峠を越える旅人で賑わった、といわれるが、旅籠の数は多くなかった。)という。 静岡銀行を過ぎると、三ケ日四辻の交差点があり、手前に三ケ日宿伝馬問屋場の案内版があるということだったが、探しても無かった。
街道に戻り、少し戻って「本坂関所跡」に行く。説明板によると(戦国時代よりこの地に関所が開かれ、地頭後藤氏が掌握していた。1600年、幕府は新居関所とともに、施設を整備した。1619年後藤氏が紀州に移ってからは、気賀近藤氏の掌握となり、さらに1624年、気賀関所の設置に伴い廃止された。)
三ケ日町本坂に入り、本坂北川を森川橋で渡る。その先の右側の細い坂道を上ると、[本坂一里塚」の北塚が残っている。江戸より72里、安間より8番目の一里塚である。傍には、7体の馬頭観音が祠に安置されている。中央の大きな馬頭観音は文久3年(1863年)の建立です。南にも大きな木が小さな塚の上に植わっている。
この解説板の向かいの細道の坂を上るのが、古道跡で、両側のミカン畑の間を歩く。ミカンを収穫している方に聞いた。「どうしてこんなにミカンが落ちているのか?」「少しでも傷があったり、青いところがある物は商品にならないので、畑に捨てる。」という答えだった。ミカンをいただいて歩き続ける。道なりに歩き、坂を下り国道に合流する。
その先の宇利山川橋を渡り、直進すると、三ケ日高校があり、高校の角に姫街道の道標があるので、左の方にカーブしていく。上り坂になり、その先に「○マミカン流通センター」があり、これは先日ミカン畑で写真を撮らせてもらったおじさんのミカン会社だった。
三ケ日交番の先の釣橋川橋を渡ると、右側に「釣橋川公園」があり、「姫街道」の絵入り看板があり、その向こうに、象の図があり、「将軍吉宗への献上の牡のベトナム象が姫街道を通った。」と書かれていた。ここでも、空にかかる大きな虹を見た。
右側に「弘法堂」があり、説明板によると(金銅製の小さな弘法大師像と御影石の大師像が2体祀られている。大正3年本坂隋道の工事の時にはすでにここにあったと伝えられているので、明治時代の物であろうか。本坂峠越えの無事を祈ったものであろうか。)今は、金銅製の像はなく、2体とも石像だった。
交差点を過ぎると、左側に岡田医院があり、その前に「三ケ日本陣跡」の案内板が立っている。それによると(ここには、姫街道三ケ日本陣「小池家」があった。江戸末期、測量のため、本陣に泊まった伊能忠敬は、「家作良し、酒造をなす」と日記に記している。小池家の末裔は現在梅原家である。)なお本陣には、八大将軍吉宗の生母浄円院も泊まっている。向かいの古い家は、石川脇本陣だったようだ。坂を下ったあたりで、三ケ日宿は終わる。
華蔵寺の先で、国道362号線は右に大きくカーブする。左側に「板築駅」の説明板があった。(平安時代の842年、橘逸勢は謀叛によって流罪となり、板築(ほうづき)駅にて死去。その板築駅は833年から843年までの10年間余りしか存在しなかった。)とあった。橘逸勢(はやなり)は、最澄、空海と入唐した秀才で、初代日本三筆の一人で(空海 嵯峨天皇)842年嵯峨天皇崩御の際に、皇太子恒貞親王を奉じて乱を起こそうと企て、露見し、皇太子は廃され(承知の変)逸勢は伊豆流罪となり、護送中ここで病没した。
旧日比沢村を抜けると、朱色の四脚門が現れる。曹洞宗華蔵寺(けぞうじ)で、鎌倉時代初期の釈迦観音像、室町時代の大日如来像、阿弥陀如来像を安置する古刹である。三尊は秘仏で、25年に一度ご開帳と書かれていた。を出てから、境内にあるという「仏を浮き彫りにした本坂道の道標」を見なかったと戻った.。
国道に入って900mほど歩くと、右側に火の見櫓があり、そこに、日比沢集落センターがあった。道路に面したお堂には、「秋葉常夜燈」が祀られていた。ここの街道には「姫街道の道標」がある。
坂を下ると、左側から362号線が合流し、道は左右に、カーブし、左側に「ミカンの里日比沢」の看板があった。「釣」のバス停がこんな所に引っ越していた。日比沢は、荷駄野(だんの)と呼ばれ、本坂峠を行き来した人馬荷駄の継ぎ立てで賑わった。
街道を進むと、文化4年(1807年)建立の鞘堂があり、右隣の石積は高札場の土台で、「高札場跡と秋葉灯籠」の説明板が立っている。旧本坂村は、間の宿で、梅藤清左衛門茶屋本陣があり、本坂峠をひかえて賑わったと伝えられています。
橘逸勢の墓
旧道は塚の間を下り、国道に合流する。左側の「姫街道」の道標がある細い道に斜めに入る。しばらく歩き、右に出る道を国道に出ると、「本坂の本坂道」と書かれた古い案内図があった。左を見ると「橘逸勢神社」の看板が見える。
舗装された道を下っていくと、民家が現れる。坂を下りきると、右側に公会堂があり、反対側には、「姫街道 西崇山宿 東本坂峠」と書かれた大きな石標がある。側面には「ましらなく 杉のむらたち 幾重にのぼりぬ すせの大さか 景樹」と刻まれている。香川景樹は、江戸時代の歌人である。
10分ほど歩くと、また旧国道にでる、国道を横断して、向こう側の細い道に入る。入り口のところに「椿の原生林」の看板があり、道の両側には、椿の木がある。案内板によると(本坂峠沿いの数百メートルに渡って椿の原生林が見られる。樹齢200年以上の木もあり、1月から3月にかけて美しい花が見られる。)とあった。早咲きの赤い花がちらほら咲き始めていて、道にも花が落ちていた。
休日切符 2600円
新所原〜三ケ日410円
長楽〜豊橋 470円
タクシー 1040円
計 4520円
旧道は、崇山交差点で国道362号姫街道(本坂通り)線に合流する。この合流地点で右に見える山の頂上には「月ヶ谷城址」、直ぐ先の市場には市場城がある。ともにこの地方で勢力を張った西郷氏の居城だたが、1562年今川方に攻められ落城している。
国道沿いに「筆の里」の看板がある。豊橋を歩いた時も街道に筆の看板を出している店があったが、今でも、「奈良の墨、豊橋の筆」ということで有名である。
オソヨ川を越すと崇山宿の西の入り口である。ここには、文政10年(1827年)建立の秋葉山常夜燈がレンガの塀に囲まれて大事に保存されている。基壇には村中安全と刻まれていた。
その手前にある家が夏目本陣のあったところで、案内図には、建て替える前の本陣の建物が写っていた。今は新しい建物が建ち、石垣と蔵の一部残っているだけである。蔵を見ようとしたが、生垣の隙間から少し見えただけだった。
この先で、左からの道と合流し、直進する。この辺りが、崇山(すせ)宿の東の入り口である。だれもこの字をすせとは読めない。 崇山宿は、旅籠11軒の小宿でした。東海道を回避した参勤の大通行の度に、人馬継ぎ立てに難渋を繰り返したといいます。 狭石(さぼうし)川を重王橋で渡り、藤下公会堂を過ぎ、蔵のある町並みを見ながら歩くと、崇山宿案内図がある。
道が広くなり、先ほどのおじさんの車だろうか乗用車が止まっていた。がたがた道をよくここまで上がってきたと思う。12時53分「姫街道」の説明が書かれた説明板のところに着いた。(8代将軍吉宗の実母浄円院の通行やベトナムからの象の通行があげられる夢とロマンの街道であった。)と書かれていた。その先に「ひだり ふどうさま」と刻まれた石があり、右のほうに行く細い道がある。先ほどのおじさんが間違えて行ってしまった不動滝だろう。
林道から6分くらいで、「崇山一里塚」の木柱がある。脇に「御油より四里」と書かれていた。少しこんもりしていたが一里塚の跡か?
「座禅岩」と書かれた平たい岩がある。また、「腰掛岩」があるということだったが、岩は沢山あるのでどの岩か分からなかった。坂を下っていくと、道は平坦になり、小さな川を茶旧川橋で渡ると「姫街道」と刻まれた石標があり、直ぐ林道に出る。旧国道362号線を横断して向こう側の道の石段を下りる。
曲がりくねった道になり「嵩山七曲り」と書かれた小さな道標がある。。ここで、下から上がってきたおじさんに逢う。「峠までどのくらい?」と聞かれたので、「ここまで下りで15分だから、30分くらいかな。」と答える。
こんな坂道を象が歩いたのかと思いながら坂を下っていくと、5分ほどで、「弘法水」に出る。昔、弘法大師が、この地を訪れた際に、のどを潤したと伝えられる水場があるが、現在は水は溜っているが、飲めそうもない。
次に、砂利道の林道を横断し、向かいの石段を上り、勾配のきつい道を上ると「本坂峠」に着きました。峠は標高382mで、遠江国(静岡県)と三河国(愛知県)の国(県)境である。入り口から峠まで55分かかった事になる。何も無いので、下ることにする。
なぜか、旧姫街道と書かれている。
5分ほど歩くと、旧本坂トンネルに向かう旧国道に出る。道を横断して、先の細い道に入る。石畳の道が途切れると、獣が掘り返したのか、荒れた道を上っていく。入り口から20分ほどで、大きな岩が現れる。「鏡岩」である。傍の説明板によると(高さ4m幅10mもある大きな岩は、昔は光って、旅行く女性たちがこれを鏡にして身づくろいをしたという。岩質はチャートの断層である。)以前行った鈴鹿峠にもこのよう岩があったのを思い出した。
本坂登山口、姫街道入り口と書かれている。
石畳の山道
道は左右にカーブし、分岐を右の坂を上って行くと、坂の手前に「姫街道・左 本坂関所跡0,5km 右 鏡岩0,9km」の道標が立っている。国道を横切り、向こう側の細い道に入る。
崇山市場バス停を左折し、突き当りを右折し天神川を渡る。辺りは柿畑が広がり、収穫を終えた柿の木の枝が四方に伸びている。二軒屋バス停で国道に出る。街道を進むと旧長楽村に入り、玉川駐在所に出る。今日はここのバス停から豊橋駅にバスで出て、豊橋駅からJRで藤枝に帰った。豊橋駅で、「カレーうどん」を食べて人心地がついた。今、豊橋はうどんを売り出しているようです。