姫街道続き  4日目

H.25.12.14

山道を抜けると、「山田一里塚跡」石碑がある。江戸より69里、安間より5里目の一里塚である。くたびれた やつがみつける いちりつか

六部とは、六十六部の略で、法華経を六十六部写経して、厨子を背負って、日本全国六十六ヶ国の霊場に一部づつ奉納して回った行者のことです。)

「姫街道」の道標のある広い道に出る。右折してしばらく進むと、左手に三ケ日地域自治センターがある三叉路は直進し、坂道を上がる。左側に消防署の分署があり、火の見櫓がある。その脇の植栽の中に、「旧姫街道一里塚碑」が建っている。(三ケ日一里塚は、安間から7番目、江戸から71番目の一里塚である。昔は両脇に5間四方の土盛りがあった。)

姫街道の道標 「左三ケ日一里塚0,2km 右宇志高札場跡0,3km」

交差点を渡り、向こう側の細い道に「姫街道」の道標がある。ここは、宇志集落で、左側の畑の中に、「茶屋跡」の案内板と「片山竹茂の墓」の標示板、少し先には、「高札場跡」の案内板が建っている。「茶屋跡」の案内板によると(ここは、宇志の茶屋跡で、「宿村大概帳」に姫や大名など身分の高い人が通った時、茶で接待したことが記されている。一般の旅人もここで、草鞋を買ったりした。三ケ日町内の引佐峠、本坂峠、大谷、駒場にもあったようだ。)

東名から10分ほど歩くと、交差点に出る。右側には、「瓦塔遺跡」と書かれた看板が立っている。(瓦塔は、奈良時代から平安時代にかけて、経済的な理由から木造のかわりに瓦で建立された小塔である。建立された瓦塔はすべて破壊し、東京都の東村山と当地で発見された破片で復元されたものが存在するだけである。遺跡跡には、奈良博物館に保管されているコピーが置かれている。)

この先で、姫街道は東名高速道路によって消滅している。この先は、迂回路と旧道のトレースになる。

慈眼寺の説明板によると(明治初年の駒場村の大火で古い寺は焼失した。後年佐久間の阿弥陀堂を購入し移築された。この庚申堂は、三間4面の凝った建築物で、中には青面金剛像が祀られ、十二年に一度の庚申大祭がある。堂の格天井には、1847年に描かれた内陣36枚、外陣60枚の美しい花鳥画がある。)

三ケ日町駒場(旧駒場村)に入り、分岐に姫街道道標がある。道標の向きがおかしかったが、右の道に入る。先に進むと、右側に慈眼寺庚申堂がある。ずいぶん立派なお堂で、境内には、文化2年建立の秋葉山常夜燈や屋根に「秋葉山」の瓦が乗ったお堂などがある。

石投げ岩」(引佐峠を登り下りする旅人が、この岩に石を投げて旅の無事を占い祈ったと言われる。)私も岩に向かって石を投げてみた。岩の上には沢山の石がのっていた。 途中から農道として利用されている道になる。坂を下りきり、左からの道と合流し、平坦な道を行くと、「大谷一里塚跡」の石碑がある。安間から6番目、江戸から70里目の一里塚である。 

象鳴き坂」(1729年、広南国より献上の象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途中、船で渡る今切を避け、姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道に悲鳴をあげたので、村人はこの坂を「象鳴き坂」と名づけた。)

姫街道の説明(奈良時代の万葉集には、遠江における東歌は、湖北路においてのみ採録されていて、「二見道」と称されていた。平安時代には、橘逸勢や僧万巻の通った事実があり、近世になると「東海道本坂通り」と称され重要な脇街道であった。姫街道の名は、江戸末期から文書に見られ、見附から御油まで約60kmの街道をいう。)

石畳の道は、姫岩の先で、細い舗装路に合流する。この先、3ヶ所の分岐があるが、いずれも姫街道の道標があり、右に進む。三ヶ所の分岐を過ぎると、眼科下に浜名湖が広がり、道は石畳になる。

明るく開けたところに出ると、姫岩がある。傍の色鮮やかな説明板によると(ここは、眼下に浜名湖を望み、街道随一の眺めのよいところである。昔、姫様の行列もここで休み、しばらく景色を眺めながら石畳を歩いた。また、8畳ほどの平らな石は「平岩」と呼ばれていたが、いつの間にか、「姫岩」と呼ばれるようになった。この上に座るとよいことが起きると言われている。近くには、「姫様井戸」も残っている。、)今は、樹木のさえぎられて、浜名湖は見えません。大名行列が来ると、近藤家の家臣がここで出迎え、湯茶の接待をしたということです。

直ぐに、左に下る細い道に入る。「小引佐」の説明板と姫街道道標があった。復元された石畳が続いている。説明板によると(ここは、小引佐と呼ばれ、姫街道でも引佐細江の景勝地として知られている。岩根に向かって下りる坂のおり口には「賽の神」、坂の途中にはお地蔵様が祀られている。お地蔵さまは、江戸時代の終わり頃、この付近で処刑されたキヨゾウの霊を弔ったものと言い伝えられている。)賽の神は、村の境の辻に祀られ、悪霊や疫病が村に入り込むのを防ぐと信じられていた。

急な坂道を下ると、車道と合流する。車道を進むと、右側の民家の前に池がある。「巨人伝説の池  だいだらぼっち」の看板があった。(琵琶湖を掘った土で富士山を造ったという巨人・だいだらぼっちの足跡と伝えられた池である。尉ヶ峰に腰をかけて弁当を食べていた時、ご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたところ、礫島が出来た。腰をかけていた尉ヶ峰は、少し低くなってしまったそうです。)その先の三叉路の右角に馬頭観音道祖神が祀られている。

街道が下り坂になると、左手に二宮神社がある。小路を入っていくと、「マムシ注意」の看板があちこちに立っている。 ここは、後醍醐天皇の皇子、宗良親王の御座所があったところで、案内板によると(宗良親王は、南朝勢力の増強を図るため、井伊道政の所に滞在していたが、奥州から北畠顕家の軍と浜名の橋本で合流し、京に上るためここを出陣した。駿河姫は親王を見送るため、この地に来ていたが急病で亡くなったので、ここに社殿を建てて、駿河姫を祭神として、姫愛用の鏡を祀ったのがニ宮神社である。境内にある、ホルトノキ2株、ナギ1株の大木は細江町指定天然記念物である。)

坂を上ると、右手に、自然石の道祖神がある。その先に、南無妙法蓮華経と書かれた石碑と小さな祠がある。

この先の左側に呉石バス停があり、その先の三叉路を右に入る。少し行くと、「活民院殿参道」の石柱がある。細い坂道を右の方に入ると、途中に、「新田喜斎公之碑」があり、「墓は全得寺へ移転」と書かれていた。

遠州一ノ宮円田郷

天竜二俣駅

気賀関所は、慶長6年(1601年)に、徳川家康によって創設された。敷地は547坪で、裏に竹やぶ117坪、東側に冠木門。この門を入り正面に旅人を調べる本番所、南側に牢屋が設けられた向番所、更にその南に遠見番所、西側は町木戸門で気賀宿と接していた。 気賀関所の関守は、元明5年(1619年)から明治2年の関所廃止まで旗本近藤家が代々拝命した。番頭2名、平番4〜5名が交代で取り調べにあたった。

藤枝〜三ケ日   1400円
三ケ日〜新所原  410円
新所原〜藤枝  1450円
計         3260円
 

片山竹茂は、江戸時代後期の宇志八幡宮の宮司で、俳諧の指導者として尊敬されていた。

賽の神は、村の境の辻に祀られ、悪霊や疫病が村に入り込むのを防ぐと信じられていた。

参道の向こうに石段があり、こちらが神社の正面で、石段の下には鳥居もあった。ホルトノキが天高くそびえていた。

根元で2本に分かれたホルトノキ

向番所の牢屋 関所では珍しい

遠見番所からの眺め

気賀駅

金指駅

都田川橋梁

宮口駅

天竜川橋梁

街道に戻りしばらく行くと、堀川城将の一人、竹田十郎高正が建立し、一族の菩提寺とした全得寺があり、参道の坂道に「知足山全得寺」の標柱が建っている。右側に、諏訪神社の鳥居があり、鳥居前には、龍燈鞘堂があり、中に常夜燈が置かれていた。

姫様館

中村本陣に残る手形

6時54分のJRで、藤枝駅から掛川駅に着いた。7時34分の天竜浜名湖鉄道に乗り換え、9時10分に気賀の駅に着いた。天竜浜名湖線は、掛川〜新所原を結び、天浜線と呼ばれている。11の駅舎が、有形文化財に指定されている。約2時間かけてゆっくり、のんびり走っている。

両側にミカン畑が広がる道を歩いていく.。ミカン畑の中にY字路があり、姫街道道標に従って左に進み、緩やかな坂を下る。坂を下ると、三ケ日建築作業所の手前を左折する。左側の樹木が茂っているところが黒坂の森といわれているところで、道脇に六部様の矢印標示があった。林の中を上って行くと、六部様の墓がある。傍の説明板によると、(1767年、大谷村と都築村の村境で行き倒れになった六部の忠道円心を祀った所である。背負っていた厨子の中の仏像は、大谷の高栖寺に子授観音として祀られている。)

黒坂橋を左に見て、川沿いの道を進み、三ケ日建築の所を左折し、県道308号に合流する。都築大谷川に架かる大谷橋を渡ると、右側に大野代官屋敷跡がある。傍の説明板によると(ここは、江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で、今も子孫が居住している。土地の人々は、大野家を「お代官様」この屋敷を「代官屋敷」と呼んでいる。北方に近藤家陣屋跡がある。)

再び、林の中を歩くと、引佐峠に到着した。引佐峠の説明板には(この付近は旧細江町と旧引佐町の境で、引佐峠(標高200m)と呼ばれている。姫街道の昔の姿をよく残している。)とあった。

遠州森駅

東名高速の大里歩道橋を渡ると、先ほど消滅した姫街道がここで合流する。「高速道路によって分断された姫街道」の説明板が立っていた。両側がミカン畑の道を歩く。ミカンの収穫をしている人が沢山いて、この辺りは「○マ」の畑のようだ。何号車と書かれた○マのトラックが並んでいた。ミカンを運んでいるおじさんに写真を撮らせてもらった。

鬱蒼とした林の中の石畳の道を進むと、石の階段が現れる。階段を上り、7号支線農道を渡ると、東屋がある。「細江奥浜名湖展望公園」の看板が出ていた。

4分ほど林の中を歩くと、「堀川城戦死者之碑」と「山村修理の墓」がある。説明板によると(戦国時代、気賀、中川は今川、徳川の勢力の境界地域であった。気賀の領主で、今川方の新田友作は、かって今川義元の家臣であった尾藤主膳、山村修理とともに、堀川城を築いた。徳川家康の攻撃に落城してしまった。遠州に攻め入った家康軍に対し、一揆を企て、堀川城にたてこもった。1569年1日で、落城し、捕虜700人が、吾石の塔の下で、処刑された。舟で逃れた山村修理は、燃え落ちる城を見ながら、切腹した。かってここには、松の古木があり、「修理殿の松」といわれていた。)

気賀の駅に着いた。駅の南側に、復元された「気賀関所」がある。「通行手形」を200円で買い求め、中に入った。

東名高速道路に突き当たり、東名沿いを進み、三ケ日2隧道で東名をくぐる。街道が右に大きく曲がる辺りで旧道が復活する。十字路の先で旧道の道幅が狭くなる。(ここで、右折してしまい道に迷った。ここは直進です。)直進して三ケ日06隧道をくぐり、道なりに歩く。しばらく行くと、「姫街道 大里峠0,5km」の道標があり、左の細い道に「大里峠」の説明板が立っている。(江戸時代から小さな難所といわれたこの峠は、雨天にはこの道路が川となり、悪坂といわれた。現在は東名の開通により通行は少なくなったが、地元の有志による清掃奉仕により昔の面影を残している。)とあった。

しばらく街道を進むと、左側の石積の上に「堀川城最後之地」の石碑と「獄門畷」の案内板がある。(永禄3年{1560年}桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、堀川城を建て、最後まで戦った。1569年、堀川城に2000人の男女が立てこもり3000人の家康軍に攻められて落城した。大久保彦左衛門の記録に、「男女共になで切りにした。」とある。その後捕らえられた700人の人々も、この付近で、首を打たれ、この小川に沿って首を晒したので、「ごくもんなわて」といわれるようになった。)

豊文堂書店手前で、三ケ日駅に向かう。三ヶ日駅本屋は、有形文財に指定されている。駅のカフェで遅い昼食をとり、新所原までで、JRで藤枝駅まで帰った。

「浜松市環境資源百選」の看板には、姫街道の説明が書かれていた。ここで、しばらく休憩し、また歩き始める。

ここが、引佐峠の入り口で、薄暗い林の中を歩いていくと、赤い着物を着た石仏が置かれている。

薬師堂前を直進し、岩根川を渡り、突き当りを左折する。民家の石垣がある急な坂を上ると三叉路で、姫街道の道標に従って右折し、100mほど道路を進むと、右にカーブする所の左側に、石を敷き詰めた石畳の細い道がある。岩根から引佐までの間で、古い石畳が残るのは、姫岩の直ぐ下と引佐峠の二ヶ所のみである。

坂道を下ると、岩根の集落に入る。舗装の道路を歩いていくと、「薬師堂」と「秋葉山常夜燈」がある。薬師堂の説明板によると{岩根地区の姫街道沿いに建てられた辻堂である。本尊の薬師如来の台座の裏の銘文から、天保6年(1835年)に再建されたことが分かる。お堂の西隣には、文化2年(1805年)に建てられた常夜燈がある。

馬頭観音と道祖神の左側の道を進み、ミカン畑の中の坂道を上っていく。坂の頂上に着くと、左手に浜名湖が一望できる。道路わきに、清水みのる氏の詩碑が建っている。「姫街道 尋ねようもない 幾歳月の流れの中で 姫街道は今も静かに息づいている 」清水みのる氏は、「森の水車」や田畑義夫の「帰り船」の作詞で有名です。

小森川を渡り、しばらく行くと、「吾跡川楊」の標識がある。行かなかったが、ここにあった楊の大木は京の三十三間堂の棟木に使用されたということです。 T字路に突き当たり、右折する。直ぐに、斜め左の山道に入る。

姫街道は、長楽寺川を小深田橋で渡り、その先のY字路を右に進む。そこに「是ヨリ金地院道五丁」と刻まれた石標がある。金地院は、建武2年(1335年)に蜂起した足利高尊氏に対抗して挙兵した後醍醐天皇の皇子宗良親王の妃駿河姫を祀っている。足利軍との戦いに井伊谷より出陣したおり、姫も同道したが、この地で、急逝し、当山に埋葬された。

街道は、下り坂になり、長楽寺入り口バス停先に、呉石田園公園がある。「呉石学校の跡」碑があり、隣に正座した侍の像が安置されている。台座に「二宮尊徳」とあった。普通は、金次郎が薪を背負って本を読む像だが、武士の姿は珍しい。

なおも坂道を上がると、「気賀近藤家墓所」の案内板があり、その奥に近藤家代々の墓所があった。説明板によると(気賀近藤家は、明治維新まで250年間、12代にわたって気賀を領地とし、気賀関所を治めていた。ここは、御下屋敷とか、御所平と呼ばれ、分骨した領主の墓が、気賀の領地を見下ろすこの場所に祀られた。六代用隋の墓石には、「活民院殿」と刻まれている。用隋は宝永の大地震で、塩水に浸かり米がとれなくなった荒田に七島藺を植え、領民を救った。)

なお坂道を上がると、「姫地蔵」が祀られ、その奥に「六地蔵」が祀られていた。(近藤家の姫がこの地蔵に願掛けしたところ皮膚病が治ったという。)

10分ほど歩くと、左側に、秋葉山常夜燈がある。傍の「気賀宿の枡形と燈籠」の説明板によると(江戸時代には、山手に土塁、南は堀川、東に関所と葭垣、西に石垣と矢来の桝形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ民家約100軒が町並みを作っていた。この桝形は、気賀宿の西の入り口にあたり、一対のL字型の石垣の上に、土を盛り、矢来を組み、門が設けられた。道路拡張のため、向かい側の石組みは取り去られた。石組みの中に瓢箪の形をした石がはめ込まれている。この常夜燈は安政4年{1857年}40両の大金を集めて造られたものである。)気賀宿はここで終わる。

駅に戻り、前回の続きの「本陣公園」まで歩く。公園前には、お堂があり、「馬頭観音」が祀られている。向かいには、正明寺があり、半僧坊が守護した臨済宗方広寺派の寺で、気賀宿本陣中村家の菩提寺として栄えた。

姫様館には、江戸期の駕篭、姫様道中を表した版画、中村本陣の宿札、手形など関所、宿場に関連した資料が展示されている。

姫君様行列之図

町木戸門

本番所

冠木門

姫街道続き