姫街道続き
正月明けの1月5日、「姫街道歩き始め」です。早朝家を出て、JRで豊橋に出て、崇山行きのバスに乗り、前回の終点の「長楽(ながら)バス停で降りた。バス停前には、「長楽寺」の大きな石碑が建っている。その横の道を進むと、寺があった。移設された「右ごゆ道、左よし田道」と刻まれた道標を兼ねた石仏があるということだったが、境内をくまなく歩いたが見当たらない。新しい「六地蔵顔王菩薩」が建っていた。
崇山から歩いてきた国道263号線は馬場町交差点で終わり、ここからは、県道5号線となり、まっすぐに西に伸びている。この交差点の手前を右に入ると、「豊川弁才天」と「三明寺」がある。鳥居をくぐると、享禄4年(1531年)に建造された三重塔がある。説明板によると(お寺の諸堂のなかで最も古く、国指定重要文化財になっている。塔の高さは14,5m、杮葺、1層、2層は和様に、3層は禅宗様式にしたのが全国的に珍しく、3層の軒の反り、扇垂木、鎬(しのぎ)のある尾垂木など禅宗様式が認められる。)とあった。
交差点の右側に熊野神社がある。馬場熊野神社由来記によると(当神社は、本坂街道に沿いたるこの地に弘治2年(1556年)に紀伊の熊野より新宮大明神を奉斎創始す。以後、吉田城主久世氏の崇敬を受けたり。久世氏の寄進により宝永元年(1704年)社殿を造営す。明治以後、当社の社格は村社である。)とあった。
筋違橋を渡ると、左側の奥のほうに、秋葉常夜燈が建っている。
その先には、祠があり、「南無櫻地蔵大菩薩」が安置されている。その先の左手にあるローソンの手前に旧道を残しているが、このローソンはもうやっていなかった。曹源寺の隣に「三河総社」がある。
「素盛嗚神社(すさのう)」の前にあった「すき家」で牛丼の昼食をとった。昼食を食べられない時が多いが、今日は外食チェーン店が街道に並んでいる。この神社は、村社で、牛頭天王・スサノウを祭神とする。
H.26.01.05
街道に戻り、進むと、左側に、文政3年建立の、「秋葉山常夜燈」がある。手前に、「右豊川 左豊橋」と刻まれた新しい道標が建っている。ここは、長楽追分と呼ばれたところである。
名鉄名古屋本線を跨線橋で跨ぎ、国道1号線に出る。向こう側に見える道が街道だが、渡れないので、右折して追分交差点まで行き、旧道に復帰する。 旧道はヤマナカ御油ショッピングセンターのところで、追分交差点からの道に合流する。行力交差点を横断すると、御油追分に到着です。 追分には、秋葉永代常夜燈、秋葉山三尺坊大権現石標、古くなってしまったが「姫街道」の木の道標がある。
上宿交差点から車道は高架になる。右側の側道を進むと、右側の高台に「芭蕉の句碑」がある。かげろうの 我が肩に立 紙子哉 また、側面には、「従是凡六丁西名所二見別」と刻まれている。二見別とは、姫街道の終点、御油追分のことである。ここは、西明寺の参道入り口でもあり、「西明寺」の大きな石碑も建っている。「従是三丁」と刻まれていた。西明寺は、三河国司大江定基がここに草庵を結び六光寺とし、後に、家康が今川との八幡砦の戦いの折、当寺で受けた饗応に感じ入り、西明寺と改称したということです。
街道を進み、上宿交差点手前の右側に「舟山古墳」がある。三河最大の前方後円古墳で、古墳上には「上宿神社」が祀られています。
諏訪神社の参道口を過ぎると、「本宮山遥拝所」の石標がある。豊川市一宮町に鎮座する砥鹿神社は里宮とも呼ばれ、本宮山頂にある奥宮とともに古くから三河国一宮として崇められて来た。
中央5丁目を過ぎると諏訪に入る。畷道を進み、諏訪川を諏訪橋で渡ると、諏訪神社がある。信州諏訪神社から勧進された神社である。正月三が日も過ぎてしまったので、どこの神社も人気がなくひっそりしていた。 この辺りに諏訪一理塚があったようだが、確認できなかった。江戸より76里、安間より12里めの一里塚である。
しばらく歩くと「若松屋」の看板の出た店があった。豊橋に来るといつも買って帰る「ゆたかおこし」を売る店である。店に入り「ゆたかおこし」を買い求めた。
街道に戻り、県道5号を進み、「姫街道踏み切り」という名がついた踏み切りを渡った。この踏切には、JR飯田線と名鉄豊川線が通っている。踏み切りを渡ると中央通り1丁目交差点に出る。交差点を右折すると「豊川稲荷」に行けるが、御油まで行かなければならないので、パスした。豊川稲荷は、伏見、笠間と共に日本三大稲荷に数えられている。
「本願光悦入定の塚」(和尚は余命を悟り厳しい修行の入定を発心、7日間塚の中で独経され、弘治2年2月27日に示寂される。塚に松を植え、後世の人に語り継がれた。)
三谷交差点で反対側に渡ると、三河新四国霊場の幟が立っている寿命院がある。先ほど消滅した姫街道は寿命院の裏を通っていて、その辺りに安間より11里、江戸より75番目の一里塚があったというが、今は確認できない。この辺りは、こういうものを保存する気は無い様である。200mほど歩くと馬場町交差点で、消滅していた姫街道は復活する。
「中山家と当古の渡し」と刻まれた石碑も建っている。(中山家は八名郡西郷に居城した西郷弾正左衛門尉の子孫にあたり、家伝によると、祖先は西郷八城のひとつで、三本松城の代官となり、姓を中山と改めた。徳川家康が浜松城主だった頃、本坂道を通って浜松と岡崎を往復する途中、豊川の増水で立ち往生していた時、当古の渡しをした功績により、渡船の御用を任ぜられ、村に権利が移るまで、当古の渡しの運営に当たりました。昭和9年に旧当古橋が完成したのを期に、三百数十年に及ぶ長い歴史に幕を閉じました。)
公園には、「中山家旧跡」の説明板が立っている。(この敷地は、江戸時代に当古の渡しを掌り、当古村の庄屋を務めた累家・中山家の屋敷跡である。近年まで、江戸時代の長屋門・主屋や大正時代の倉が残っていた。当初の姿は、釜屋建てというこの地方独特の古い民家形式だった。) 残せば残っただろうに、残念です。
その先は、三叉路の小倉橋交差点で、下には牟呂用水が流れている。左手に見える小高い丘は、南北朝時代の南朝の忠臣、高井主膳が築城した高井城址だそうだが、何の標識もなく、城の痕跡は殆ど残っていないそうです。500mほど歩き、右に入る細い道を入り、豊川の堤防の上に出る。姫街道は豊川の当古の渡し場といわれた船渡しで渡った。坂を下った先の右側の森の辺りに渡し場があったようで、昭和9年に当古橋が出来るまで続いていたというが、今は何も残っていない。
国道を下っていくと牟呂用水の手前右に馬頭観音がある。馬の顔が陽刻され水難除けと刻まれている。そばには、「弁慶首塚ニ本松跡」の碑がある。漢文で刻まれているが、なんとか読むと「ここには、弁慶首塚松とあり、径7尺の二本の松の大木があった。一本が明治26年、もう一本が明治32年に倒れてしまった。それを惜しんで、地元の有志が碑を建てた。」とあった。傍には、その後植えたと思われる松が一本植わっていた。
その先の左側の竹林の中に、「姫街道長楽一里塚」がある。側面には、「左江戸より74里、右京より53里」と刻まれている。安間より10里目の一里塚である。
休日切符 2600円
バス(豊橋~長楽) 470円
国府~豊橋 190円
タクシー 1040円
計 4300円
東海道を歩いて、国府(こう)駅まで行き、名鉄で豊橋に出て、JRで藤枝に帰りました。1日で、姫街道60.4kmを歩いてしまう方もいるようだが、私(一部達)は、6日間かけて歩いた。引佐峠や本坂峠などもあり、変化に富んだ街道だった。一緒に歩いてくれた友人には感謝です。
細い道をぐるっと待っていくと、反対側の道に鳥居があった。国府に赴任した国司は、国内の神社を巡拝しなければならず、この忙務を避けるため、国内の神社を一箇所に集めたのが総社である。国司はここを代拝した。
佐那川にかかる金屋橋の手前に中央通り公園があり、「佐那川鯉保護碑」がある。
三明寺
「弁財天を拝むことが出来るか?」と寺の方に聞くと、「御開帳の日だけ出来ます。」ということだった。
睦地区市民館の標識を過ぎると、右側に三谷原神社がある。往時は雨谷天神と呼ばれ、旧三谷原村の鎮守であった。
県道380号豊橋一宮線を横断した先の右側に、「社殿」があり、文政2年建立の「秋葉常夜燈」が建っている。 旧道を進むと国道362号線に突き当たる。ここから先は街道が消滅しているので、国道を歩きます。
堤防に戻り、橋を渡って、堤防を少し歩き、下に下りると、連子格子の古い家があり、その前の細い道に入る。
橋を渡ると、豊橋市から豊川市に入る。橋を渡って左折ししばらく行くと、「当古橋公園」がある。当古橋公園の前には、古い石仏やら石碑や祠が集められている。この辺りを整理した際にここに集められたのだろう。