寄田松之助の墓![]() |
(2016/04/05追記) 「寄田小学校百十周年記念集」に寄田松之助に関することが以下のように掲載されています。(要約) ① 明治34年に同町の山之口に小学校を造るとき、多くの人骨が発見された。 ② 伝説によると、そこは昔の城跡で寄田松之助という豪族が住んでおり、当時、羽島、寄田、阿久根近くま での海岸一帯を治めていた。この頃、戦があり、敗れた寄田松之助以下の遺骨ではと語り伝られている。 ③ 小学校の工事が始まったときの校区長であった松野松太郎は、「この人骨こそ伝説の寄田松之助の遺骨であり、守り神である」として区長室に安置し、朝夕礼拝していた。 ④ 大正十五年頃、同小学校で教鞭を執っていた女性教師の寄田利根先生は、寄田松之助の末裔で寄田松之助のお墓を大事に見守っていたらしい。 ⑤ 現在の寄田松之助の墓は大正七年四月、当時の校区長村尾矢之助が中心となり、校区民二百戸の住民により建てられた。 前述以外の文献はありませんが、寄田松之助は南北朝時代、町一帯を統治していたと伝えられています。 南北朝の戦い(約670年前)で南朝方(後醍醐天皇派)であった寄田松之助は、北朝方の足利尊氏派(島津貞久)に滅ぼされたのではないかと私は推測します。 寄田松之助が生きていた頃の時代背景(関連分を抜粋)※ 歴史に興味のない方はスルーして下さい。 1246年 天皇後継を巡り、大覚寺統と持明院統に分裂(南北朝の始まる遠因) 1333年 後醍醐天皇(大覚寺統)による建武の新政はじまる。(後に武士に対する恩賞問題等により足利尊氏離反) 1335年 「箱根・竹之下合戦」で足利尊氏に後醍醐天皇方の新田義貞破れる。 1336年2月 足利尊氏が南朝方に破れ九州に逃れる。 同年3月 「多々良浜の戦い」(現福岡市)で尊氏が南朝方に勝利する。 1336年7月 足利尊氏、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げ、「湊川(現神戸市)の戦い」で新田義貞・楠木正成連合軍を破る。 1337年 南朝方の懐良親王(後醍醐天皇の九男)が西征将軍に命ぜられ、先遣部隊が薩摩に到着 同年7月 南朝方の伊集院忠国と北朝方の伊作島津家の島津久長が伊作(現日置市吹上町)で戦う。 (この時、宗家の貞久は京都で合戦中) ※伊集院家は島津家の一族であったが、この時は島津宗家と対立 1340年 島津貞久が薩摩に戻ると北朝方が勢いを盛り返し、南朝方を攻撃、伊集院忠国は撤退 この時、鹿児島の南朝方の豪族は次々に陥落したとある。(この時に寄田氏は滅んだのでは?) 寄田氏が伊集院氏とともに連携していたかは不明? 1342年 南朝方の懐良親王が薩摩に上陸し島津氏と戦う。このあと10年ほど南朝方が優勢を維持 |