京都~伏見奈良街道

H.30.4.21

今日は、京街道から分岐した奈良街道を歩く予定で、京都駅から大宅中学校入口までバスに乗る。奈良街道京街道勧修寺手前で別れる。途中寄り道をして、先日見落とした「小野榧」を見に行く。「葛籠尻の小野カヤ」の説明板によると(平安時代、深草少将小野小町のもとに通う「百夜通い」の伝説の古木である。小町はカヤの実を糸に綴ってその日を数えていた。最後の一夜を前に少将が死んだので、その菩提を弔うため、小野の里にそのカヤの実を蒔いたと伝えられている。)

暑さで思考力が低下し、街道に戻ったつもりが来た道を戻らず、先に歩いていた。鳥居に出て左折すると「乃木神社」があった。明治天皇の後を追って殉職した乃木希典を祀る神社である。乃木が幼少の頃暮らした「長府乃木邸」を復元した家がある。日露戦争の際、南満州で第3軍司令部として使用された民家も記念館になっている。

奈良新道に合流すると「醍醐寺」がある。豊臣秀吉が慶長3年(1598)に開いた「醍醐の花見」は配下の女房1300人を招いての盛大なものだった。毎年4月第2日曜日に「豊太閤桜行列」が行われている。これに合わせて来たかったができなかった。今年は桜が早かったので、もう散っていたかもしれないが。

団地を出て、街道に戻り、近鉄線、京阪線を越えると両替町に入る。京阪伏見桃山駅の踏切を越えて左折すると「「両替商跡」の石碑が立つ。ここは両替町通りで伏見銀座を開き、銀座、御屋敷舗、同改役所が開設され、慶長丁銀、同小粒、同豆板銀が鋳造され、金銀の品質が統一された。

右側にある「西運寺」を見落とし少し戻る。通称「狸寺」と言われている。境内には大小の狸の置物が置かれている。幕末、裏山に住み着いた狸を住職がかわいがり、「たぬき寺」と呼ばれるようになった。

右側に「大善寺」がある。境内には「六地蔵堂」があり、地蔵尊が祀られている。六地蔵は東海道中でいくつか見たが、大善寺は京都六地蔵巡り第一番の寺である。慶雲2年(705)藤原鎌足の子・定慧によって創建された。六地蔵は小野篁が冥途に行って生身の地蔵を拝し、後に蘇生して一本で6体の地蔵を彫って大善寺に祀ったのが始まり。保元年間に平清盛が都に通じる主要街道の入り口に地蔵堂を建てた。これがのちに六地蔵となった。洛外の六地蔵(大善寺、浄禅寺、地蔵寺、源光寺、上乗寺 徳林寺

このT字路から南にのびる道が宇治道で角に道標が建つ。「左長坂地蔵 すぐ伏見舟乗り場ミち」「右長坂地蔵 すく大津ミち」と彫られている。 第二六地蔵橋で山科川を渡り、宇治川を六地蔵小橋で渡る。渡り終えると指さし道標がある。「だいご一言寺是より17丁」「左 おぐりす道」と刻まれている。(おぐりすとは小栗栖のこと。伏見区桃山の六地蔵北部から山科区勧修寺までの3kmを小栗栖街道と呼ぶ。)

道迷いは続き、道を聞きながら街道に戻る。「江戸町」を右に曲がり、しばらく行くと「愛宕常夜燈」が斜めに傾いて道路に埋まっている。その先に「愚庵終焉地」の石碑がある。(天田愚庵和尚は、現在のいわき市の武士の家に生まれ、戊辰戦争で戊辰戦争で行方不明になった両親と妹を求めて諸国を遍歴した。山岡鉄舟と出会い、清水の次郎長の養子になった。講談浪曲「東海道遊侠伝」を表したことでも知られる。中年に仏門に入り清水産寧坂に庵を結び、愚庵と称した。明治33年当地に庵を結び、明治37年に没した。草庵はいわき市に移築復元されている。)

街道は直進するが、奈良線の高架下の道に曲がり、踏切を渡る。温度計は30度になっている。今日は暑いと思っていたが、夏のようだ。 明治天皇伏見桃山陵に寄っていく。入り口を入り、坂に血を上っていくと突然ピラミッドの様な階段が現れる。階段は230段あり、階段を上ると墳墓が現れる。

南里公民館を過ぎると左側に「一言寺石柱」が建っている。一言寺は醍醐寺の塔頭のひとつ。少納言信西の娘・阿波内侍が清水寺の本尊のお告げで開いたといわれている。その先に「名物力餅」の暖簾がかかるお店に入った。今日は暑いので「冷やし中華」を頼み、お稲荷さんも食べた。お餅の入った力うどんが名物のようだ。

街道に戻り、勧修寺手前で京街道と別れる。その先に「随心院」がある。真言宗小野派の大本山で、小野小町ゆかりの寺である。寛永2年(1018)仁海僧正が草庵を結んだのが起源。本堂には小町に寄せられた恋文を下貼りにして作られた「小野小町地蔵尊」と小町の晩年を写したという「卒塔婆小町」像が安置されている。

庭園はシャクナゲが満開で、花嫁姿の前撮りが行われていた。

小町の歌碑「花の色は うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに」

お腹いっぱいになって、前回泊まったホステルに向かった。今日は気温が上がり、真夏のようなお天気でだったが、無事に街道を歩いてここまで来ました。今回もいろいろな方に道を聞きました。有難うございました。

伏見宿へ

総門

唐門

仁王門

前回は遅かったので、門が閉まっていた。今回は門の中に入る。(本堂正面の東側の寺標と西側の石は再建事業の際に出土した400年前の本堂の礎石である。)と書かれていた。

先に進むと、「東本願寺別院」がある。「会津藩駐屯地跡」でもある。ここは「四辻の四つ当たり」と言われていた。この先で京街道と合流する。

先に進むと「常盤御前就捕處地」の石碑が立っている。源義経の母、常盤御前が牛若丸を含む3人の子を連れて逃げる途中に捕縛された地である。

桃山団地を左に見ながら国道24号線を歩く。「常盤御前就捕處碑」を探して団地の中に入る。左の道に入り、教えられたところを左折すると「伏見奉行所跡」が団地入口にあった。(伏見は幕府直轄領であった。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、会津兵や新撰組はここを本陣とした。しかし御香宮神社に陣をしいた薩摩軍に砲火を浴びせられ焼失した。)もとは江戸前期に伏見奉行に任ぜられた小堀遠州の邸宅跡である。歴史の勉強をしている方たちがこの前で紙を広げ、何か話をしていた。

車の往来が激しい外環状線を横切り、←の方向に行き、京都宇治線の下をくぐり淀川の土手に出る。桃山温泉「月見館」があり、三十石船が飾られている。

この辺りには、因幡、和泉、大津町、丹後、駿河、伊賀、板倉周防などの日本各地の地名が町名になっている。伏見城周囲には側近大名の上屋敷があり、その名残の地名であろう。 右側にある「月橋院」はもとは「指月山円覚寺」といった。秀吉が豊後橋(現観月橋)完成の折に、寺の裏の月見岡で月を鑑賞したことから月橋院となった。

少し下がった東側に昭憲皇太后の伏見桃山東陵がある。天皇より少し小ぶりな墳墓で、こちらも良く整備された立派な山陵である。この辺りは秀吉が築いた伏見桃山城の本丸があったところである。

石田大山交差点の角に「乳薬師日野法界寺」の道標が建つ。法界寺は親鸞聖人の先祖、日野資業(すけなり)が永承6年(1051)日野家に伝わる薬師如来を祀ったのが始まり。 しばらく歩くと「宇治市」に入る。

その先の奥に「稲荷神社」がある。隣に「崇徳」と刻まれた石塚がある。裏手には「区民のほこり」と書かれたムクノキとエノキの大木が聳えている。

随心院をでて、化粧橋天田川を渡る。随心院の化粧井戸からの水が流れることからこの名が付いた。山科区から伏見区に入る。坂の途中に「弘法大師独鈷水の道標」と石造物がある。独鈷水は、密教の法具「独鈷」で地面を突くと水が湧き出たという伝承の井戸で、全国各地にある。

小野榧(古木)の切株やカヤの実などが展示されている。

鳥せい」で親子丼と焼き鳥を食べた。お酒が飲めれば伏見の清酒を頼みたいところだが、飲めないので、鳥料理の夕食をとった。築100年の酒蔵を開創した居酒屋で、日本で最初に酒蔵で飲食店を始めたお店だそうです。

文化ホールを過ぎ、小さな地蔵堂のあるY字路を右に入る。上り坂で直ぐ脇に奈良線の線路が通っている。このあたりは伏見城の跡で、虫籠窓のある古い家が残っている。新町集会所のあたりがピークで、ここから下がっていく。「お舟入跡」の説明板と常夜燈がある。(文禄年間伏見城を築くのと並行して宇治川の河道を現在のように伏見城下へ迂回させたが、慶長元年(1596)の山城大地震後、伏見城再建の木材や石材を運ぶため、宇治川と山城川との合流地に御舟入(河港)を設けた。秀頼に嫁いだ家康の孫・千姫が、この舟入から乗船し、大阪城に輿入したと言う。)

左側の電柱の看板に「柿しぶ」と書かれている。「柿渋西川本店」がある。京都には柿渋の会社もあると驚いた。私は一閑張りをやっていて柿渋を使っている。その先に「ひだりふしみみち」「みぎきょうみち」と刻まれた石道標がある。

坂が宇治川に向かって下っている。「町並」バス停の先で左に入ると「御蔵山商店街」に入る。直進すると府道7号線の向こうにJR奈良線の高架が見え、左に行くと「JR六地蔵駅」がある。高架をくぐって西方向にカーブすると御茶屋さんの前に「六地蔵宿高札場」石柱がある。「ゴミ集積所」の看板が括り付けられていて、それを入れずに写すのに苦労した。

その先に架かる「泉大橋」は文化14年(1817)の架橋の石橋で、現在も現役で頑張っている。その先の右手には「善願寺」がある。聖武天皇皇后・光明皇后の発願により、行基が地蔵尊を本尊として創建した。地蔵尊の胎内には行基による千日千部の写経「地蔵菩薩本願経」が収められている。腹帯地蔵として信仰を集めている。境内には「小町カヤ」の大木もある。「参詣は予約のみ」と書かれていた。

集められた石造物を過ぎると左側に「西方寺」がある。「雷除 清龍大権現」の石柱が建っている。清滝大権現が祀られており、古くから雷除けの信仰があった。

各地に伝説を残す小町だが、「小町化粧井」の近くに住んでいたといわれている。境内の裏手には小町に寄せられた恋文千通を埋めたという「文塚」がある。

筍があちこちで顔を出している。

藥医門

線路をくぐり京阪「観月橋駅」の交差点を右折する。交差点の所に「城外の庭」とかかれた立て看板が立っている。小さな庭のようなところがあり、「伏見城石垣の基礎部分の石」「慶長の大地震で倒壊した城から残りし石」と書かれている。秀吉は桃山山陵に伏見城を築く前に、指月の岡と呼ばれた宇治川北岸の丘陵に指月城を築いた。完成直後に起こった慶長大地震で倒壊し、死傷者を多数出した。交通量が多いので、看板ばかり写し、傍にある小さな庭を見逃した。

国道24号線には淀川を渡る「観月橋」と「新観月橋」が架かっている。文禄3年(1594)、秀吉が伏見城築城の際に架けたのが「豊後橋」。幕末の動乱で焼け、明治6年に再建し、秀吉の月見伝説にちなみ「観月橋」と名付けた。