教育再生への企業人からの提言

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(以下の文章は、「第4の道を創る会」が自家出版した「日本の再生」の中に掲載された筆者の記事です。)

第7章 教育再生への企業人からの提言                 君島 浩
 筆者の所属したIT業界では、国際通信連合ITU、外資系のIT企業、及び米国の教などから、教育学の現代的な理論及び技術を導入して効果を上げてきました。学校教育のノウハウは、歴史物語や実践体験談ばかりで、つかみ所がありません。逆に我々企業の教育実務者から、学校の教育再生の役立つ提言ができると考えます。

■教育再生への五つの提言

(1)教育再生の振り子現象からの脱却を
 詰込み教育からゆとり教育へ、そしてゆとり教育から詰込み教育へという「振り子現象」は枠組の改革でしかないので、枠組はあまり変えずに内容の改善に取り組むことを提言します。企業は教育制度にはあまり手を加えず、その内容を改善してきました。

(2)物語・体験依存から理論・技術の強化へ
 詰込み教育は教科書を読ませる時間を増やし、ゆとり教育は体験する時間を増やすものですが、私はそうではなく教育の理論や技術を充実させることを提言します。企業内教育では、読解力を強化するのに読書や作文に頼るのではなく、言語生成規則、フレーズリーディング、あるいはテクニカルライティングなどの理論・技術を導入して実務者を育てています。

(3)教師の実践力強化にも理論・技術の強化で
 我々、企業人が導入したような現代的な教育学の理論と技術を、教職養成のカリキュラムへ反映することを提言します。学校教育が詰込み教育とゆとり教育の間で振り子現象を起こしている根本原因は、教育学部自身が教師を養成するのに、歴史物語を読ませる方法と、体験させる方法を乱用しているからです。我々が参考にしようとした教育学部の教科書がつかみ所がなかったのは、歴史物語と実践体験談ばかりだからです。

(4)教師の自閉性に温かい処方を
 教師にはおしゃべりであって、人の話しを聴かない人が少なくありません。その性質を理解して、上手に手助けすることを提言します。私の経験では偏見を排除しても、教師や教育学者には聴き上手が少ないのは明らかだと思っています。その原因は歴史物語や体験に没入してきた風土であり、彼ら彼女らが悪いのではないという理解をしたいものです。理論や技術を提供するのが得意な人の協力を得るのが有用な処方です。
(5)大学教員育成も同様な方向へ
 大学では教育育成(ファカルティデベロップメント)が取り組まれていますが、職員育成については一日の長のある企業に学ぶようにすることを提言します。

■学校教育論の振り子現象
 詰込み教育から、ゆとり教育へ転換し、そして再びゆとり教育から詰込み教育へ転換しました。多くの人がどちらかの方針を支持して、相手を批判しています。しかし、元へ戻っても解決にはならないという理屈に気付いているのは筆者だけでしょうか。
 北海道教育大学の宮下英明は、このことを「学校教育の振り子現象」としてウエブサイトで次のように説明しています。「学校教育の論は,極端から極端に飛ぶ。 単純から単純に飛び、学校教育という複雑系に見合った構築のプロセスが起こらない。 同じ繰り返しを振り子のようにやる:Aで世の中ダメになった感じだからB。Bで世の中ダメになった感じだからA。・・・(AとBとの繰り返し)」
 そして、国民もマスコミも政治家が論争していても、結局のところ本当に改善に取り組む責任者が不在ということを指摘しています。「〜もちろんこれは『マスコミが悪い』という問題ではない。〜問題 (深刻な問題) は、『深く』を請け負うところが無いということだ。 本来なら、学校現場と学校教育の行政機関が『深く』を守備領域にしなければならないのだが、現実はそうなっていない。」
 宮下は、現在の教育改革の見かけ上の取組者は、労力の投入者でもないし、専門家でもないということを論証しています。「さて,学校教育の施策決定はつぎのように行われる:(1)『有識者』を集め。(2)思い思いに発言させる。(3)これらの発言をもとに,案をまとめる。(4)この案をたたき台にして,施策を最終決定する。(5)この施策を,現場に下知する。ここに,学校教育や教育問題や教育技術を科学した者はいたか?いない。施策の失敗において加害責任を負う者はいるか?いない。」
 「鉄道屋と居酒屋が教育再生を決めた」と揶揄する人は多いですが、真の問題はそうではなくて二つあります。第一の問題は鉄道屋にしても居酒屋にしても、IT業界のような教育の現代的な理論や技術を導入していないことです。第二の問題は学校現場も学校教育の行政機関も教育学者も、古い教育学を基盤にしていることです。
宮下は次のように科学的な方法を締めくくりました。「このように、『正しさ』をめぐる対立は、科学的立場ではつぎのように解釈される:(1)『正しさ』をめぐって対立するAとBでは、問題を捉える仕方が違っている。(2)つぎのような理論を求めることが、科学のやり方である:AとBの両方を、この理論の中に位置づけることができる。」最後の部分は解釈が難しいですが、もっと上位の概念で対立を解消できるという意味でしょう。
教育学の理論や技術をありがたく導入した筆者は、学校教育のノウハウが歴史物語や実践体験に偏っているのが問題だと考えます。諸問題の原因は理論や技術の不足なのに、それを詰込み教育派とゆとり教育派が互いに相手のせいだと誤解しているのです。

■米国で始まった問題点指摘: オクラホマ州の教育学部批判レポート
 教育再生会議とその反対派の論争が泥沼に入っています。詰め込み教育かゆとり教育かの居酒屋談義も決着がつきません。しかし、米国で同じような議論を全く別の角度で行っていることを、知っている日本人はほとんどいません。
米国オクラホマ州の学識者たちの協会が、教育学部とほかの学部を、成績や科目カタログによって比較評価した報告書を発行しました。その要旨は「ほかの学部には理論教育派と方法論教育派と歴史教養派と実践体験派の4本柱がしっかりしているが、教育学部だけは歴史教養派と実践体験派の2本柱しかない」ということです。ゆとり教育派の別の顔は実践体験派であり、詰め込み教育派の別の顔は歴史教養派です。
 この協会は提言の一つに「スキル科目の時間を減らして、教科教育法の科目の時間を増やすべきだ」としています。スキル科目とは教室で生徒を扱うような実践技能のことだと思います。日本の教育学部は教師の実践力不足を解決するために、実践の時間を増やそうとしています。実は教科教育法科目では、理論や技術を教えています。ここに目を付けたのがオクラホマの協会であり、気付いていないのが日米の教育学部です。
 教養派は過去の歴史の講義を重んじます。過去の歴史は実践の歴史なので、驚くべきことに実践体験派と本質は同じです。単に歴史物語体験派と現代物語派とが派閥争いをしながら、理論派や方法論派の進入をはばんでいるのです。
 教育学部と同じように人間を扱う専門家を育てる法学部は、米国でも日本でも、4本柱は歴史教養、理論(法律論)、方法論(判例研究など)、実践体験(模擬裁判など)です。どれが欠けても検事、弁護士、裁判官として通用しません。医学部の4本柱は歴史教養、理論(生理学、病理学など)、方法論(内科診療、外科診療など)、実践体験(模擬患者診療など)です。
 日米ともに教育学部は、法学部に例えれば法律や判例を教えずに、裁判の歴史や模擬裁判だけで法律専門家を育てているようなものです。あるいは医療の歴史と模擬患者診療だけで、医者を育てているようなものです。
 オクラホマ州の報告書には、次のような皮肉が引用されています。「医学の始祖のヒポクラテスよりも、現在の新米医師の方が明らかに頼りになります。でも現在の新米教師に習うよりも、教育の始祖のソクラテスに学ぶ方がマシです」
 学部間の共通試験の成績比較によると、教育学部は明らかに成績が低いとのことです。日本で比較がしやすい入学時偏差値は、教育学部はほかの学部に比べて明らかに低かったです。ただし、最近の製造業の就職人気低下によって、変化が見られます。

■日本の問題点: 物語に偏重する教育学部科目
学部の科目カタログは現在では、ワールドワイドウエブで閲覧できます。教育学部の科目カタログだけは、やたらに実践体験談や歴史物語が多いのです。専門学校よりも理論的内容が薄いと言っても過言ではありません。
日本では、戦前は現在の高校の年齢層の師範学校があり、教科書や指導要領や黒板使用法や生徒管理法という、実践的な作業を教えていました。敗戦後に、米国教育使節団の勧告に従い、学部レベルの教育学部にして、米国型の教育学部カリキュラムを導入しました。これがリベラルアーツという教養中心の米国型教育学部の輸入だったのです。
日米ともに、法学部や医学部はリベラルアーツに加えて、専門分野の理論や方法論を教えています。東京医科歯科大学には教養部がありますが、教養部の単位だけ取得して医学や歯科学を学んでいない医学生を想像できるでしょうか。教育学部はそういう状態に近いのである。
リベラルアーツだけでは不備だということで、日本では師範学校系の実践体験派が別の形で復権しました。それが授業研究です。米国でも日本の授業研究に見習ったりして、実践体験派ががんばっています。簡単に整理すると、戦前の師範学校の流れが実践体験派であり、京都学派が継承者であり、ゆとり教育派に支持されています。敗戦後のリベラルアーツの流れが歴史教養派であり、東大が継承者であり、詰め込み教育派に支持されています。

■提言1:二派対立から四本柱協力への転換による振り子現象から脱却を
 教育学部のカリキュラムを、ほかの学部のように、教養、理論、技術、実践体験の4本柱を整えることを提言します。
 一学年 主に教養(歴史を含むが一般理論も)
 二学年 理論(教育原理を歴史物語ではなく、理論書にしたもの)
 三学年 技術(教育方法学を歴史物語ではなく、技術書にしたもの)
     教科教育法(科目別の理論および技術)
 四学年 実践体験(事例研究を含む)
 従来の教養(歴史物語派)と実践体験派が時間の大部分を占めて、失敗するたびに相手の時間を奪って振り子現象を起こしていました。そのことが初等中等教育にも同じようなことをやらせていたのです。根本原因は大学の教育学部にあったと思います。
 このような編成替えするのに必要な時間は次のように確保できます。

これらの変更は、科目内容の改善で済ませられる。振り子型の改革よりもはるかに移行期間の無駄がない。

歴史教養や実践体験の時間比率が多すぎた。歴史物語や実践体験は教育効率が悪いので、その時間を減らして理論や技術の講義に移せば、全体時間は増えない。

従来の教育で貢献してきた教科教育法から、理論や技術の共通部分を一般理論や一般技術の科目に集約すれば、重複が減って全体時間は増えない。

■提言2:物語・体験依存から理論・技術の強化へ〜読解力教育を例に
 言語には言語学という理論があり、言語生成規則などの技術があり、コンピュータによる翻訳などにも応用されています。国語教育の内容を、読本や体験的作文などへの偏重から、言語解析の技術や言語生成の技術を含めた四本柱の構造にすべきです。
 読解教育の改善が取り組まれていますが、改善施策の柱は作文演習の時間増加策です。教育学特有の「ノウハウなしに自分で工夫させる」という傾向がここにも表れていると言えます。書かれている文章とは何か、読解とは何か、そして読解に適する教育方略とは何かという内容が乏しいのです。教育学の質的水準の低さに関するオクラホマ州の報告書では、教科教育法科目の時間数が犠牲になっていることが指摘されています。しかし、それは学生に対する教育時間不足の問題であって、読解教育の問題は国語教育学者の活動に国語学や言語学の教育方略の文献の引用が乏しいという問題なのです。
 読解教育の転換によって頼りにしようとしている感想文作文は、長いこと批判され続けていますが、改善される気配はありません。感想とは何か、文章とは何か、作文とは何か、それらに適した教育方略は何かという内容が乏しいのです。なお、読解教育の改善を論じる国語教育学者のある論文は、話題(トピック)と文段(パラグラフ、いわゆる段落)とが全く対応していない文章でした。文章技術を実践していないのです。
 ある大学の教員たちの論文集の文章技術はばらばらでした。理科系の教員の文章は問題のないものが多いのにです。文科系の教員の文章は、規定ページ数に対する量の少ないこと、文段が長過ぎること、文段ごとの結論・総論があいまいなこと、研究成果の説明に比べて、前置きが非常に長いことなどの質的水準の低さの問題が多い傾向がありました。量の少なさはワードプロセッサへの不慣れの結果かも知れませんが、文章技術以前に気力が乏しいという態度の問題のようにも受け取れます。科目概要記述の日本語にも論文集と同じ傾向が見られます。こういったことは学生の授業評価でも見抜かれていますし、筆者のような学外の人間にも公開されているのです。

■提言3:教師の実践力強化にも理論・技術の強化で
 法学部や医学部と同様に、歴史教養も実践体験も大切であることは議論の余地はありません。教育学部が改善すべきなのは、教育理論や教育方法論の科目の時間を増やすことです。その改善が教養や実践体験の内容を減らす心配はないでしょう。内容が薄くて、要求成績が低かったので、何かを犠牲にしなくても改善できるはずです。
 日本では現場の教員の実践力不足が指摘されています。最近の教育学部や教職大学院のカリキュラム改革は、更に実践体験の科目時間を増やそうとしています。オクラホマ州の報告書は、現場の教員の実践力不足を解決するには、教育理論や教育方法論の時間を増やすべきだと勧告しています。実践を増やしても実践力不足は解決しません。
 弁護士や医者が現場で下手だったと仮定しましょう。例えば、東京医科歯科大学で教養部と模擬患者診療演習の単位しか取得していない学生が医師になったら、もちろん実践力はありません。実践体験教育の不足が原因ではないので、実践体験を増やすことは逆効果になるだけです。
 詰め込み教育かゆとり教育かという論争は時間の無駄です。日米ともに2本柱だけの教育学部を4本柱のある堅固な学部にすることが第4の道です。ほかの学部と同じようにすればよいのです。
 教職課程の質的水準の向上の施策が進められています。朝日新聞が「自省する『戦後教育学』」という記事を朝刊に掲載して話題になりました。また、広田先生は「教育学は閉鎖的で、その水準もはなはだ心寒いものがある」と述べています。教育学部に関する主義主張の議論は多くなされている一方で、水準の問題は深い議論がなされていません。
 ある日本の教育大学の科目概要記述を調べたところ、オクラホマ州のと同じような傾向が顕著でした。教育学専門基礎と言える教育原理、教職入門、教育方法学の教科書は、歴史や現代社会問題などの説明が多くて、用語、理論、枠組、方法論などの定義が見つかりにくく、それぞれの説明量も少なく内容が乏しいと思えます。
 科目概要記述には、歴史、現代社会問題、研究、体験、気付き、振り返りなどの内容や教育方略が目立ちます。ほかの学部でも高学年になると事例研究、臨床演習、卒業研究などが登場しますが、教育学部の場合には低学年にも研究や体験が多く、伝承すべき学術体系が確立していないのではないでしょうか。

■提言4:教師の自閉性に温かい処方を
 教育学の分野には自閉的な人が少なくないことを筆者は何度も体験しています。ある大学で同じ日に医学部行事の懇親会と教育学部行事の懇親会を掛け持ちしたことがあります。教育学部の学者と同じテーブルを囲んで挨拶して、私が中央省庁の職員であることを名乗りました。その後は、教育学者たちが自分の取り組みテーマのことを一方的に話していました。質疑応答の会話ではなく、相手の話しに関心を示さずに、自分の得意な話題をプレゼンテーションしあっているだけなのです。私には何の質問もありません。文部科学省以外の中央省庁の職員が教育学部の行事に参加するというのは、不思議だと思うのが常識だと思うのだが、他人のことには一切関心がないらしいのです。
 教育学部行事の懇親会を退散して、同じキャンパス内の医学部行事の懇親会へ移動しました。医学者たちが私を珍しがって「何のために来たのか」「どんな仕事をしているのか」などと質問します。私も医学者たちに聞きたいことを質問すると答えてくれます。教育学者と違って、医学者は相手のことに関心を持つし、相手が関心を持って質問したことに回答するという会話が成立していました。医学者が問診の商売屋だから、ということは関係がないでしょう。教育学部以外の学者はおおむね会話が成立するので、教育学部だけが特殊なのです。児童・生徒と対話する教師を養成していることと矛盾しているのです。
 これとは別の教育学の研究会のあとに少人数の懇親会がありました。私は近くの学者や院生と挨拶を交わしました。どんな仕事や研究テーマなのか質問しました。私は省庁の職員という特殊な人間なのに、私のことに関心を示して質問したのは若い院生だけでした。ほかの学者たちは、自分の研究や学校のことを長話しすることを応酬しあっています。会話のように見えますが会話ではないのです。私はアルコール好きなので、ビールのグラスがすぐに空になりましたが、だれもついでくれません。話しに夢中だし、私に関心がないしで、気がついてくれないのです。
 私はこの変わった雰囲気に興味を示して、私に質問したり、グラスに気づいたりするまで、どのぐらい時間がかかるか実験することに決めました。黙々と料理をつつき、残り少ないビール瓶から手酌をすることに専念して、じっと待ちました。驚くべきことに約3時間の懇親会の間、教育学者たちは全く、この省庁の職員に対して話しかけなかったのです。
 どうやら教育学や人文学には、一芸に秀でた自閉性の強い人が、ほかの学部に比べて集まりやすいように思います。歴史物語や実践体験を重んじて、理論や方法論を軽んじる風土が、そういう人を誘引するのではないでしょうか。そのことがまた、理論や技術を強化するのに支障になっていると思います。一芸に秀でた学者は貴重です。健常な学者が、それらの学者をうまくカバーして、ほかの学部のように歴史物語、理論、技術、実践体験の四本柱をそろえるようにすることが、解決策だと思います。。

■提言5:大学教員育成も同様な方向へ
 大学の教員育成(ファカルティデベロップメント;FD)が推進されています。例えば旧国立大学の教員は国家公務員であっても、公務員研修らしきことが皆無に等しい状態でした。大学の教員にも職業能力の向上を目的として、仕事の教育をしようというのが教員育成です。
 しかし、大学の教員育成はうまくいっていません。文部科学省は教員育成のことを大学設置基準で「大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない」として義務付けてしまいました。「職業能力の向上を目的として、仕事の教育をする」というのに対して、目的や手段を間違ったと言えます。ちょっとしたことですが、法規を制定する時には重大な問題です。
 教員育成と称して流行しているのは、学生による授業評価や教員による授業研究です。学生による授業評価は「職業能力の向上を目的とする、仕事の教育」には該当しません。しかし「授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研究」には該当しないとは言えません。教員による授業研究は「職業能力の向上を目的とする、仕事の教育」には該当しません。しかし「授業の内容及び方法の改善を図るための研究」には該当しないとは言えません。
 学生による授業評価は簡便な施策として流行しています。また教員による授業研究も流行しています。大学の教員は研究が好きだからです。しかし、文部科学省が教員育成の目的と手段をはき違え、大学側も好んで教員育成に該当しない施策を推進しているのが現状です。民間企業のように組織として目的と手段を正統的にとらえて、トップもボトムも適切な行動を取るという根本ができていないのです。大学の教員育成の責任者は文部科学省ではなくて学長であるべきだと思いますが、学長が責任を果たさずに学生や教員に丸投げしています。
 大学の教員育成が迷走していることと、前半で述べた教育学部の迷走とは少し関係しています。大学の教育の職業能力とは、研究能力、教育能力、事務能力、管理能力、対政府能力、対産業界能力などで構成されます。この中の教育能力は、教育学を教育することで向上させられるはずです。そこで問題になるのは教育学部に、教育の理論や方法論が乏しいことです。教育学部の学者に頼んでも、教育作業の方法を教えてもらえないのです。
 それはまだ大きな問題とは言えません。逆に教育学者が大学全体の教員育成を仕切って迷走を大きくしている例もあります。教育学者は授業研究が大好きです。一般の学部の学者も巻き込んで、教員育成と称して理論なしの授業研究に巻き込むのです。ただし、正統的な教員育成を進めている大学も少しですがあるのが救いです。

<参考文献>
⑴Herring, et al.,「At the Core of the Problem: Reforming Teacher Preparation in Oklahoma」,Oklahoma Association of Scholars,2001.
⑵カーン他著、小泉俊三監訳、「医学教育プログラム開発」、篠原出版新社、二〇〇三。
⑶ガニエ他著、鈴木克明他訳、「インストラクショナルデザインの原理」、北大路書房、二〇〇七。
⑷柴田義松他編著、「教職入門」、学文社、二〇〇三。

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