芭蕉が金沢で世話になった宮竹屋は大きな宿屋で関所の通行証も扱っていたのだそうだ。ご馳走も食べたし地元俳人の訪れもあって元気を取り戻した芭蕉はあちこち出かけて行く。反対に曽良は体調をくずして宿に残ることが多くなった。二人は金沢着10日目に小松に向けて出発した。
新幹線と北陸線を乗り継いで昼過ぎに小松に着いた。那谷寺まで直通のバスはないが粟津温泉行きがあるので、バス待ちの間に実盛の兜を見ようと多太神社を訪ねた。重文の兜は宝物殿の固く閉じた扉の奥で、拝観希望者はチャイムを鳴らして家人を呼ぶようにと書いてある。社務所のあたりに人の気配もなく、これではバスに間に合わないと境内に立つ彫り物の兜と髪を染めている実盛の像を見て駅に戻った。
初めて那谷寺に来たのは35年も前の冬で雪が降っていた。すべてが無彩色の世界で足元を気にしながら長い石段を上り下りしたが、白壁に朱塗りの柱も鮮やかな大きな金堂の記憶はない。拝観券売り場の人の話では平成2年の再建だという。内部は撮影禁止で極彩色の巨大な千手観音を見上げて手を合わせるだけ。この巨大観音ももちろん初対面だった。
ぴかぴかの金堂に続く書院は対照的にいかにも古びた建物である。寛永14年(1637)前田利常が再建させ、自らここに住んで堂塔再興の指揮を執った。別料金の拝観券を買って入った庭園は職人が剪定作業の真っ最中でツツジも咲き終えて庭内は緑一色だが、とりわけ鮮やかなのがコケのじゅうたんだ。そのむこうには巨岩に池を配した別の庭がある。岸壁の中央の割れ目が阿弥陀三尊に似ているというので三尊石琉美園の名があり、行き止まりに茅葺きの茶亭があった。池には緋鯉が悠然と泳いでいた。前回はここも公開していなくて、白山神社からすぐ石段を上って大悲閣に行ったような気がする。境内の様子は大分変わった。 金堂脇の石段は普門閣と結ぶ隧道に通じていた。胎内くぐりで外に出て、また石段を上り重文の鐘楼堂と護摩堂を経て唐門前の池に下る。石段また石段の上り下りで風景ががらりと変わるのが那谷寺の魅力だ。大悲閣の拝殿の奥岩窟に鎮座する千手観音を拝した。ここでまた胎内くぐりをやって飛び出した所に池が広がる。その先には優美な三重塔、対照的に扉の奥の大日如来が全体に赤黒く、森羅万象を宿しているという割に表情が何となくさえないのは南北朝の戦乱で南朝方の焼き討ちに会ったからだろう。石段を降りた一角に芭蕉の句碑がある。
石山の石より白し秋の風
今は初夏だが空は雨雲がたれこめて石の色も暗く湿っぽい。芭蕉が訪ねたのは今なら9月の半ば過ぎで前夜は雨、朝にはやんだが夜にはまた降っている。前後4日間は雨模様で今日の私と似たような空の下で那谷寺の奇岩に対したと思われる。当然ながら秋風は冷たく翁はブルルと身震いしただろう。ところが「石山」と言えば近江の石山寺を連想してしまう私には、昔からこの句の風は秋晴れの空の下を白い奇岩に吹き渡る冷涼な風で眼前の風景とは無関係。秋風を白いというのは古来の形容句だが、芭蕉が風と対比した白い奇岩はどちらの寺なのか。句作の経験のない私に答は出せなかった。
護摩堂から鐘楼堂、寺宝や土産物を並べた建物までくまなく回って、山門前の店であまり旨くもない甘酒を飲んで時間をつぶし、那谷寺入り口まで歩いて山中温泉行きのバスを待ったがさっぱり来ない。田舎のバス路線の常で知らぬ間に廃止になったのではと会社に電話したら「大丈夫、待っていてください」。なるほど30分も立ちん坊をした甲斐あってやって来たバスは金沢始発のデラックス、地元の客が二人降りて乗り込んだのは私一人。500円で温泉まで貸切りで行くのだから豪勢なものだ。
客も暇なら運転手も暇だから車中のおしゃべりが楽しい。若い運転手さんは一人旅の愛好者で話が合う。彼は山中温泉の魅力を大いに宣伝し、私が泊まる予定のときわ館を絶賛した。
「こじんまりした宿がいいんです。落ち着きますからね」
(左)鬢を染める実盛像 (中)那谷寺山門 (右)芭蕉の句碑
(左)三尊石琉美園 (中)三重塔 (右)懸崖造りの大悲閣
(平成21年5月21日)