ロンドン市街観光に出かける。雨のロンドンをバスで走る。ローマ時代から2000年近くに及ぶ長い歴史の中で、さまざまな時代に建てられた歴史的建造物が並ぶ。再開発により、超近代的なビルも建てられ、ロンドンの景観は常に変り続けている。

8日目

パルテノン神殿の彫刻群。古代ギリシャ・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻。19世紀のイギリス人外交官がパルテノン神殿から削り取ってイギリスに持ち帰った。エルギン・マーブルとも表記される。1970年代になると、ギリシャは返還要求を求めた。21世紀からの研究により、古代ギリシヤ彫刻は、もともと白い大理石の彫刻だったわけではなく、古代エジプトの影響を受けて、極彩色に着色されていたことが判明した。彫刻を白く清浄したことも分かっている。

最後の晩餐はロンドンのモダンブリティッシュ料理。今まで牧場で見てきた子羊のローストだった。白いにはホワイトキャロット。

聖ジョージ礼拝堂

ステート・アパートメント&クイーン・メアリー人形館の入り口

ウィンザー城は、モット・アンド・ベリー形式の木造の城であり、現在のウィンザー城中央部、円形の塔の部分に建てられたものであった。当時の城の詳細は分かっていないが、純粋に軍事的なものであり、ロンドンの防衛の一部を担っていた。ヘンリー2世は、木造の防壁を石造りにし、また初めてキープ(城の心臓部となる中央の塔)を建設した。ヘンリー3世によって建設された西部の防壁はその一部が残っており、現存するこの城の最古のものである。その後も、王たちによって建物が追加、改修されていく。

セントラル駅から見たウィンザー城

砂漠で発見された天然のミイラ

ロンドン塔は、塔というより城塞といった感じの建物である。ウィリアム征服王の時代に完成し、以来900年に渡ってロンドンの歴史を見つめ続けてきた。英国王室の宮殿として使われてきたが、もっぱら牢獄、拷問、処刑の場として使われてきた。最も悲惨なのは、13歳で即位したエドワード5世と、弟のリチャードの暗殺である。首謀者は、その後国王になったヘンリー3世と噂された。アン・ブーリンの娘で、後のエリザベス1世も、姉のメアリー1世の治世には、ここに幽閉された経験がある。かってロンドンで初めての動物園があった。中には、ジュエル・ハウスがあり、世界で最大のカットダイア、カリアン(アフリカの星)が保管されている。

国会議事堂は、ウエストミンスター寺院のそばにある。黄金色に輝くネオゴシック建築の建物。正式名称は、ウエストミンスター宮殿。1843年の火災で、ウエストミンスター・ホールを残して全焼したのを、改修して現在の姿になった。時計台の愛称「ビッグ・ベン」は、工事担当者のベンジャミン・ホールに由来しており、元々は、塔の中の鐘に付けられた名称だった。ウエストミンスター・ホールは、ノルマン征服から間もない1099年に建てられたもので、最も歴史のある場所である。時計塔は2012年6月にエリザベス女王在位60周年を記念して、「エリザベス・タワー」と改称された。「ビッグ・ベン」の愛称は使い続けられるようだ。  

 

テムズ川

ここから、矢を放つ。

衛兵の交代があった。

バッキンガム宮殿は、ロンドンのウエストミンスター区にあるイギリス王室の宮殿。1703年、バッキンガム公が建てた居館を、1762年にジョージ3世が買い取り、ジョージ4世の命により、ナッシュが大改装を加え、バッキンガム宮殿と呼ばれるようになる。衛兵の交代式はロンドンの名物である。この日は、時間も早かったし、雨も降っていたので、やったかどうかわからない。門番衛兵が一人だったので、今日は女王はここにはいらっしやらないようです。(居れば二人だそうです。)ちょうど馬に乗った兵隊が門から出てきた。王宮正面には、ヴィクトリア記念碑が建立されており、その向こうでは、セント・ジェームス・パーク、トラガルファー広場につながるザ・マルがプラタナス並木に沿って位置している。

英国旅行を終えて=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国が正式名である。通称イギリスは、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの四つの国から構成される立憲君主国であり、英連邦王国の一国でもある。1066年、ウィリアム征服王が、イングランドを征服し、大陸の進んだ封建制度を導入する。人口、経済力に勝るイングランドはスコットランド、ウエールズを圧倒し、1536年にウエールズを併合し、1603年、イングランドとスコットランドが同君連合を形成し、1707年、インゴランドとスコットランドは合併し、グレートブリテン王国となった。さらに1801年、アイルランド王国と連合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった。更に、ガイドさんによると、来年の2014年には、スコットランドが独立するかどうかの国民投票が行なわれるということです。血なまぐさい歴史を経てきた国でもあるが、カントリーはのどかで、ゆったりした気分を味わえました。石やレンガ造りの家は、何百年も大切に使っているようで、年代を感じます。滞在中に元首相のサッチャーさんがなくなりました。イギリス病と呼ばれた不景気に立ち向かい、大規模な構造改革を断行したが失業者も増大し、功罪半ばで、国内では喜んでいる人もいるということでした。彼女が、超親ばかで、ぐうたら息子の尻拭いに追われたという話は、「鉄の女」からは想像できないことです。

何とか言う王の愛人の家だった所。

シェイクスピアゆかりのお店

昔の石畳

衛兵と記念写真。突然鉄砲を持ち替えてびっくりした。

添乗員の小野さんと

城の警備員さんと

街角に立つビクトリア女王の像

ヘンリー8世門 門の上に、物を落とす穴があいている。

ラウンドタワー。今日はイギリス王室の旗が上がっているので、女王がおいでになっている。

ウインザー城は、現在使われている王室の居城としては、世界最大の規模を誇る。ウィリアム征服王が1066年にイングランドを征服して以来、900年以上、城塞、英国王室の宮殿として使われる。ウィンザーの町は、城の周りに広がる城下町である。現在の王室はウィンザー王朝である。現在見学できるのは、ステート・アパートメント、クイーンメアリー人形館、聖ジョージ礼拝堂のみ。

駅には王室御召列車と牽引した蒸気機関車が展示されていた。

ロンドンにもあった中華街で、飲茶の昼食。

タワー・ブリッジ。ヴィクトリア調の優雅さあふれるこの橋は、1894年に完成した。船が重要な交通機関だった頃は、1日に50回くらい跳ね橋が上がったが、今では、日に2,3回、運が良くないと見られない。

ウェストミンスター寺院テムズ川の傍に美しい姿を見せる白亜の教会が、英国王室の教会である。1066年、ノルマン征服以来、歴代の王の戴冠式が執り行なわれ、ダイアナ妃の葬儀もここで行なわれた。多くの学校で使われている始業、終業のチャイムの音階は、同寺院のために作曲された「ウェストミンスターの鐘」が元になっている。国会議事堂の隣にある。

大火記念塔。1666年9月2日にプディング・レーンから出た火の手は乾燥した強風にあおられロンドン市を飲み込んでしまった。被害は死者9人、焼けた家屋は約13000で、東京ドーム35.5個分が灰になり、数万人が焼け出された。ペスト大流行と共に忘れられない大事件になっている。出火地点から60mの所に、高さ60mの大火記念塔が建っている。クリストファー・レンの作品。311段の階段で上に上がることもできる。

アッシリアは、西アジアのチグリス川上流、アッシュールを中心とする地域。紀元前18世紀頃から古代オリエント最初の世界帝国アッシリア王国が栄えました。北イラクのニムルドの王宮の人頭獅子像(人面有翼守護神)。王座の間の入り口に取り付けられていた。

ロゼッタストーンパルテノン神殿の彫刻群ミイラコレクションが大英博物館の三大お宝ということで、1時間の見学が終わった。写真タイムを利用して、友人に頼まれていた、ロゼッタストーンのカップも手に入れたし、もっと見たいと名残惜しい感じで博物館を後にした。

ロゼッタストーンは、1799年エジプトのロゼッタで発見された石碑である。たて144.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kgの古代エジプト期の暗色の花崗閃緑岩でできた石柱であり、プトレマイオス5世のため、紀元前196年にメンフィスで出された勅令が刻まれている。この碑文は三つの文字、古代エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシャ文字で記述されている。1822年、シャンポリオンによって解読された。

大英博物館は世界最高の博物館といわれ、膨大な収蔵品を誇る。全て見るには1日あっても足りないくらいで、今回は1時間ということで、ガイドが3点だけ紹介しますといって中に入った。

セント・ポール大聖堂。1666年のロンドン大火災は、旧セント・ポール大聖堂をすっかり灰にしてしまった。チャールズ2世に依頼を受けていたクリストファー・レンは、1675年から35年の歳月をかけて、今の聖堂を建設した。大きなドームをかぶせたルネッサンス風で、高さ約111m、幅約74m、奥行き約157m、ドームの直径約34mの大建築。