H.25.12.01
姫街道続き
大養禅寺の先で消滅した姫街道は、踏み切りを超えた辺りから県道161号として復活する。有玉南町交差点を越え、公会堂を見ながら左にカーブすると、馬込大橋北交差点がある。左右の道は、国道152号(秋葉街道)である。
姫街道は、ここから長い直線の道になり、江戸時代には、八丁畷といわれた所である。西に約1km歩くと、与信北小学校交差点の左側に市野ゴルフ場があり、その先の右側に浜松テクノカレッジがあった。その庭に「丹庵江川先生之碑」がある。韮山反射炉を造った江川坦庵との関係が書かれていたが読みにくく読みきれなかった。
2日目
ここから5〜600m歩くと、元追分交差点で、左から来る道(257号)が、江戸中期に幕府の道中奉行の直轄になった、浜松を基点とする浜松道である。この道が出来たため、市野宿が疲弊した。交差点の真ん中に「奥山半僧坊大権現」の標柱が建っている。
浜松駅から、与進小学校前までバスに乗り、そこから10分ほど歩き、前回の下石田交差点から、歩き始める。サークルKの所に「姫街道」の道標が立っている。県道361号を直進する。
坂道を上がり坂道の頂上に出る。しばらく歩いて、萩原荘に出る。また歩いていくと、一里山交差点に出る。交差点を越えて少し歩くと、左側に「追分一里塚」がある。小高くなった所に松が数本植わっていた。
その先の三叉路を右折して、261号を北上すると、黄檗宗の「長福寺」がある。少し先の左側に姫街道で最初の「小池の一里塚跡」の碑がある。小池交差点を直進し、200mほど進むと道は二つに分かれる。県道261号は左にカーブしていくが、姫街道は直進する。右側に、シャチホコが屋根の上に載った龍燈がある。臨川山大養禅寺で、龍燈とは「燈明堂」のことである。 説明板によると、(以前は、大養禅寺の南側を姫街道が通り、その道沿いに秋葉常夜燈が建っていた。
寺の前を進むが、この辺りから姫街道はなくなっている。橋を渡り、交差点を右折して、県道261号に合流する。右側には、円鉄自動車学校があり、遠州鉄道の踏み切りの所には、「自動車学校前」の駅があった。
市野交差点を横断し、県道296号と合流する突き当りの三叉路を左折する。継ぎの交差点を左折し、二つの分かれた道で、261号と別れて、右の細い道に入る。このあたりは、宿場独特の枡形の跡で、江戸時代には、市野宿の西の入り口であった。県道261号を歩き、直ぐ右折すると、熊野神社がある(江戸時代には、熊野三社大権現と呼ばれ、正福寺(現在は廃寺)もあった)。街道に面した鞘堂には、秋葉神社常夜燈が納められている。境内には、経塚に「郷中」と刻まれた自然石があり、宝篋印塔がある。
まだ12時15分だったが、腰の具合も心配だったので、追分のバス停からバスに乗って浜松駅に向かった。
浜松〜藤枝 1900円
バス 160円
バス 350円
計 2450円
その先に、「馬乗場跡」その向こうに「姫街道」の道標があった。
(この宝篋印塔は、1746年に造立された。当時ここには、鴨江寺の末寺正福寺があった。市野村代官・市野家の領地であった浅羽一色村の人々が功徳を願って寄進した。遠州地方最大のもので、高さが3,5m以上ある。)
道は、左にカーブして安間川を渡る。右側に「姫街道」の木の道標が立っている。江戸時代には、この先には、姫街道の市野宿があった。この辺りは、市野宿の旅籠などがあったところだが、当時の面影は残っていない。斉藤本陣があったところも表示が無いので、分からない。 右のような「料理旅館」と書かれた古い家が、残っていた。
交差点を少し戻ったところに、懐かしい「東海道 夢舞台 追分」の道標と、「権現様跡」の標柱が建っている。案内板によると、(昔ここに、権現様というお宮があった。明治の初めに、この地に入植した幕臣達が、家康を祭神として祀った。境内には、明治の政治家で、当時静岡藩知事であった徳川家達手植えの松が、昭和45年に設置された交番・消防派出所が建設されるまであった。現在、ご神体は葵東照宮へ、社殿、鳥居、手洗い鉢は萩の原神社へ移された。)
(市野宿が衰退したのは、明和元年(1764年)に東海道の浜松宿から三方原追分で本坂道に合流し、気賀宿に抜ける浜松道が幕府の道中奉行直轄となったためである。旅人は宿場町として大きい浜松宿に泊まり、歩く人の流れも変わった。市野宿は浜松宿に押されて衰退し、宿場機能を失った。)
ここから、「姫街道の松並木」が始まる。松並木は3、7kmに渡って道の左側に続く。これだけ長い松並木は、全国でも残り少ないらしい。
電柱に「小豆餅」と表記されている。小豆餅は1丁目から4丁目まである。名前の由来は、家康が、三方原の戦いで、信玄に敗れた際に、敗走の途中で、この近辺の茶屋で小豆餅を食べた伝説に由来する。家康が餅を食べている時に、信玄軍が追ってきたため、代金を払わず馬に乗って逃げた。茶屋の老婆が走って追いかけ、家康に追いついて代金を払わせた。老婆が追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は「小豆餅」の地名は残っているが「銭取」の町名は残っていない。遠鉄バスのバス停の名として残っている。帰りにのったバスで、「銭取」のバス停があった。小豆餅と銭取の距離は6kmだそうで、おばあさんは6kmも追いかけたことになる。
道を直進すると、「秋葉常夜燈」があり、その先に、「最古の道標」がある。説明板によると、(姫街道沿いに今も残る道標の中では最も古い。「右 きが かなさし 左 庄内道」と刻まれている。かってはここが、姫街道と庄内道の分岐点であった。ここから姫街道の二重坂を上がると三方原台地である。)道が県道に合流した坂道にも姫街道の道標があった。
県道を横切って、坂道を上るこの坂は、三方原台地への宇藤坂である。坂道を上って行くと、上りきった正面に黒い板壁の倉がある。
馬込川に架かる五枚橋に出る。名前の由来は、川に置かれた石の上に、五枚の板を並べた仮板橋だったことによる。 橋を渡り、直ぐ、道とはいえないような小道を左折し、道なりに歩き、突き当りの階段を上ると、県道に出る。