3日目
今日から、ドライバーは女性のサヴィーナさんです。最終日まで運転してくれます。小麦畑、時々きれいな菜の花畑を見ながらドイツを北上します。一部ロマンティック街道を走り、高速のアウトバーンで行きます。ロマンティック街道は本来ローマへの道だったそうです。後で「ロマンティック街道通行証明書」を貰いました。
おもちゃの町、デューラーを生んだ町として知られている。バイエルン州では、ミュンヘンについで、2番目に大きな都市です。ワグナーの歌劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」が思い浮かぶ。また、第二次世界大戦後にナチ戦犯に対する「ニュルンベルグ裁判」も行なわれた。第二次大戦でこの町の90%近くが破壊されたが、昔どおりの姿に復興され、中世そのままの町並みがよみがえった。
あちこちに古城や古い町が残っています。大隕石の後にできた「ネルトリンゲン」のような町もあり、写真で見るとまあるい形をしています。直径1kmほどの城壁の中に中世の町並みが残っているそうです。 私達は、ディンケルスビュールという町に寄りました。
旧市庁舎
ローテンブルグは谷間を流れるタウバー川の高台にある。町の起源は9世紀頃で、最初の城壁は12世紀までに出来上がっていた。自由都市として栄えたのは、17世紀の三十年戦争の頃までで、中世の面影をほぼ完璧に残している。町は?の形をしている。城壁のある旧市街に絞首刑の門より入る。
「中世の宝石」と言われるローテンブルグに125km、3時間かかって到着しました。老舗の宿屋「ツムラッペン」で昼食。ドイツの国民食サザウアーブラーテンとサラダ。
聖ローレンツ教会 ゴシック様式の巨大な教会。天蓋から「受胎告知」のレリーフが下がる。中には入らなかった。
バスを下り、ガイドさんと会って、カイザーブルクから、見学が始まる。12世紀から基礎が築かれ、15〜6世紀に現在の形になった神聖ローマ皇帝の城。
ニュルンベルクソーセージは、小指ほどの小さなそーセージで、その由来は、@宿屋に遅く着いた旅人が中に入れてもらえず、外で寝ることになったが、かわいそうに思った宿屋の主人が鍵穴から、ソーセージを外の旅人に上げた。A牢屋に入れられた息子をかわいそうに思った父親が牢屋の鍵穴からソーセージを差し入れた。などがあり、その鍵穴がその写真です。日本より大きな鍵穴です。
夕食は、プファンクーヘンズッペ(クレープの入ったコンソメスープ)とニュルンベルクソーセージ
阿呆の船の前で集合
市内を東西に流れるペグニッツ川の中洲に建てられたハイリヒ・ガイスト・シュピタールはかっての救済所の建物で、今はレストラン
中央広場のホワイトアスパラ
フェンボーハウス(市立博物館)
聖セバルドゥス教会
ニュルンベルグ
旧市街を囲んでいる城壁は上にあがって一回りすることが出来る。時間がないので、4つある門のうち、近い3つの門の間を往復した。ドイツの親子の写真を撮らせてもらった。
町の中心には、マルクト広場があり、市庁舎、市議宴会館がある。市議宴会館の切妻の壁面には仕掛け時計マイスタートルンクがある。時計の両側の窓が開いて、テイリー将軍とヌッシュ市長が現れて、ジョッキを手にした市長がワインを飲み干す。(三十年戦争の時、ローテンブルクを占領した皇帝軍の将軍が、市参議会員の首をはねることになった。将軍が市のワインを勧められた時、この大ジョッキーのワインを飲みほす者があれば、首をはねるのをやめようと言った。市長がこれを受け取り、一気に飲み干して、この窮地を救った。と言う伝説がある。)マイスタートルンクの祭りがある。
中心街 3番目の建物がドイチェスハウスで、多層式建築で木彫りが施されている。
広場にある美しの泉(輪をまわしてお願いをするとかなうと言う)子供達が上って触っていた。
フラウエン教会 14世紀に建てられたホール様式の建物。この正面にカール4世と7人の選帝候の仕掛け時計がある。
市街と聖ローレンツ教会の尖塔が見える。
7月の第三日曜日にキンダーツィヒェというお祭りがある。三十年戦争の時、町を破壊しようとしたスウェーデンの軍の隊長に対し、町を救うように懇願し、破壊から救った子供達を記念して行なわれる。写真の建物の壁にその時の模様が描かれている。
4日目へ
カイザーブルクから坂を下りて市街地に入る。岩がむき出しの城壁。
古城街道を経由して、124km、2時間でニュルンベルグに着いた。古城街道は、マンハイムからニュルンベルグ、バイロイトを経て、チェコのプラハまで結んでいる。
キリストの聖血祭壇がある聖ヤコブ教会。閉まっていた。
ゲオルク教会
ローデンブルグ