教育に取り組む場合に、だれでも学校で教育を受けた経験があるので、つい勘と経験で取り組んでしまいがちである。しかし、教育を受けることと教育をすることとは相当に違う。企業という組織としての教育に取り組むからには、独りよがりを捨てて、信頼できる根拠(エビデンス)に従うべきである。具体的には法律に従って、規則を制定するのである。
教育基本法 (教育の目的) 第一条 教育は、人格の完成を目指し、…行われなければならない。 |
このように教育の目的は、人格の完成である。人格(personality)とは、特定の人の特定の時期における心身技能、知識、態度の総合成績のことである。特定の時期のことなので、教育すると時間の進行とともに向上していく。教育の目的とは、人格の向上であり、いいかえると成績の向上のことである。
法律の第一条は、その法律全体の目的や守備範囲を述べるものであり、第二条以降とは性質が全く違う。目的は一つの国がやることではなく、大勢の国民一人一人、つまり教育の受益者がどうなるかを表現している。
教育基本法 (教育の機会均等)第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず… |
「能力に応じた教育機会」とは、学業能力や職業能力などの分類(カテゴリ)ごとの科目や学科を表す。教育基本法の参考文献である「アメリカ教育使節団報告書」を読むと、次のようなカテゴリが例示されている。
道徳・倫理、歴史、地理、保健・体育、職業、国語、芸術、音楽 | |
物理学、生物学、医療、看護、社会事業、ジャーナリズム、労働関係、公共行政 |
「個人の成績を評価して、それに応じて教育機会が与えられる」と誤解しやすいが、個人の成績を評価してから科目や学科を準備することはできないから、前もって準備しておく教育機会、社会通念として合意された教育分類、つまり科目や学科の意味である。
目的条文である第一条と履行基準の条文である第四条は正反対の観点である。第一条が教育の受益者一人一人を取り上げているのに対して、第四条は一つの国がやることを定めている。国が学術や職業の分類に基づく教育体系を提供し、一つの分類の教育機会には複数の国民が受講するという形で、縁組が決まっていくのである。
職業能力開発促進法 (目的)第一条 …職業に必要な労働者の能力を…向上させることを…目的とする。 (定義)第二条 … 2 この法律において職業能力とは、職業に必要な労働者の能力をいう。 |
「職業に必要な労働者の能力」とは、職業能力(vocational abilities)のことである。教育基本法の人格の一種であり、特定の労働者(worker)の特定の時期の職業のための総合成績のことである。それに対して学校での成績は、学業成績(academic abilities)と呼ぶ。
企業内教育の目的は、社員の「職業能力の向上」である。
職業能力開発促進法 (職業能力開発促進の基本理念)第3条 …職業の安定及び労働者の地位の向上のために不可欠である… …経済及び社会の発展の基礎をなすものである… …職業生活の全期間を通じて段階的かつ体系的に行われること… |
「職業の安定(job security)」とは、職業安定所などの名称で分かるように、個人が就職できて解雇されにくい状態のことである。企業内で職業教育をすれば、ほかの職種への人事異動が容易になる。人数が過剰になった職種の社員が解雇されにくくなる。
「地位の向上」とは、昇級、昇格、昇給などのことである。上級専門教育や管理職教育をすれば、社員の昇級や昇格が容易になり、給与が昇給することになる。
「経済及び社会の発展」は、企業内で職業教育をすれば、勤続した社員の成績が向上するという蓄積効果がある。社員の成績向上によって企業の力が増す。企業集団の力が増すと、貧困国が発展途上国に、そして先進国になりえる。
「段階的」とは、職業生活の全期間を6・3・3・4制の学校教育のように、4年程度ごとの段階に区切って、隙間なく教育することである。一般には職級ごとに階層別教育課程を設ける。
「系統的」とは、購買、設計、製造、販売、会計のような職種分類ごとに、隙間なく教育することである。学校教育の学科種類ごとの教育に相当する。
職業能力開発促進法 (計画的な職業能力開発の促進) 第十一条 事業主は、その雇用する労働者に係る職業能力の…向上…促進するため、…計画を作成するように努めなければならない。 |
「事業主」とは会社法の取締役のことであり、一般には社長のことである。
「計画を作成する(formulate a plan)」とは、教育規則を制定することである。計画というと年度計画や5か年計画を思い浮かべやすい。そうではなくて会社を登記し、会社を創立する時から、社長が抱いている社員教育の意図(intent)を公式記録である会社の上位規則にしたためるという意味である。
教育規則の主な内容は、社員に対する教育課程(curriculum)である。法律条文上の計画とは、多くの場合は当該組織の上位規則の意味である。そして上位規則の多くは、大筋の構造を定める。例えば、組織規則は会社の組織構造を定めるし、就業規則は社員の職種分類、職級分類などの人事構造を定める。
職業能力開発促進法 (計画的な職業能力開発の促進) 第十一条 2 事業主は、…その計画の円滑な実施に努めなければならない。 |
会社法上は、取締役、一般には社長に全責任があるが、部下に権限委譲することができる。ただし、計画と実施監督は権限委譲することはできない。企業内教育については、計画とは教育規則の制定のことであり、実施監督とは教育実施総括報告書を承認することと、その他の教育実施時の臨機の監督のことである。
説明性(accountability)とは、会計制度から生れた概念であり、記録を根拠にして説明可能であることを言う。会計制度の場合には、社長は会計部門を含む組織規則や会計規則を制定し、財務報告書に目を通して承認印を押すことによって、会計の説明性が保証される。教育についても同じように扱う。なお、アカウンタビリティを説明責任と訳すのは間違いであり、そのような意味はない。
教育規則の雛型は次のとおりである。
教育規則 制定年月日 社長名 (改定年月日履歴・・・) 第1条 本規則は、職業能力開発促進法第11条に従い、社員の職業能力の向上を目的として、教育業務の担当者、主な教育課程、及び社外との関係を定める。 <前半部 教育業務の担当者> <中間部 教育課程> <後半部 社外との関係> <付表 教育課程一覧など> |
会社の上位規則類には、合議制で決めるものと稟議制で決めるものとがあるが、教育規則は多数決で決めるようなものではないので、一般には稟議制によって社長名で発行する。なお、官公庁の場合には、大臣・長官名で発行するものは規則ではなくて訓令と名付ける。
前半部では、教育の分析、設計、開発、実施、評価などの業務へ、それぞれの教育部門の執行役員、部長、課長などを配置する。このことは後で詳しく説明する。この中では教育実施報告書を社長へ提出することも定める。
中間部では、教育課程を叙述する。教育課程の標準時数、主要科目、担当部門などは付表に列挙してもよいが、付表は必ず読む対象ではないので、教育課程のことは条文で叙述しなければならない。
後半部では、社外の教育の利用を許容したり、社外向けの講師の派遣を許容したり、社員以外への教育機会の提供を許容したりする。例えば、派遣社員やパートタイマへの教育機会の提供を許容する条文があれば、この教育規則の全体では教育の受講者を「社員」という用語に統一することができる。
この教育規則には、社長及び人事部の教育業務を定めることは、必ずしも必要ではない。社長はこの教育規則を制定して発行することが、教育に関する業務をしたことになる。また、人事部は教育規則の起案をして稟議手続きをしたり、それぞれの教育部門が提出した教育実施報告を教育実施総括報告書としてまとめて、社長に承認を受けたりすることは、組織規則の人事部の業務に「教育に関する事務」と記載するだけでよい。
残念ながら、従来は多くの会社がこのような定石に従っていなかった。以下のような会社は、法律を遵守しているとはいえないし、社長が教育に責任を持っていることを、教育規則や教育実施総括報告書という記録を根拠にして説明することができないのである。
教育規則を定めていない会社が多い。教育部門の教育細則に頼っている。 | |
計画のことを規則ではなく、年度教育日程のことだと誤解している会社が多い。 | |
教育規則で教育課程を定めずに、OffJT、OJT、自己啓発という分類を述べたり、教育を受講する手続きを定めていたりする会社が多い。 |