ベルリンは、ドイツ最大の都市で、東京23区の1.5倍の面積だが、都心部にも多くの公園や水路、湖がありごみごみした感じがないのは、ほかのドイツの町と同じです。 1871年、プロイセンによる「ドイツ帝国」の首都になり、ワイマール共和国時代には、「黄金の1920年代」の舞台として、栄光の絶頂期を迎えた。ナチス政権の登場と共に、繁栄はかげりを見せ始め、敗戦後、東西に分断された。1961年8月13日、一夜にして「壁」が築かれ、以来28年間、壁は永遠に壊れないかのように思われた。しかし1989年11月9日、突然壁に穴があいた。翌年東西西ドイツは再統一を果たし、ベルリンは首都に返り咲いた。 東西ベルリンの分断エリアだったポツダム広場は、統一後開発された副都心的存在。旧西ベルリン側に位置するクーダム周辺は、ショッピング街になっている。
5日目
東西ベルリンの境シュプレー川。
バビロニア、アッシリア、小アジア、古代ギリシヤ出発掘されたものが所狭しと陳列されている。
第2次大戦後、連合国はドイツを東西に分断しただけでなく、ベルリンも分断し、西側を、仏、米、英が、東側をロシアが占領統治した。市民の往来は自由であったため、冷戦後東の住民の西への流出が続いた。そのため、壁が東ドイツから西ベルリンを隔離して囲む形で形成された。2枚の壁の間は十数mあり、総延長155kmに達した。その後壁は取り除かれたが、シュプレー川のミューレン通りの壁は、約1.3kmがイーストサイドギャラリーとなって保存されている。
ベルガモン博物館
バビロニアのイシュタール門と行列通り
この宮殿の西に、大きな風車小屋が建っている。サンスーシー宮殿完成後、宮殿の景観に入る位置にあるため、フリードリヒ2世が取り壊しを命じた。しかし所有していた農夫から生活を奪わないようにしてほしいと訴えられたため、そのまま残した。
1888年に死去したヴィルヘルム1世を追悼して造られ、ネオ・ロマネスク様式デザインが採用された。2740muのモザイクを含み、尖塔の高さは113m、身廊は2000人の座席があった。1943年のベルリン空襲で破壊され、最低限の修復をしたままで保存されていて、空襲の悲惨さを伝えている。現在は、叉修復と言うことで、すっぽりと覆われていた。
中華料理の昼食をとった後、ポツダムへバスは走ります。38kmを約1時間かかります。 ポツダムは、エルベ川の支流のハーフェル川や、多くの湖と森に囲まれた古都である。かっては東ドイツに属していたが、統一後は、ベルリンの隣町として、多くの城館と庭園を有する世界遺産の町である。
ユダヤ人犠牲者記念館は、ブランデンブルク門から南へ100kmほど進むと、2711本のコンクリートブロックが現れる。虐殺されたユダヤ人に捧げる記念碑で、地下に展示室がある。ブロックの間は通り抜けられる。
門の先には、戦勝記念塔ジーゲスゾイレがそびえる。1865〜73年に建てられた高さ67mの塔の上に、金色の勝利の女神ヴイクトリアが聳え立つ。1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、1870〜71年の対フランス戦争の勝利を記念して建てられた。
ブランデンブルク門は、1788〜91年のプロイセン王国の凱旋門として、アテネの神殿の門を手本に建てられた。ドイツ古典主義建築の傑作と言われる。門の上には、勝利の女神と4頭立ての馬車カドリガが立つ。1806年ナポレオンがパリに持っていってしまったが、1814年に戻った。東西分裂時代には、門の直ぐそばに壁が築かれ、この門をくぐることが出来なかった。
ベルリン大聖堂は、ホーエンツォレルン王家の墓所がある。ネオ・バロック様式の建築で、高さ114mの大天蓋が第2次世界大戦で大被害を受け、1993年に内部の修復が終わった。
ベルリンの壁で犠牲になった人を悼む。約890人ほどの方が亡くなられた。
ベルリンのマスコットはクマで、色々なクマが町のあちこちにいる。
ドライバーのサヴィーナさん
ベルリンの壁
サンスーシとは、フランス語で「憂いのない」と言う意味で、「無憂宮」と呼ばれる。プロイセン王のフリードリヒ大王が夏の居城として1745〜47年に建てたロココ様式の華麗な宮殿で、35歳から74歳で亡くなるまでこの宮殿で暮らした。階段状のぶどう園の上に建てられた。
ホーエンツォレル家の最後の皇太子ヴイルヘルムが家族と共に住んでいた。城には、皇太子妃ツェツィーリアの名前が付けられた。1972年に完成する。 日本では、ここは1945年7月17日〜8月2日に開かれたポツダム会議の場として知られている。内部には、王家が使っていた部屋、ポツダム会議で各国代表が控え室として使っていた部屋もある。宮殿の一部は、古城ホテルとして利用されている。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
世界遺産の登録されている「博物館島」は、ベルリンの中心部、シュプレー川中州の北半分をしめる。旧博物館、新博物館、旧ナショナルギャラリー、ボーデ博物館、ベルガモン博物館の5館がある。19世紀当時、この島には、ベルリン王宮があり、周辺にはベルリン大聖堂、ベルリン市庁舎、などがあるベルリンの中心部であった。1830年、時のプロイセン王フリードリッヒ・ヴイルヘルム3世により旧博物館が開設され、1世紀に渡って整備されたものである。
ミレトスの市場門 ミレトスは現トルコの西海岸にあった古代都市で、紀元前20年頃のローマ時代にあったものと言われる。
あらいぐまが屋根の上を歩いていた。
ソ連のKGBが住んでいた住宅とKGBの本部。ベルリンの壁崩壊と共に本国に引き揚げた。その後、荒れ果てた住宅を修復した。
ベルリン風ミートボールの夕食をとりホテルに入る。
西ドイツ、西ベルリンの間の道路上の国境検問所は、A(アルフアー)B(ブラボー)C(チャーリー)があり、Cはチェックポイント・チャーリーの別名で知られていた。復元された検問所の屋根には、片面にソ連兵士の写真、反対側に、アメリカ兵の写真が掲げられている。近くに壁が一部残っている。
サンスーシ宮殿と庭園
ツェツィーリエンホーフ宮殿
その後、旧ベルリン最大の繁華街クーダムで、自由行動。きむらやで少し買い物をした後、今修復中の「カイザー・ブルヘルム教会を見に行く。
ベルリン
宮殿でお会いしたウエールズからの御夫妻。ライプチッヒに行くと言ってました。お元気で。
空襲の後の写真
ドイツのホーネッカーとソ連のブルジネフの「兄弟のキス」
旧ナショナルギャラリーはギリシャ神殿のような建物。
旧博物館は、18本の柱が整然と並ぶ、19世紀の建築家シンケルの代表作。古代ギリシャ、ローマ時代の彫刻が並ぶアンティークコレクションが展示されている。
ベルガモン(現トルコ、ベルガマ)で発掘された「ゼウスの大祭壇」(紀元前180〜159)が高さ9.66mで再現されている。