上野駅を深夜の23時30分に出る急行能登には以前から一度乗りたいと思っていた。クリーム色の地に赤いラインの入った電車は、新幹線が出来る前に東海道線を走っていた特急こだまと同型である。その頃は学生で特急に乗るなんて分不相応もいいところだった。就職して東海道筋に転勤してしばらくしたら新幹線が走るようになり、特急こだまは東海道からローカル線に追い出されてしまった。学生時代にあこがれた電車はボンネットの縁が腐食していて、婆さんになった昔の恋人に会った気分だが、こちらも爺さんになっているのだからおあいこか。老いたりとは言え終電に乗り遅れたサラリーマンに人気があって、いつも混み合うのだそうである。
 酒くさい連中と一緒ではたまらんとグリーン券を奮発して乗り込んだが、気がつけば今日は日曜だった。普通車はガラガラでグリーン車の方が混んでいる。発車前から大いびきをかいている仁もいて、こちらは大金を損をした気分である。うつらうつらと一晩を過ごし朝六時高岡駅に着いた。小雨が降っていてうすら寒い朝だった。
 高岡は銅器の町として知られるが、その職人の技の集大成が高岡大仏で奈良・鎌倉に次ぐ規模を誇る。元来は金銅仏を蔵した木彫りの大仏だったが、明治の大火で焼失してしまった。今の大仏は昭和の初期に青銅で再建されたものである。台座の中が回廊になっていて、焼け残った仏頭や50人ほどの職人の記念写真が飾られていた。
 寺を出て古城公園を一瞥し、大火後に建てられた土蔵造りの町屋やクラシックな赤煉瓦の銀行が並ぶ山町筋を歩いて駅に戻った。途中の商店街にはひょろ長い兜の武者キャラを描いた開町四百年の旗があふれている。利長クンなどと気安く呼ばれる武者キャラは前田利家の長男前田利長で、徳川幕府勃興期に加賀藩の存亡をかけて渡り合った人物である。何事も可愛く可愛くユルキャラばやりの世の中とはいえ、クン呼ばわりはいささか礼を失する感なきにしもあらず。
 さて市振を出て越中に入った芭蕉一行は滑川で一泊した後放生津を経て高岡に向かった。氷見に行きたかったようだが断念してその思いを句に託している。
 わせの香や分入右は有磯海
(左)新宿駅の急行能登 (中)高岡大仏 (右)山町筋

 芭蕉の心残りを慰めてあげようと駅前から新湊行きの万葉線に乗った。二両連結のスマートな路面電車だ。万葉線の名の通り、ここは天平の昔国守として赴任した大伴家持が馬を遊ばせ多くの歌を詠んだいわば万葉の里。高岡駅前に立つのは家持の像で、さすがの芭蕉もここではちょっと影が薄い。
 新湊の海王丸パークから所々に松並木の残る昔の街道をぶらぶら歩くと放生津八幡宮に着いた。境内にも形の良い松が残っている。鳥居と言い社殿と言い堂々とした造りの神社である。拝殿の上には人の背丈ほどもありそうな木彫りの狛犬がいる。弘化3年(1846)当時19歳だった矢野啓通という青年が作って奉納した物で、彼は明治に入って宮内省御用達を務め帝室博物館にも多くの作品が収められている由。それはともかく八幡宮は家持が宇佐八幡宮の分霊を勧請したことに由来すると云い、境内には家持を祭神とする祖霊社がある。芭蕉の「わせの香や」の句碑もあったが、これは没後150年に地元の俳人が建てたものだった。
 放生津の西では庄川が富山湾に流れこみ、さらに西では小矢部川が流れこんでいる。曽良が「渡有。甚大川也」と記しているのは庄川の方だろう。ここを渡ると六渡寺で高岡までの街道になる。私は万葉線を中伏木で降りて小矢部川のたもとに出た。現代の渡しはここから対岸の伏木まで往復しているのである。
 この渡しが義経伝説にいう如意の渡しで、渡し守に怪しまれた義経を弁慶が叩きのめして疑いを晴らしたという所だ。義経受難の地はあちこちにあるがここもその一つ、豆フェリーで渡った船着き場の脇に義経を打擲する弁慶の像があった。船長さんの話では朝晩のラッシュ時を除けば日中は閑散至極、今頃来る観光客は珍しいとしばしの会話を楽しむ。200円の料金であっという間に着いてしまうのに、「乗船のしおり」という立派なパンフに記念スタンプまで押してもらって、これはもう商売抜きとしか思えない。
(左)海王丸パーク (中)放生津八幡宮 (右)小矢部川の渡し船

(平成21年4月27日)