昨夜は暗くなってからホテルに着いたので、ホテルの写真を撮って、市街観光に出かける。 ストラトフォード・アポン・エイヴォンウィリアムシェークスピアの生まれた町である。商人だったジョン・シェークスピアの長男として1564年に生まれた。彼が生まれ、その骨を埋めた「エイヴォン川のほとりのストラトフォード」という町に注目が集り、この町の運命を変えた。シェークスピアが引退し、この町に戻ってきたのは、1613年頃で、3年後の1616年に亡くなった。400年も前になくなったシェークスピアを中心として動いているといっても過言でない。

6日目

ボートン・オン・ザ・ウォーターのレストランで「フィッシュ&チップス」の昼食をとる。

ストーンヘンジは紀元前3000年位前からいくつかの段階をかけて建造されており、年代が下がるごとにその規模が大きくなっていった。もともとは、円形の堀と塚という構造だったが、紀元前2900年頃には、塚に沿って56本もの木の杭が立てられたという。現在巨石が置かれている位置にも木の祭壇が造られていた。巨大な石が運ばれてきたのは、紀元前2500年頃。巨石は約30km離れた場所から、小さな石は200km先のウェールズ南西部から運ばれたことが判明している。オーディオガイドを聞きながらサークルの周りを1週する。今は近寄ったり、触ったりすることは出来ない。

ゴルゴン像(ミネルヴァ神殿の装飾)ギリシャ神話に登場する怪物ゴルゴン三姉妹の三女メドゥーサのことだが、この首は男になっている。見たものを石に化してしまう恐ろしい魔力を持つ。

ミネルバ神殿の破風

ミネルヴァ神はローマ神話の知恵と工芸の女神。ギリシャ神話のアテナ神と同じ。金箔の像が飾られていた。

シェイクスピアの生家 1564年にこの家で生まれたと言われている。入り口は、隣接するシェイクスピア・センターに入り、まずここで彼の生涯と彼の活躍した時代についての展示を見て、生家に入っていく。

周囲を壁で囲み、教会関係者の住む居住区が中にある。その中の一つの門から中に入る。

ソールズベリー大聖堂は、町のどこからでも見える。英国最高の高さを誇る。塔の高さは、123mある。イギリスの大聖堂は、100年以上の年月をかけて建てられたり、改装工事をしたりとか、複数の建築様式が混ざってしまっている物が多い。この大聖堂は、比較的短期間で完成されたため、イングランドゴシック様式で統一されている。(マグナ・カルタは大憲章とも言われ、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章であり、イングランド国王の権限の制約をその内容とする。)逆光だし、改装中ということで、よい写真が撮れなかった。

遺跡の中心から少し離れた場所にある高さ6nの玄武石は、ヒール・ストーンと呼ばれる。冬至の日にはこの石から遺跡の中心の延長上に日が沈む。夏至の日には、この石と祭壇の延長線に太陽が昇る。

この遺跡は、バルーンとか塔とかの上から見てみないとその形は良くわからない。また、ここから30km離れたエーヴベリーの遺跡群とあわせて1986年にユネスコの世界遺産に登録された。

ストーンヘンジから約20km走って、ソールズベリーの町へ。 ロンドンから列車で約居時間30分の所にあるソールズベリーは、中世の雰囲気が漂う町。そのシンボルが天に向かってそびえるソールズベリー大聖堂だ。英国最高の高さをほこり、チャプターハウスには、マグナ・カルタの四つの原本のうちの一つが保管されている。ソールズベリー・カテドラル・クロスと呼ばれる城壁で囲まれた地域がある。この中には、司教や教会関係者の住宅がある。

イングリッシュガーデンについて
イギリス式庭園は、西洋式庭園のひとつ。フランス式庭園(平面幾何学式庭園)に対して、自然の景観美を追求した、広大な苑池からされるイギリス風景式庭園を示す。
 ビラ=別荘
 マナーハウス=荘園、地主階級の家
 ジェントリーハウス=貴族階級の人が王様を呼ぶ大きな宮殿。庭                園付きの館。

ローマンバス

揚げた魚とフライド・ポテト。テイク・アウェイの王様と呼ばれ、町では、簡単なお皿に盛られたものを食べていたし、紙で包んだものを歩きながら食べている人もいた。

イングランドで、屈指の美しさを誇るカントリーサイドが、コッツウォルズ地方である。この町を彩るのは、この地方で採れる石灰岩、ライムストーンである。北東部では、はちみつ色をしているライムストーンは、中部では、黄金色、さらに南西部では、真珠のような柔らかな白に変化していく。

バスで約20km走り、ヒドコートマナーガーデンを見学する。このガーデンはコッツウォルズ地方のチッピング・カムデンから北に車で20分ほど行ったところにあるヒドコットバートリウムという小さな村の郊外にあります。アメリカ人のローレンス・ジョンストンが1907年から、長い年月をかけて造った庭園です。25の異なる庭園を生垣で区分しながらつないだ構成を持ち、コテージガーデンの集大成といわれる。1948年から、ナショナル・トラストによって管理されている。

シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声からではなく、440ポンドもの十分の一税を納めていた高額納税者であったからである。墓石に刻まれた墓碑銘はみずから書いたものである。

売店でトラウトを売っていた。

ボートン・オン・ザ・ウオーターは、ウインドラッシュ川のほとりの小さな町。川と橋と町並みが美しくマッチし、「コッツウォルズのヴェネチア」とよばれている。

一時、スワンという宿屋をやっていた。

中庭

ペンをかたどった紋章が掲げられている。

ホーリートリニティ教会は13世紀に建てられたシェイクスピアの身内が埋葬されている教会。

バスで約90km走り、ブリリストルのホテルに入る。

カモに餌をやる少年。私にもやらせてくれた。

庭園を出ると、萱葺き屋根の家が数軒ありました。

羊の親子

イチイの刈り込み

睡蓮の池

ブルーべルの花壇

庭園ごとに、レッド、イエロー、ブルーなどの花が咲き乱れるようですが、今の時期は花は殆ど咲いていませんでした。

ヒドコートブルーの入り口

シェイクスピアの胸像

天蓋付きのベッド

父の仕事だった革製品と道具

ローマンバスの入り口

大浴場

ハロッズやスワロフスキー、バーバリーなどのお店がある通りをぶらぶらして、ロンドンの夕暮れを楽しんだ。高級なお店には、入り口に黒服のお兄さんが立っています。用心棒でしょうか。

大西洋三角貿易はイギリス、アフリカの植民地、新天地北アメリカとの貿易を言う。17世紀から18世紀にかけて、イギリスのリバプールやブリストルから出た船が工業製品や繊維製品をアフリカに持って行き、アフリカから奴隷を積み込んで西インド諸島や北米大陸に運び、そこから煙草、綿花、などを積み込んで帰ってくるという、空荷なしの貿易船を仕立てて利益を得ようとした。イギリスは三角貿易の利益を蓄積し産業革命を推進したといわれている。得た貴族達はこぞって大邸宅を建てた。

このようになっていたとされる想像図

お花の綺麗なパブで昼食。コテージパイ(日本のパイの概念から外れたパイ。パイ皮を使わずひき肉と玉ねぎのいためたものの上にマッシユ・ポテトをかぶせて焼いたもの。)私達でも出来るねと女性群で話した。

エイヴォン川

当時の姿で彫刻する人

レンガのアーチ(中を空洞にして軽くしている。)

温泉が流れ出し地下を通って外に出て行く。排水設備も考えられていた。

サウナ室

飲泉

バース大聖堂も見えます。

はちみつ色の家

湧き出る源泉。写っていないが、泡が出ている。

冷泉

テラスの周りには、彫像が立っている。(19世紀のもの)ハドリアヌス像

バースは、2世紀頃、ローマ人の支配下で温泉の街として発達した。ローマ支配末期には、バースを取り囲むように城壁が建築された。  ローマ撤退後は一時廃れ、ローマ様式の浴場も破壊されたが、温泉の利用は続いていたようです。675年、修道院が建設され、781年、マーシアのオファ王が支配下に置き、聖ペトロを守護聖者とする教会を設立し、アルフレッド大王が町を造りなおした。  エリザベス1世の頃、温泉地として復活する。特に18世紀のジョージ王朝と呼ばれる時代になってロンドンの貴族や裕福な階層の保養地として大規模に再開発され、石灰岩による多くの美しい建物群が建造された。1942年4月、ドイツ軍によって爆撃され由緒ある建物が破壊されたが、その後全て再建されている。

ローマ時代に温泉の街として栄えたバースは、温泉の語源になったことで有名な観光都市。18世紀には、上流貴族が集う高級リゾート地として栄えた。町は、この地で採れた蜂蜜色の石材で建てられた建築で埋め尽くされ、優雅なジョージ王朝の時代を現在に伝える。

ブリストルからバースに移動する。途中、ロイヤル・クレッセントに立ち寄る。クレッセントとは、三日月の意味で、三日月のように綺麗な曲線を描いたように建物が立ち並ぶ。1767年から74年にかけてジョン・ウッドによって建てられた。バースを代表するパッラーティオ様式の建物である。家の中の一つは博物館になっている。外側を見学しただけでした。

7日目

バスで、コッツウォルズ地方に移動し、町を散策する。

生家のあるヘンリーストリート

通りから入った所にテディイベア・ショップがあり、沢山のベアが並んでいた。

ヘンリーストリートに立つ道化師の像

当時の格好で挨拶する人

バース・アビー 史上初の統一イングランド王となったエドガー王が、993年に戴冠式を行なった由緒ある教会。現在の教会は、1499年に建てられたもので、ヘンリー8世の修道院解散直前に建てられた貴重なもの。壁の80%は窓で覆われ、「イングランド西部の灯火」と称せられている。西壁のファサードには、「天国への梯子」が彫られ、天使達がその梯子を上っているが、ずっこけて落ちそうになっているあわてものの天子も彫られている。

バスで、バイブリーに移動する。芸術家であり思想家でもあったウィリアム・モリスはバイブリーを「イングランドで最も美しい村」と評した。  14世紀に造られた「アーリントン・ロー」がこの村の景観を形作っています。元来羊毛店だったところが、織工小屋となり、現在はナショナル・トラストが管理している。低い屋根と切り妻壁の家並みがコッツウォルズ・スタイルを象徴している。

ホワイトキャブや広告満載のキャブもあります。

マグナカルタ=ジョン王はフランス王フィリップ2世との戦 に敗れてフランス内の領地を失ったのにもかかわらず、新たに戦争を仕掛けて再び敗戦したため、1215年貴族の怒りが爆発した。ジョン王の廃位を求めて結束し、殆どの貴族と国民が反ジョンでまとまった。当時は臣民の信頼を失った王は、退位するか、処刑されるかしかなく、この時、ジョン王は、王の権限を制限する文書に王が承諾を与えることに寄って事態の収拾をはかった。

馬蹄形に配置された高さ7m程の巨大な石の門の形の組み石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4〜5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。設計者は天文学の高い知識があったのではないかと考えられる。また、石が倒れないように石と石の間にな凹凸がある。  遺跡の目的については、太陽神の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論が出ていない。

円形のサーカス(十字路という意味)と半楕円形のロイヤルクレッセントは、ストリートを介して連続的に建っている。建築家ジョン・ウッド親子の父親がまずサーカスを設計する。途中で父親が亡くなったため、息子が引継ぎ、その後ロイヤル・クレセントも設計する。保養地として開発が進んだバースで、ジョン・ウッド親子は複数の建築や町並みを設計した。

手前の平たい石がブルーストーン(大砂岩の円陣の外側に置かれた石。)

ソールズベリーからロンドンまで、約140km走り、レストランでローストビーフとヨークシャプディングの夕食をとる。(ヨークシャプディングシュー皮のような粉料理。器のようにして中にシチュウを入れたりして食べるが、今日のは皮そのものだった。)(ビーフにかかっているソースは今まで何度でも出てきたソースで、イギリスにはこのソースしかないのか?という話になった。市販されているかも。ブルドックソースのほうが美味しい。とか言いたい放題でした。)

二階建てバス(2階が開いているのもある。)

ブラックキャブ(向かい合わせに座ります。値段はメーターで、下りてから窓越に払います)。ミニキャブは値段を交渉する。

8日目へ

ロイヤル・クレセントの集合住宅としての形式はテラスハウスです。住宅が横方向にのみ連続し、異なる住宅が縦方向に重なることはない。ロイヤルクレセントの戸数30戸、階数は地上3階、地下1階。今でも住人が暮らしている。一部は博物館として公開されている。また一部はホテルになっている。

ロイヤルクレッセント

ロングウオーク

当時の楽器を弾く人

墓の横の壁には、シェイクスピアの執筆する姿の胸像が据えられている。シェイクスピアの誕生日に毎年筆ペンを新しいものに取替えられる。

トーマス・ナッシュ(孫娘の最初の夫)
ジョン・ホール(娘スザンナの夫)
スザンナ(娘)の墓

ウィリアム・シェイクスピアの墓

センターの入り口

カモが道を渡るのを車が待っている。

マスの養殖場(バイブリー・トラウト・ファーム)

最も大きな石は高さ7.3mである。