今月のメッセージ 97-030505
「自由をあなたに」 牧 師:永 山 進
『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。』(聖書) あるアンケートの調査によると「自由」は、日本人の好きな言葉、五つの中に必ず入って来るそうです。確かに、人間の幸せと言うことを考え時に、自由は大切な要素です。 しかし、最近の世相を見ると、「自由」と「放縦」を履き違えているのでは、と思わされることが多々あります。『自分の人生、どう生きようと勝手でしょ?』『私のからだ、何に使おうと、とやかく言わないで。』 これは、某TVの街頭インタビューに応えていた中学生か高校生と思われる女の子の言い分です。 聖書の教える「自由」とは、罪の奴隷からの解放を意味する自由です。「罪」と言うと、一般的には「殺人、強盗、泥棒」等を想像することでしょう。しかし、聖書で言う「罪」とはそれだけではありません。「憎しみ、ねたみ、高慢、貪欲、情欲」等々。 あるご婦人が次のような悩みを訴えて来ました。彼女の息子さんは大学受験に失敗し、親友の息子さんは合格しました。口では『おめでとう、良かったわね。』と言うのですが、彼女の内心は、『どうして、うちの子が落ちて、うちの子より出来の悪いあなたの子が受かるのよ。不合理だわ。あなたの息子も落ちれば良かったのに。』と、ねたみ、恨みにさいなまれてしまったそうです。私は、そのご婦人の話を伺いながら「こんな上品そうに見える人でも、そうなのか」とつくづく、人間の罪の深さ、弱さを思わされました。 私は、イエス・キリストが、私達の手に負えない、その罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえって下さったことを伝えました。 そのご婦人は、自分の罪を認め、イエスを救い主として信じ受け入れました。彼女の帰る時の顔は、丸で別人のよう輝いていました。罪の呵責から開放され、再び、例の親友に対しても、心から『おめでとう。本当に良かったわね。』と、言えるようになったそうです。彼女は今も、真の自由人として歩んでおります。 あなたにも、ぜひその自由を知っていただきたいと願います。 |
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