「それからセルマとジェームズとロジャーとハリエットは、
喉を鳴らしながら大好きなお母さんに別れの挨拶をしました。
そして一匹また一匹と順番に、子猫たちはその翼を広げ、
空に飛び立っていきました。
路地を超え、屋根を越え、遥か彼方へと。
ジェーン・タビーお母さんはじっと子猫たちの姿を見守っていました。
心配と誇らしさとで胸がいっぱいになりました。」

アーシュラ・k・ル=グウィン『空飛び猫』

〜木の根っこでひと休み〜

(写真をクリックしてみてください)

「光のない時代だけど
たくさんのものが
今日から見え始める
今日は
その一番最初の日
初めの日」

谷川俊太郎編『祝婚歌』より川崎洋「祝婚歌」

〜落ち葉のコンチェルト〜

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「いい子だからじっとして、ダーシェンカ。
動きまわるんじゃないよ。
ピントを合わせてシャッターを切るだけだから、すぐに終わるよ。
その間に、お話を聞かせてあげよう。
テリアが地面をひっかくのはなぜか、というお話はどうかな。
ねずみを探しているのさ、と人はいうけど、まさかね。
君はねずみのせいなんかだと思うかい?
君はまだねずみを一匹も見たことがないはずなのに、
それでも(このいたずら者め)私の花壇をひっかきまわすね。
わけを知っててやるのかい?知らないって?それなら、おしえてあげよう。…」

カレル・チャペック『ダーシェンカ』 

「最後に空港できみの手を握って、抱き合って、別れた後、
飛行機に乗ったとき、離陸して高く高く上がり、
群青の成層圏の空を見た時、ぼくはこの星が好きだと思った。
それから、どうしてそんな気持ちになったのか、ゆっくりと考えてみた。
飛行機の中って、時間がたっぷりあるからね。
そうして、ここがきみが住む星だから、それで好きなんだって気がついた。
他の星にはきみがいない。」

池澤夏樹『きみが住む星』 

〜きみがいる、きみがいない〜

〜おてんば娘〜

お婆さんの姿が見えなくなると、みんな不思議そうな顔をしながら、
自分の仕事や行き先などを思い出して輪から離れ、それぞればらばらに歩きだした。
警官もパトカーに戻り、再び三人だけになると、子供が、
「おじさん、あのバッタ、風になってどこに飛んでいったの」
と聞いた。
「バッタはずっと考えていたんだよ、広い青空のどこに向かえばいいのかって。
そしてやっと決心して、みんなの心の中にある青空にとんでいくことにしたんだ、
きっとね」
思いつきで判ったような話をすると、
「よくそんな照れ臭いこと言えるわね」
お母さんがこっちの目を見てにこっと笑った。目と目が合って、ふたりの間にも風が起こった。」

『12water stories magazine summer issue 永井宏「風の神様」』

「スミレの花冠には、また実際的な効用もあったらしく、
これを頭にかぶって宴席に出れば、酔いを防ぐことができるともいわれたらしい。
プリニウスの本にも、そんなことが書いてある。
たぶん、その匂いが酔いを醒ますと考えられたためで、
宴会中に何度も新しい花冠と取り換えられたりすることも行われたようだ。
名にし負うローマの美食家連中が、
てんでに頭にスミレの花環をかぶって酒を飲んでいるところを想像すると、
なんだかおかしくなってくるではないか。」

澁澤龍彦『フローラ逍遥 菫』


〜心の青空〜

〜菫の花かんむり〜

ブルーム氏はしげしげと、優しく、つややかな黒の姿を見守った。
見目がきれいだ。すべすべの毛艶、尾の付け根の白いボタン、
緑のきらきらする目。手で膝に突支棒をして、彼は猫にかがみ込んだ。
─猫にゃんちゃんにはミルクだね、彼は言った。
─ンニャアー!猫は鳴いた。
愚かだなんていわれてるが、こっちが判ってやる以上に猫はこっちのいうことを分かる。
こいつときたら分かりたいことだけは分かるんだ。執念深いところもある。
残酷。生れつき。

柳瀬尚紀編・訳『ユリシーズのダブリン』 こちらから

〜猫にゃんちゃん〜

「十八歳の私は「はなをこえ/くもをこえ/わたしはいつまでものぼっていける」
と書き、そこで「かみさまと/しずかなはなしをした」らしいのですが、
六十歳の私は「一日は夕やけだけで成り立っているんじゃないから/
その前で立ち尽くすだけでは生きていけないのだから/
それがどんなに美しかろうとも」と書きます。
このふたつの詩句のあいだに私のすごした年月があると私は思いたいのですが、
一方で詩の値打ちが作者の成熟とはあまり関係ないものだということも
考えざるをえません。」

谷川俊太郎『ひとり暮らし』 こちらから

〜ある年月〜

「かぜは せんたくものと あそぶのが すき。
まくらカバーを ふうせんみたいにふくらませたり、
シーツを ゆすったり、えぷろんのひもを ねじったり、
せんたくばさみを ふっとばして、
ほしてある ふくを きようとする。
もちろん かぜは しってるんだ、
どのふくも かぜには ちっちゃすぎること。」

マリー・ホール・エッツ『ジルベルトとかぜ』

〜かぜは知ってる〜

〜こいつぁいい船〜〜

「もう一そうは、うごいたりとまったりの、
気まぐれエンジンのついた、潮まかせという名の、
こいつもふるい両船首の船だった。
やっぱり水もれがはげしくて、しょっちゅう浜にあげては、
すきまにピッチをつめたり、板をはったり、ペンキをぬったりのしどうしだった。
「こいつはぁ いい船だよ。」バートじいさんは、船のともを かるくたたき、
スクリューを やさしくけとばしながらいつもいった。
「外板のいたんだところがちっとばかし気になるけど、
おひさまの光がもれるすきまもねえ。」

ロバート・マックロスキー『沖釣り漁師のバート・ダウじいさん』
 

私が再びクラウンにあったのは、一九六六年九月のことである。
私たちが別れてから七年の歳月がたっていた。
二二〜二五年といわれるイルカの生涯にとって、
七年といえば大変な長さである!七年の間に、
クラウンは何百万人という違う顔を見、
また何十人もの新しいダイバーたちに接してきただろう。
だから、彼女が私をすぐに認めるだろうとは期待しなかった。
人間だって七年もたてばわからないこともある。
私はなつかしい水槽のふちに立った。
ここはとても想い出深い場所だ。
私の前に六頭ほどのイルカたちがやってきたが、
その中にクラウンがいるのかどうか、わからなかった。
彼女の特徴となっている鼻と背中の傷跡が、どこにあったか
思い出せないでいたのだ。
うろうろ立っている私はまぬけに見えただろうか。
クラウンは私に気付いていたのだ。
私がここを訪れた瞬間から、彼女は私の存在を
感じていたのである。
私は人々と話しながら、ふちから身をのり出した。
瞬間、クラウンがしなやかに飛び上がり、私の髪をくわえた!
おおクラウン。

ジャック・マイヨール『イルカと、海へ還る日』 こちらから

〜再会〜

(sold out)

旅が、もし、何かを見に行く、というだけの営為であったら、
いや、それは何かを食べに行くでも、何かをしに行くでもいいのだけれど、
要するに、あらかじめ想定された何かのためにのみ行くのであったら、
なんとつまらないことだろうかと、私の魂が呟く。
そうではなくて、「何があるか分からない」からこそ、旅する甲斐があるのだ。
(中略)
とにもかくにも、表街道を走っていては何も見えやしない。
まず、横道に曲がってみよう、この路地を入ってみよう、
あの山の向こうへ超えていこう、この川をどこまでも遡ってみよう、
そんなふうにして、私は旅する。

林望『私の好きな日本』

〜旅をする甲斐〜

(sold out)

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

谷川俊太郎『うつむく青年 詩集 「生きる」』

〜生きているということ〜

(sold out)

「マドゥレール、目を覚ましてごらん。」
「なあに?どうしたの、サクマット?」
「見てごらん。」
少年は、寝ぼけまなこでベッドに腰かけた。
暗闇の中で、あたり一面に、何百という細い穂が
金色のひかりを放って輝いていた。
たれた穂は、暗い草原のそこここできらめいて、
まるで風にゆれているように見えた。
「光草(ストラリスコ)だ!」少年は叫んで、
ベッドの上に飛び上がると、息をのんで立ちつくした。
「晴れ渡った夜だよ。」サクマットがいった。
マドゥレールは上を見た。何百もの光の点が暗い夜空にまたたいていた。
顔を上にむけ、ベッドに足をめりこませながら、
マドゥレールはぐるりと体をめぐらして、四方を見渡した。
そして、まるで宙をつかもうとでもするかのように、
胸の前で両手をせわしげに握ったりひらいたりしては、深々と息をついた。
「ああ!お父さまはこれを知ってるの?」少年は視線をおろさずにたずねた。
「マドゥレール。わしはここにいる。」太守が低い声で答えた。
姿は見えなかったが、クッションの上の彼もまた、深い息をついていた。
マドゥレールのそれよりも太くゆったりとしたその息は、
まるで、光草(ストラリスコ)の穂をなびかせる風の波のように思えた。

ロベルト・ピウミーニ『光草ーストラリスコー』

〜光の穂〜

「人は誰でも人生という限られた時間の中を旅人として生き、
そして死んでいきます。しかし、草木と同じように人もまた、
種子によって再生されていくのです。
全く新しい世界を発見するということは、目の前に広がる風景を
ただ単に描写するだけではできません。
逆に、何もしないで自分をも含めた風景の側に身を任せた方が
良いのかもしれません。そうすることで、人間もまた自然界における
風景の一要素としての性格が、きちんと備わっていることを、
充分に認識できると思うからです。
その中で耳を澄ますと、風景を風景たらしめる核心のイメージが
静かに流れ出してきそうではありませんか。そういえるのは、
私が小さな礼拝堂を相手にここノルマンディーで、すでに6年間
生活してきましたが、それまで暮らしてきた東京より多くのことを体験し、
新しいことを感じたり発見したりしてきたように思えるからです。」

田窪恭治『林檎の礼拝堂』 

〜耳を澄ます〜

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