姫街道続き  3日目

H.25.12.07

浜松までJRで行き、気賀・三ケ日行きのバスに乗る。35分で、前回の続きの「追分」に着いた。早速、「姫街道の松並木」が残る道を歩き始める。昔は、両側にあった松も、今は左側だけに、残っている。 松並木の中ほどにある案内板によると(この街道を、姫街道と呼ぶようになったのは、江戸時代に入り、特に婦女子の道中が多くなった為と言われている。現在は片側に3kmに及ぶ松並木がある{伝来}奈良時代には、畿内七道諸国の街道に果樹を植えて、飢饉に備えたこともあったが、並木が全国で植えられたのは、江戸時代になってからで、多くは松を植えた。夏は休息の木陰、冬は積雪を防いだといわれてる。江戸時代に並木が整って街道が美観を呈したのは、幕府がその保護に留意したからである。)

午後2時をまわったので、近くの片町のバス停からバスに乗り、1時間ほどで、浜松駅に着いた。大体今日歩いた道を戻っているようだった。家に帰り、気賀で買った立派な渋柿を剥いて、干し柿にした。右のほうにあるのは、3週間ほど前に干したもので、そろそろ食べられそうです。

細江神社の由来は(明応2年(1498年)の大地震の際、浜名湖は外海とつながり、その時の津波により、現在の新居町にあった角避比古(つのさくひこ)神社は流没した。御神霊は、奇跡的に伊目の十三松に漂着したにで、里人は仮宮を建てて祀った。しかし、12年後、再び地震による津波で、気賀の赤池に漂着した。赤池に仮宮を建てた翌年の9月に里人は、現在地に社殿を建てて、牛頭天王社、気賀の総氏神として祀った。現在地に転座されたのは、1510年で、祭神はすさのうの命と奇稲田姫命で、7月の祇園祭りでは、ご神体が浜名湖から船に乗って、渡御される。

大蛇と大蝙蝠の戦い」(、この楠の大穴の中で、大蛇と大蝙蝠が、「この楠の主は俺だ」と互いに言い張り大喧嘩になった。この戦いは三日三晩続いた。お互いに傷だらけになり、力尽きた。楠の大穴の中には、今でもその時に流した血の跡が残っている。)

藺草神社(気賀近藤家6代、用隋は、1707年の大地震で、気賀村の田畑の大半が湖水に浸かり、作物がとれなくなったのを見て、大阪大番頭勤務時代、琉球藺(七島藺)が潮が入った田や葦が茂る深田にも適することを学んだので、豊後国の松平氏からその苗を分けてもらい、領内の米のとれない田に広め、畳表を織る方法を研究した。藺草神社は、藺草栽培の隆盛の基礎を築いた用隋を祀る神社である。)そばに、その藺草が植えられていた。

街道に戻って歩くと、旧NTTの建物の手前に、「気賀宿本陣中村家跡」の案内板がある。(気賀は、天正15年(1587年)本多作左衛門重次により、宿と定められた。東海道本坂通でもっとも重要な宿場で、本陣は中村家が勤めた。本家は宇布見村(現雄踏長町)の中村家で、家康の次男、結城秀康が生まれた家である。作左衛門の世話で、中村家の次男与太夫が気賀代官となり、これが後に気賀本陣中村家となった。)また、その隣に民家の前に、「気賀宿本陣之址碑」が建っていた。

その向かいには、本陣公園があり、門のような建物の左側にお堂があり、馬頭観音が祀られている。傍にある説明板によると、(もとは、正明寺の北側の犬くぐり道にあった小さな馬頭観音で、この公園ができた時に移された。寛政12年(1800年)に造られたもので、領主の近藤家のものではないかと言われている。国道362をもじって弥勒路の馬頭観音として、往来する車との交通安全の守護神としてご加護ありますように、御参詣をお勧めします。)

境内には、樹齢500年といわれる、樹高25mもある大きな楠が7本ある。

落合橋を渡り、交差点を直進し、天竜浜名鉄道のガードをくぐると気賀四ツ角交差点に出る。「うなぎの清水屋」の看板を見て、ちょうどお昼で、お腹もすいたし、寄り道をしました。以前、浜松に住んでいた時に来たことがある、ウナギの名店である。美味しいウナギを堪能しました。街道を歩く時、一人では、なかなかお店に入れないので、昼は持っているおやつで済ましてしまうが、今日は、相棒がいるので心強い。

この後、道が分からず、ぐるぐると同じ所を歩いてしまったが、最終的に、歩いた所を書き記します。

タンク右側の細い道に入る。入った所に「姫街道」の道標が転がっていた。この辺りの古い道標はおかしな所にあるので、「ここではなくて、入り口に置かないと分からないよね。」と言いながら、看板をあちこちに置いてみる。突然昔の道になった長坂を歩いていく。右側に「服部小平太最後の地」の石碑がある。(小平太は、信長亡き後、家康の家臣として当地を治めていた。元は、今川領だったこの地方には、桶狭間で戦死したものもいて、彼に恨みを持つものもいた。この辺りを一人で、巡視の折、ここで何者かに討たれた。)

5分ほど歩くと、「富士見通り」の道標がある。細い道が左に向かってずっと続いているので、この道がそうで、富士山がよく見える所なのか。 この先に、地名が書いてあるカーブミラーが何本かあった。これは、不動平(ふどうびら)と書かれていた。 奥大谷バス停の先で歩道は無くなり、三方が原追分から続いた松並木が終わった。この先で、旧細江町に入る。

右側に「馬頭観音」を祀った祠があり、道の反対側には、「東大山一里塚跡」がある。説明板によると、(この一里塚は、織田信長が、一里を36町と定め、街道の一里ごとに塚を築き、その上に榎または、松を植えて、目印としたのが始まり。日本橋より67里の場所で、西は気賀・三ケ日を経て本坂を越え、嵩山にいたり、更に三河御油に達して東海道に合する。)

しばらく歩くと、「権七店→」の道標があり、傍の説明板によると、(三方原追分」で左に折れると、鬱蒼とした松並木が続いている。ここから権七店までは、家が殆どないさびしいところであった。約100年以上も続いた権七店は、近隣の人が寄り合い、井戸端会議に花が咲い社交場でもあった。店先にはヤマモモの木があり、そこに馬方が馬をつないで、休息した。店では、駄菓子、団子、酒等を売っていた。)

ミカン畑の間の農道を通って行くと、千日堂と馬頭観音を祀った祠、左手には、小さな神社がある。説明板があった。 これまで、休むところが無かったので、ここの石段を借りて、休憩する。

交差点の手前に、「気賀関所」の絵看板があった。また、「夢舞台 姫街道 気賀宿」の道標も建っている。

姫街道続き

藤枝〜浜松  1900円
バス      340円
バス      590円
バス      160円
計      2990円
 

街道に戻り、少し進むと、右側に、郷社細江神社の標柱と鳥居、常夜燈がたち、道の脇には、「浄水井乃跡」の石柱が立っている。石柱の側面に(気賀領主近藤氏は、代々防火に意を注ぎ、氏神の社前に浄水井戸を設け、火に備えた。偶々出火に際し、大いに役立ったことから、町並み1町ごとに掘井戸、金井戸を造り、町家の飲料と用水兼ねさせた。)

国道362号線に沿って進むと、右側に気賀小学校に通じる坂を上ると、大きな椎の木があり、「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」の看板が出ていた。(気賀小学校とこの周辺を陣中といい、江戸時代、旗本近藤家の陣屋があったとことである。近藤家は気賀の領主であり、気賀関所も近藤家が治めていた。この椎の木は、陣屋の庭に植えられていたものと言われ、現在陣屋の面影を残すものは、この椎の木だけである。この椎の実は大変大きく、近藤家が毎年幕府に献上したことから、江戸椎と呼ばれるようになった。)付近を捜したが、椎の実は落ちていなかった。

しばらく歩くと、「気賀関屋」こちらの矢印がある。行ってみると「細江町指定建造物 気賀関屋」の看板があり、古い家がある。さっきの説明板と同じことが、書かれていた。

向かいの角には、「史跡 気賀関址」の石柱と、「気賀関屋」の説明板があった。それによると(気賀は、1587年、本多作佐衛門によって街道の宿と定められた。山手に土塁、南は堀川、東に関所と葭垣、西に生垣と矢来と枡形があり、その中に、本陣、問屋場、旅籠をはじめ、民家約100軒が町並みを作っていた。気賀関所は、気賀宿の東の入り口にあり、慶長6年(1601年)家康の命により、東海道本坂通りの交通取締りのため、創建された。関所の建物は、当初は萱葺きだったが、1789年に柿葺き、切妻破風作り 、狐格子、瓦棟に改築された。しかし、屋根は1854年の大地震で葺き替えられ、昭和35年まで残っていた。現在の建物は関屋の正面に向かって左の部分三分の一で、下の間、勝手の間の部分です。屋根の切妻破風作り、狐格子が残されている。)

気賀宿は、東の入り口から、西の獄門畷までの五町五十三間(約640m)。本陣と問屋場は、各1軒、旅籠は8軒だった。

気賀宿

その先の信号三叉路で、県道と合流する。都田川と井伊谷川の合流する所を落合といい、ここから下流を落合川といった。江戸時代には、気賀関所の要害川になっていたため、橋はなく、人々は渡し舟で渡っていた。渡しが無いので、都田川にかかる落合橋を渡る。橋の説明板によると(川幅は渡船場で、約56m、川の東は浜松領、西は近藤氏の気賀領でした。現在の橋は、昭和52年に完成したもので、明治から4代目の橋です。)歩道の付いた立派な橋でした。 橋を渡ると、姫街道2番目の宿場気賀宿に入る。

入り口を左折し、刑部川を渡り、川沿いに進む。次ぎの橋を渡り、しばらく行くと、「金襴の池」の説明板があった。説明板によると、(昔、この辺りには、美しい金襴の蛇が住む大きな池があった。今から400年余り前、この近くに刑部城という小城があった。浜松城に移ってきた徳川家康が、勢力を伸ばそうと戦いを繰り広げ、この城に攻め込み、ひとたまりもなく敗れてしまった。刑部城主には美しい姫がおり、姫は、敵兵にかかって恥をさらすのを嫌い、この池に入り、金襴の蛇に姿を変え、池に住んでいるというお話です。今は埋め立てられて、池は残っていない。)

城址の説明板から左の方に歩き、最初の角を左折する。こんもりとした森を左に見ながら進むと、鳥居が見える。刑部城址に建てられた金山神社である。「館跡」や「二の郭」の標識が立つ細い道を歩いていくと、石段があり、上ると、社殿があった。 

長坂を下り、広い道に出て、向こう側に渡ると、「刑部城址」の説明板がある。(阿王山紫城とよばれるこの城は、三方を都田川に囲まれた要害の地に築かれた。戦国時代の1568年にこの地の人々がここに城柵を築いて立てこもり、徳川軍との戦いに敗れた。姫街道の位置は現在とことなり、城の東を通って、落合川の渡し場へ通じていた。)

民家の前に「老ヶ谷一里塚」の石碑があり、「老ヶ谷一里塚と長坂」の案内板があった。{ここには、江戸から68番目の一里塚があった。道の両側には、松を植えた築山があった。近くには、富士見茶屋とよばれる茶屋もあった。ここから新屋にくだるさか道を長坂という。坂の途中には、桶狭間の戦いで、今川義元の首をとった服部小平太の最後の地がある。

300mほど先の坂の角に、「長坂改築記念碑」があり、正面にお姫様の描かれたタンクが見える。姫街道はそこに向かって歩いていく。

両側は、ミカン畑や茶畑があり、ミカンが黄色い実をたわわにつけている。右側に文化8年(1811)建立の秋葉常夜燈が建っている。姫街道は心右折する。そばに。「老ヶ谷秋葉常夜燈」の説明板があったが、字がかすれてよく読めなかった。常夜燈の切り絵が描かれていた。

しばらく歩いていくと、交差点に六地蔵がある。傍の説明板によると、(裏の竹藪が、昔刑場だったため、その霊を慰めるため建てられた。1711年建立)の北側には、夢舞台 姫街道 六地蔵の懐かしい道標があった。

湖東交差点を越えて、少し進むと湖東西バス停があり、その先の左側のガードレールで遮断された狭い道に入る。垣根の所に「姫街道」の道標があった。

道は下り坂になり、左にカーブし、和地大谷川に架かる大谷橋を渡る。江戸時代には、橋はなく、川の中の石の上を飛んで渡ったという。更に進むと、湖東交差点手前の左側に、曲がり松と松島湖十の句碑がある。説明板によると(ここには、樹齢500年を越える、あたかも地中から這い出て、体がよじれた竜のような松があり、曲がり松と呼ばれていた。ここは、姫街道と庄内二俣線(旧道)の交差点で、江戸時代には、気賀の領主や街道を通る行列送迎した場所であった。「松奏離歌」と題する松島湖十の句碑は、郡長を辞した日に、曲がり松まで送りに来た郡民との別れの感慨を詠んだもの。また、昭和天皇「御巡行記念」の石碑がある。昭和48年、松は枯れてしまい、有志により、松が植えられ、句碑の破損も修復された。)別るるは また逢うはしよ 月の友

標柱の前のバス停は、「権七」で、少し先の交差点も「権七交差点」だった。一里山南バス停を過ぎると、大山口交差点。交差点を越えた一里山バス停がある。、

三方が原台地には、畑が広がり、大根を植えていたようで、収穫した大根をこのように干していた。