1.八甲田山雪中行軍遭難とは

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 明治35年(1902年)1月に日本陸軍第8師団の青森歩兵第5連隊の冬季行軍隊が八甲田山(はっこうださん)で、猛吹雪と豪雪により、道に迷って遭難した。行軍に参加した軍人210名中199名が死亡した。この事故を八甲田山雪中行軍(せっちゅうこうぐん)遭難事故という。この行軍の主目的は研究であって、訓練ではない。

 この大きな事故は日本全国に報道された。次に示すのは2月4日の九州の佐賀新聞の記事である。

●軍隊凍死彙報

第8師団第5連隊第2大隊の雪中行軍の大惨事は実に我国未曾有の椿事なり。今や遭難者の屍体も続々発見され、中には多少生存者もある由なるは、まず不幸中の幸というべし。とにかく前代未聞の椿事なれば繁を厭わず、東京その他の新聞により、昨日まで得たる各方面の報道を蒐集して左に掲ぐべし。

 ▲先ず後藤伍長を発見す 三上少尉の指揮せる捜索隊は1月27日大瀧平付近に於いて、先ず伍長後藤房之助氏を発見せり。このとき同伍長は尚生存せしを以て、その言により行軍隊遭難の実況を知り、かつ捜索の手掛かりを得たるは何よりの仕合わせにてありしなり。今その概況を記さんに、捜索隊は27日幸畑及び茂木野より人夫と共に行軍隊の目的地たる田代を指して進行せしに、風雪はなはだしく、寒気酷烈華氏26、7度に降り、捜索隊も非常の困難を極め、田茂木野を去る二里半、大瀧平の付近に至るや続々凍傷者を生じ、既に1名の如きはその場に倒れたる有様なりしが、その時、先に進める人夫、百間ばかり向こうに人らしき物の佇立しおるを認めしが、一歩動きたるを見て初めて軍人なるべしと察し、大声を揚げてその場に進めば、同軍人は直立せしまま身動きもせず、目をキョロキョロせし・・・

 今では100年以上も経ってしまったが、事件の後には次のような進行があった。

 1904年から1906年まで、日本とロシアが戦う日露戦争があった。雪中行軍研究の成果が活かされた。

 1941年から1945年まで、日本と米国等が戦う太平洋戦争があった。

 1970年は高度経済成長が華やかな時期であるが、青森の著述家小笠原孤酒が、八甲田山雪中行軍事故の史実(ノンフィクション)資料「吹雪の惨劇 第一部」を自費出版した。このシリーズは有名にはならなかった。

 1971年に小説家の新田次郎が創作(フィクション)小説「八甲田山死の彷徨」を出版して、ベストセラーになった。

 1977年に小説「八甲田山死の彷徨」をもとにして森谷司郎監督が映画「八甲田山」を制作した。青森隊の大隊長山田少佐(史実では山口少佐)を三国連太郎が演じ、中隊長神田大尉(史実では神成大尉)を北小路欣也、そして弘前隊の徳島大尉(史実では福島大尉)を高倉健が演じて大評判になった。小説と映画は史実の内容を大幅に変更し、実在の人物に失礼のないように名前を変更した創作である。

 高度経済成長の時代に大人だった人達の、おそらく半数近くはこれらの小説や映画を知っているだろう。しかし、知っている人のほとんどは小説や映画をノンフィクションだと誤解しているようだ。

 私のこのウエブ資料は小説や映画の方ではなく、史実の方を紹介する。ときどき小説や映画と史実とを対比する。小説の好きな人にも歴史の好きな人にも興味を持ってもらえるだろう。

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