姫街道とは、磐田市の見附宿から愛知県の御油宿までの15里(約60km)の距離で、江戸時代に東海道の新居宿が、江戸から下る女性に対して、厳しい取調べを行なったので、それを避けてこの道を利用したことから、この名が付いた。その内で、見附宿から池田の渡船場までの道は、古くから池田近道とも呼ばれ、多くの旅人に利用された。東海道は、見附宿から中泉代官所の方へ南下し、豊田町森下付近から池田渡船場まで北上する遠回りの道であった。しかし、この道の難点は、徒歩の人しか通ることが出来ない狭い道であった。馬や荷物は東海道を経由するしかなかった。

姫街道

早朝家を出て、JRで、磐田駅に着いた。8時25分に歩き始める。今日は「ジュビロメモリアルマラソン」が開催されるということで、駅前はごった返していた。道を歩いていくと、道沿いに、法被を着た人が誘導員ということで、立っている。「この辺りに来るのは、何時ごろか?」と聞くと「9時30分頃かな。」という返事だった。1万人位走るそうです。

1日目  H.25.11.24

見附から池田の渡し

急な坂道を上り、平坦な道になると、右側の石垣の塀の前に「一本松跡」の石柱がある。右側に「かぶと公園」あったので、中に入ってみる。かぶと公園には、兜塚古墳がある。説明板によると(名前の由来は、古墳の形が兜を伏せた形に似ていたことから付いた。古墳時代中期(5世紀)に造られた直径80m、高さ8mの円墳で、県下最大の大きさです。中段のテラスは幅広い平坦面になっている。墳頂部から出土したと伝えられるものに、鏡、玉類、太刀がある。鏡は、三神三獣鏡で、表面には布跡と朱が付着していた。)中に入り、周りを1周囲して見たが、書いてなければ唯の小さな丘にしか見えない。

旧中泉御殿 裏門」の看板につられて、角を曲がる。しばらくいくと、西願寺というお寺がある。説明板によると(西願寺の山門は、旧中泉御殿の裏門を移築したものである。家康が浜松城主であった1584年に、現磐田市駅南の地域に別荘として建築され、以後30年間使用され、寛文年間に廃止された。この間、家康が鷹狩りをかねて休養に来磐している。主殿と裏門が移築されたが、現在は裏門だけ残っている。)

橋を渡り、左折し、しばらく堤防を歩くと、右側に「明治天皇御聖蹟」の石柱と玉座跡の記念碑がある。明治天皇の行幸の際に、天皇がここに座って、金原明善に拝謁したという場所で、それを記念して建てられた。

公園を出て、農道を直進すると交差点に出る、このあたりで姫街道はまた消滅する。仕方が無いので、また聞きながら、「妙法寺」を探す。人に聞く時は名前を言わず。「この辺りに寺はないですか?」と言うと、「そこにある」とか、「少し先にある」とか教えてくれる。名前を言ってしまうと「そんな寺は知らない。」ということになる。というわけで、「妙法寺」を探しあてた。ここには、天竜川の池田の渡しの渡船権を家康から与えられたという半場善右衛門の墓があるという。墓地の中に見つけた。隣の墓との間に新しい碑が立っていた。 「半場善右衛門 元亀三年 1572 武田軍との一言坂の戦いの折、家康を助けたことにより、天竜川渡船の権利と半場姓を賜った。以来 明治維新にいたるまで 代々 その子孫は 渡船方名主を務めた。」

藤枝〜磐田  820円
浜松〜藤枝  950円
バス      300円
バス     160円
計      2230円 

向こうからおまわりさんがやってきたので、「ここから浜松に行きたいが」と聞くと、道を教えてくれたので、20分くらい歩いて、スーパー「ビック富士」の所にある「与進小学校」の停留所からバスに乗り浜松に出て、藤枝に帰った。

安間一里塚跡

次の交差点は、東橋跡で、説明板によると、(昔、ここには小さな川が流れていて、東橋という土橋がかかっていた。この橋から天竜川にいたる東海道沿いには旅館や料理屋が軒を連ねていた。

堤防を下りると、六社神社がある。この地の産土神である。神社の前に小さな石柱があり、「道路元標」の説明板がある。(道路元標は、市町村の道路の起終点を示すもので、ここにある「中ノ町道路元標」は、中ノ町村の起点を示すものである。全国に現存するものは、1600基ほどといわれ、県内では、おそらく唯一の大変貴重なものである。)

旧東海道が南下する角に、「是より 姫街道」の標識がある。細い道を入っていく。加茂川にかかる河原橋を渡ると、二又になった道の真ん中に、秋葉山常夜燈が立っている。右側の坂を上っていく。

しばらく歩くと、見附宿西木戸があり、その先に木戸跡の標識が建っている。

少し進むと、集落は終わりになるが、三叉路の左側に上新屋ポケットパークがある。「藤と香りの道路マップ」と書かれたカラフルな観光マップが描かれていた。また、第四場(逢瀬の場)として、熊野御前と平宗盛の物語が書かれている。賀茂真淵が1740年に岡部日記の書いた「まれにわたる 天の中川 なかなかに うれしき瀬にも 袖ぬらしけり」という歌が刻まれていた。

用水路左脇の道に入り、突き当りを左折すると、上新屋の集落に入る。左側に上新屋自治会倉庫があり、その先の狭い交差点の左側に、秋葉神社御神燈があり、「岩田郡井通村新屋地区」と刻まれていた。

この辺りから、姫街道が消滅してしまっているので、田んぼ道を何とか歩いていくと、大通りにでた。警察署の横に出るつもりだったが、豊田支所に出てしまった。右折して通りを歩いていくと、警察署があった。そのまま大通りを直進し、磐田バイパスのガードをくぐり、JA遠州中央の交差点を左折する。角に「新造形創造館」があり、敷地左端に「池田近道 姫街道」の木標が立っていた。ここで姫街道が復活したことになる。

街道に戻り、歩いていくと、このような立派な長屋門を持つ家がある。

坂を下りて行くと、「池田近道 姫街道」の道標が立っている。坂を下り、小さな祝川の橋を渡ると、三叉路になる。そこを右折する。そのまま進むと、信号のある五差路にでる。、もう諦めて帰ろうと思い、国1号を歩き出だしたが、畑で作業をしている婦人に聞いてみた。「手押しの信号の交差点の向こうに寺がある。」と教えてくれた。また戻り、もう一人に聞いて、やっと「智恩斎」が分かった。五差路を直進すればよかったのだ。

道路の反対側には、「中部第129部隊跡」がある。秘匿名称は「第一航空情報連隊」だった。第二次世界大戦勃発で、帝国陸軍航空部隊は国土防空の目的で、昭和17年1月、磐田ヶ原台地に表記部隊を開隊した。

姫街道続き

ここを右折して、細い道を進む。姫街道の正式名称は「本坂脇往還」といい、下石田で池田からの姫街道と合流していた。 旧国道1号に出るが、横断して細い道を進む。「姫街道」の道標を初めて見つけた。

その先の細い道に「本坂道(姫街道)安間基点」があった。説明板によると(この地点は本坂道の起点であり、もと「従是鳳来寺」と書かれた道標があり、本坂道が鳳来寺道であったことも示している。この起点の西には、江戸から64番目の安間一里塚が東海道の両脇にあった。この一里塚は姫街道の一里塚も兼ねていたが、現存しない。

向かい側にある、中川屋の駐車場の奥に古い石造りの倉がある。説明板によると(江戸時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた倉である。大井川流域は、船運を利用した交易で、伊豆や江戸とつながっていた。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、倉や塀に使われた。中でもこの倉は、波模様の石目が美しい。) 今は、イベント会場として使われているようです。

その先には、「天竜川橋紀功の碑」があり、天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。その向こうには、ウナギの「中川屋」があり、堤防でもウナギの蒲焼の臭いが漂っていた。「一生懸命・営業中」の木札がおかしかった。

池田道は、池田宿で船に乗り、対岸の西渡船場に着くと、津島神社の南を通り、浜松インターチェンジの南から西に向かって、市野宿手前の下石田で、姫街道・本坂通と合流する道だったが、この道は殆ど消滅している。

橋を渡ると、小公園があり「中野町」の説明板があった。(中野町は、天竜川と東海道の交差点にあたる。江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ東海道は全長500kmの道のりですが、中野町はちょうど中間点にあるところから「なかのまち」と名づけられた。)

古い鉄橋は「天竜川橋」で、歩道がない。「新天竜川橋」のほうは、歩道があるので、道を渡って、新天竜川橋を渡った。渡りきるのに14分かかった。

しばらく歩いいくと、左側に「天竜川渡船場跡」の大きな石碑が建っている。

今は渡しがないので、堤防に上がり、堤防沿いの道を天竜川橋に向かって歩く。途中で、下を見ると、東海道を歩いている時にあった「夢舞台 東海道」の道標が見える。降りていってみると、天白神社があり、道標には「豊田町 池田渡船場」とあった。東海道を歩いている時は、もっと下流を歩き、天竜川橋を渡ってしまったので、この道標は見ていない。

道の反対側の床屋さんの所に、秋葉常夜燈がある。その先は上り坂になっていて、天竜川堤防の手前に「池田橋跡」の石碑が建っている。(明治16年に幅9尺約2,7m、長さ425間約765mの有料橋が天竜川に架けられた。これが池田橋である。昭和8年に現在の天竜川鉄橋が完成するまで利用された。)堤防上の道路に上がれる階段があり、その途中に、家康が与えた渡船許可状に関する説明板が立っている。

寺を出て、川に向かって歩くと、左側に「池田の渡し歴史風景館」がある。天竜川の記録パネルが展示されている。今日は日曜なので、開いているはずだが、鍵がかかっていて閉まっていた。

藤棚を進むと、西法寺薬師堂がある。案内板によると、(西法寺は、鎌倉時代の貞永年間に創建された真言宗の寺院である。鎌倉時代からひろがった大衆仏教により、貴族中心と見られた真言宗から、庶民信仰の曹洞宗や時宗は西法寺のみになってしまった。現在は、浜松市に移転し、当地には寺はない。」その先には、能舞台もある。

右の銀だみ石がゆやの母の墓、左の紫金石がゆやの墓と書かれ、700年前のものと書かれていた。

古墳

道は二手の分かれ、左の下る道に入る。その先に三叉路があるが、姫街道は右に下る。坂の途中の右側に、琴平宮の石段があり(階段が崩れて、通行禁止)その左側に「一言坂戦跡」の説明板があった。説明板によると(この坂を一言坂といいます。1527年、甲斐の武田信玄と遠江領主徳川家康の間で、戦いがあり、袋井市の三箇野川の戦いで負れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走した。一言坂で追いつかれ、再び合戦になった。これを一言坂の戦いという。この時、本多平八郎忠勝が、大槍を振り回し一人第奮戦し、枯れ草に火を放ちその煙の中、見事に徳川軍を退却させた。武田軍も、この武勇をたたえ、「家康に過ぎたるものが二つある。唐の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田市の国府台に立てさせたといわれる。)

その先に、行興寺がある。平安時代末期に、宿場として栄えた池田の長者、藤原重徳の屋敷跡とされ、熊野御前ゆかりの寺として有名である。寺には、熊野御前が植えたといわれる「熊野の長藤」がある。樹齢800年の国定天然記念物の藤が1本、樹齢400年の県指定天然記念物の藤が5本あり、そのほかにも多くの藤が植えられている。年、藤の花が咲く時期には、「長藤祭り」が開かれ、私も来た事がある。今は人影もなく、静かだった。

一本の松の木があり、正面に山門、左側に観音堂があり、山門をくぐった先の寺が智恩斎である。 山門は、旗本だった皆川歌之介の陣屋門を移築したものと伝えられる。観音堂には、中に一言観音と書かれた石仏が祀られていた。一言観音は、一生に一度だけ願いが叶えられるという観音様で、武田信玄に戦いに敗れた家康が戦勝の一言を願ったといわれている。

体育館の横を進み、国道1号線にでる。右に磐田警察署があり、200mほど進むと、磐田市一言歩道橋の右側に、右に入る細い道がある。姫街道である。一言集落を抜け、交差点を横切ると、右の畑の中に「常夜燈」「秋葉山」と書かれた小さなお堂がある。

その先の駐車場の一角に常夜燈が建ち、その奥にお堂がある。

公園から400mほど歩くと、県道65号に出る。柏木橋を渡り、柏木交差点に出る。交差点を横断して、左側のサークルK側に渡る。県道314号の方向に「姫街道」の標識があった。県道314号を歩き、下石田中交差点を過ぎると、角に「半僧坊五里廿六町」と刻まれた半僧坊道標がある。

そこから少し歩くと、右側の民家の塀際の松の根元に古い石の道標がある。よく読めなかったが、「右笠井 秋葉山 左市野 気賀 金指 」と刻まれているらしい。姫街道と笠井、秋葉方面の分岐点だったのだろう。

国道1号に出て、歩道橋をわたって向こう側に出て、高速道路にはいる道のガードをくぐると、右側に「了願公園」がある。中に入ると、「始祖了願に因み、旧浜名郡和田村安間新田にの代々名主を務めた安間本家から土地の寄付を受け開園した。」と刻まれた石版があった。

金原明善の生家の塀の所に「中ノ町村と和田村の村境」の標識が建っている。明善の家は前回入って見学したので、今回はパスした。 向かいの明善記念館の前に「安間学校跡」が建っている。

東海道松並木跡  (中野町は古くから町屋の家並みが整い、街道沿いの松並木が見られたのは、この辺りだけだった。かわりに、家々の庭には松が植えられ、板塀や門かぶりの松が中野町の街道風景になっていた。)

軽便鉄道軌道跡」けいべんは、ラッキョウ型の煙突をもったミニSLで、客車1両を引いて東海道の松並木や家の軒すれすれをのんびりと走っていました。明治42年から昭和12年まで、浜松から中野町の間を走っていた。の向こう側には、「松林禅寺」があり、その向かいには「かやんば高札場跡」がある。

その先に、「船橋之碑」と「船橋跡」と「天竜川木橋跡」の標柱が建っている。説明板によると、(江戸時代には、江戸防衛のため、天竜川には橋がなかった。東海道の往来は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行なわれていた。明治元年、明治天皇が京都と江戸を往復された際には、中野町村の浅野茂平が指揮をとり、78艘の舟を並べ、船橋を架けたところである。その後7年には、下流の船橋と洲の木橋からなる最初の橋が完成した。その後9年には、完全な木橋に架け替えられた。この「天竜川橋」は昭和8年、現在の鉄橋が出来るまで使用された。)

(天竜川の渡船は、当初は池田村が独占していたが、1649年に馬込川に橋が架かったので、馬込川の渡船を運営していた船越村に権利の一部を譲った。江戸時代中期には、池田村で大番船6艘、小番船22艘、高瀬船が10艘前後あった。渡船場は、江戸時代初期には、ここより少し下流にあったのが、その後、上流の池田村と対岸の中野町村に移った。その為、見附宿から近道になる池田近道が出来たのである。)河川敷に出ると、「池田の渡し公園」がある。

池田の渡しから三方原追分