つれづれの歌 続編 歌集 「風」
平成27年11月4日 三筋山(細野高原)のパラグライダーや風力発電の羽が回るのを眺めつつ、秋のススキの原が銀色に輝く様を堪能しました。三筋山からの天城山の全景、、相模湾に浮かぶ島々はススキの揺らぐ先に眺められ、目に見えないが『風』に何か感じるものがあり、これからの歌は心の隅に「風」を意識して歌を詠もうかなと漠然と思いました。世の流れにも「明日は明日の風が吹く」、「風を読む」、「追い風がふく」とか、人の心にも隙間風、風に逆らう、「風に流される」などの使われ方をします。歌を初めてはや五年、今までの「つれづれの歌」に物足りなさを感じ、そのページは終わりにしました。これからボチボチ新たな気持ちでこのページを綴って行きます。
気に入っている歌
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稲取の三筋山の細野高原の薄が原に始めて行く。天城山は何度となく歩き、ブナの林や、シャクナゲや、馬酔木、八丁池の黄葉を見て歩いたが三筋山からの眺望は天城山が前面に見える。稜線を眺め、たどってゆくと歩いた時々の景色が蘇り嬉しくなる。
三筋山の細野高原の薄の山肌は銀色に輝き、パラグライダーが浮かび、風力発電の風車がゆっくり回っている。時を刻むのは風車の羽の回転と、その音でしかない。その様な景色を眺めているうちにふと、当たり前の風の存在が不思議に思う瞬間があり、自分の過去も風の如く過ぎ去ってきたことを改めて思う。強風の風、やすらぎの風、いろいろな風が思い出される。子供の頃の台風は恐ろしく窓に板で補強するが、今にも破壊されそうな気がして窓を手で押さえた記憶がある。じっと過ぎ去るのを待つ時間のなんと長いことであったか。そんな風の時もあったが、どちらかと言えば「風に吹かれて」の生き方であった。
相模湾に島影が見えて、暖かい秋の日差しの陽を浴びて眺めているこの瞬間はありがたい。
MRJ国産ジェットの初飛行、未来の日本暗示するきがする。YS-11から半世紀後の国産機らしい。
風立ちぬゼロ戦超えよ初飛行
神風よ吹け国産ジェット
久々の晴天に本栖湖の湖畔の竜が岳を登る
変化のない笹山であるが富士を眼前に眺めつつ登り、見下ろす本栖湖は紅葉に色づく
頂上からの眺めは八ヶ岳、北岳、赤石岳のアルプスを眺望 今日の登山は次への山の期待をもらう
11月22日は良い夫婦
富士山は雪に覆われるでなく頂上の白と斜面は青く全体が氷で覆われているように輝いている。
厳しさと生き生きとした姿に見とれる
晩秋の冨士
旭滝
滑川渓谷
今年もひと月を切る。和泉式部の歌はその所を端的に歌っている。
かぞふれば年の残りもなかりけり 老いぬるばかり悲しきはなし
暮れぬめり幾日をかくて過ぎぬらむ 入相の鐘のつくづくとして
天気快晴 今年最後の沼津アルプスを縦走。自宅から香貫山~徳倉山~鷲頭山
駿河湾はさざ波が浜辺は弧を描きその先に冨士の姿が、大瀬の岬や天城山の眺望もよし
山は装い眺めつつ息を弾ませ喘ぎつつ縦走す。こんな山歩き日和そう多くはない
家に帰り血圧を測ったら高血圧の数値は消えて脈拍は増え若返る。
歩くことは、きつい歩き程若返ることを身で体験、続けて行こう。
沼津アルプス縦走
15日 城山峠~葛城山~益山寺を歩く
葛城山にて
益山寺
年の瀬は何とも瀬はしなく過ぎて行く。新の年を迎えべく、新たな望みや楽しみの中にひしひしと忍び寄る老いの影。
お寺さんへの付け届け、神棚のお札をもらうも、なんと早いものかと驚かされる。
庭木も知らぬ間に太り、家回りも傷んできて年月の過ぎていることを実感。
左の山が矢筈山 右に遠笠山、万次郎、馬の背、万三郎岳と連なる
矢筈(やはず)山 天城眺めて気にかかり
何年ぞ過ぐ いざ登らんや
年明けて、初日の出の綺麗な陽で年が明け、自分も神棚や仏壇を拝み晴れやかな気分
一本の身内の不幸の電話にすべてが消えて、神頼みする自分の三が日となる。
一日朝に連絡が入り、昨日弟は心筋梗塞で入院との知らせ 心肺停止で病院に
梅の花は三分咲き。
パッションフルーツの実は五個寒空に。
寒さ堪える日になった。
埼玉の越谷の弟の入る病院に
カーナビで 未知の地を往く心ぼさ
首都高速は迷路の如き
大寒過ぎて寒さがきつい
最強の低気圧が来ると言う
夕方に雨が落ち初め、雨で終わるか雪になるか 阿弥陀でもするか
スカイウォーク
韮山反射炉
如月は春を待つ月、雪の降る月、正月後の寂しい月か
やっと日が長くなるのを少しづつ感じるが山登りの衝動は未だ湧いては来ない
寒さがきつい日が続く。先月の大寒波は雪にならなくてよかった。
昨日の雪国の様な曇り空の後の今日は長閑な陽が射して、香貫山を散歩する。
庭のパッションフルーツの実が色づいて、皴が寄ってきたため一つ食べたらトロピカの味
女房、娘にたべてもらおう。
弟は心筋梗塞で入院したが、はや一月余経つが未だに意識が戻らず
このところ 地震が目立つ まだ五年
震災の余波に 日本は揺れる
マイナス金利で世界が激動 目的の円安株高の目論見は全て逆に,今後の展開は如何に
アネモネが咲く 梅はボチボチ終わりに向かう 春一番の訪れとなる
バレンタインの日曜日
二日は弟を見舞いに埼玉に
三日のひな祭りは何もせず、ブドウの棚を修復して一日が過ぎ
四日の暖かい春日に庭を見ると小ぶりの水仙、白いハナニラが咲き初めて春が来たことを実感
8日天気がよくて愛鷹から眺めると天城山の左に位置し、以前よりその形状が気にかかっていた矢筈山(別名げんこつやま)に出かける。午後一時半を過ぎてから登り、途中で方向を見失うなどいろいろ迷った山ではある。一瞬遭難の語が頭をかすめ、焦ってしまい、やっと夕暮れ前に下山して命拾いをした。ハイキングコースとは訳が違った。
子供の頃の冒険心を少し思いだす。愛鷹の少年自然の家(昔は競馬場と呼んでいた)や水神社に山道を歩いたころの思い出である。道無き所をよくぞ恐れずに、現地でもちを焼き、帰りは桃沢川を下って日が暮れて家に帰った。
矢筈
矢の末端の弓の弦 (つる) を受ける部分。矢柄を直接筈形に削ったものと、竹・木・金属などで作って差したものとがある。
竹や棒の先が二股になった、掛け物を掛ける道具。
17日朝から一日ぽかぽかに(彼岸太郎)、快晴で富士山は真っ白、庭の花々を眺めて楽しむ。めったにない陽気に何をせずとも心がぽかぽか、気温は20度を超えたかも。木々の新芽や、小さな梅の実を眺めて春の息吹を胸いっぱいに吸い込みました。
18日から寒が戻って曇り空、小雨ぽつり、寂しき彼岸
足保港(沼津)にて
穏やかな春の陽を浴びて冨士山や愛鷹山がくっきりと。桜はまだ蕾で今年の開花は東京より遅い。春を求めてシラスを食べに訪れる。気分的にも、そのものにも美味きシラスを堪能、これからは春を味わうものの一つにしよう。やはり日本の四季はありがたい。、桜の頃はまた格別なものがあるとしみじみと感じる。
4月の声に、花見や山歩き、と心浮き立つ月になる。
入社式のニュースをみれば遠い昔を思いだす。春は希望と不安と色々な旅立ちの季節、桜の花はその諸々の思いを宿す気がする。
連翹や雪柳、馬酔木の花や山野草が咲き、芽吹く様は桜ばかりではなく眺めて嬉しくなる。
1日 香貫山をブラブラ散歩。広陵台の2羽の鶏(チャボ?)が木に登り花見をしていた。
花曇りの花冷えの陽気に。桜は五部咲き、蕾ははじけそうに膨らんで、初々しい。
2日 駿河台公園、門池は人が群れてやむなく愛鷹公園の桜を見物、無料の甘酒に花冷えの体を温める。
花冷えの曇り空に春告げ鳥の声が弱々しく流れて、寂しくもある
富士の周辺の山 田貫湖から白糸まで長者ヶ岳と天使ヶ岳を歩こうと出かけたが雨が落ちてきて諦める
長者とか天使とか崇高な言葉が気にかかる 次のハイキングは迷わずにここを登ろう
近くに狩宿の下馬桜という日本五大桜の一つに挙げられている桜を見る
天気は曇り桜は満開、やや期待外れの花見になる。身延の久遠寺の枝垂桜の方が見事かも
田貫湖の桜は霧雨の中、しっとりとした風情が心打たれる
富士山本宮浅間神社の桜は散はじめ、湧く玉池や神田川の清流に桜の花が浮かび散る花を見て永遠の時の流れを感じる
こんこんと清流流れ、散り桜舞う光景は水底の藻の緑と一体となって艶やかであった
19日田貫湖より登る
霧の山も 運よく晴れて 富士の展望満喫する。
田貫湖には人が多く、結局は20日のダイヤモンド富士が目当てであったようだ。
翌日の静岡新聞にその写真が掲載されていた。
暦では穀雨に入る。草花は次から次に芽吹き、ミカンの花が咲き、スズランが咲き、新芽が目立つ。命の芽吹く季節になる。
山歩き、富士を眺めていたら(ふと人の生き方思いつつ)
久々に庭の木を剪定
梅の木にテントウムシの様なカイガラムシがびっしりと付いていた
薔薇が咲き、庭の花々今年また咲きだし、季節は初夏に、
世間の連休の声を聞けばわくわくする気持ちは理解できても自分には関係がない
五月晴れ、新聞の記事に港口公園の鯉のぼりがあり、千本浜を歩くのも良しとでかける。
公園は普通の鯉のぼりや、園児らの鯉のぼり、ひらきやシーラカンシスの鯉のぼりがあり、これも楽しい
千本浜で初夏の海を眺めつつ食事をしていたら鳶が吾の手のサンドイッチを奪っていく。見上げれば鳶や鴉が群れて我を襲う気配
恐ろしくなり残りのそれを放り投げその間に逃げ出す。
意外な自然との接点を体験、興ざめて早々に帰宅、いつ何があるかわからない、用心用心
予期もせず 野生の鳥と 遭遇を
鳶に襲われ 食を奪はれ
葡萄が育ち、花々咲き揃う 五月の空は柔らかく新鮮で
日差しを浴びて庭の手入れを
春に咲いた花々や、雑草が茂り草取りを
ドクダミの勢力強く重点的に草をぬく 臭いが強く、すぐ生えてくる嫌われ者の草なれど
茶とか薬にもなる ほんとはよき草と言う 我が家では一番の嫌われ草だ
春から夏への花の移ろいが繰り広げ、バラは黄色を植える 私は真っ赤なバラがほしかった
これだけは自分で買うしかない 父の日に買おう
愛鷹の一服峠の三つ葉ツツジ、愛鷹つつじが見頃な時に、富士山と冨士の前の越前岳、その前に鋸の様な鋸岳
その景色を求めてはや5年は過ぎた。12,13日は快晴の冨士が家より見えて、例年よりも少し早いとは思ったが
13日に諦めずに2時間かけててくてくと向かう。
今年は例年より咲くのが早く、一服峠までの稜線はツツジが満開である。富士山は生憎雲がかかっていたが、
半時ほど粘っていたら雲が消え初め綺麗なシルエットが姿を現す
今まででは最高の条件、いろいろと位置を変えてはシャッターを押す。念願の写真が撮れたので、早々に引き返し
写真をチェック、五年間の鬱憤を晴らす内容に自己満足。、富士はすがすがしく晴れやかで、鋸岳のシルエットもばっちり
初夏の緑は精気をはらみ、ツツジは初々しい紫に。
25日 富士のバラ園
曇り空 バラ公園の見物に冨士の中央公園や広見公園に。盛りの時は早往ぎて寂しさ醸す。
潤井川の川端に百人一首の石板や橋に幾つかの裸像の女、富士市は分化の都市である。
富士市のバラは 「かぐや富士」真白なる富士のようで良き名前である。
中央公園
広見公園
梅雨に入り、山に行くのも気おくれし、ぼさぼさの庭木を剪定する。
グリーンカーテンの昨年の花咲きだし、今年はツルを如何に這わすか思案する
葡萄の苗も伸び初め、どれを優先にしようか悩む。
梅雨明けるまで憂鬱な時を紫陽花や、夏椿や、ギボウシの花が癒してくれる
紫陽花の 素朴な花よ 萌黄の葉
見つつ癒され 小雨晴れつる
昨年の 花が咲きだす 梅雨の庭
山は気おくれ 剪定をせむ
読まぬ本など捨てようと手に取れば半世紀前の購入日の記載の自分の文字を見つける。相変わらず汚い文字である。
西田幾太郎の「禅の研究」、理解できずに読まないでいた本。青春の心意気だけはなんとなく思い出す。
18日 夏日の天気に 富士吉田の701号線「中の茶屋」から「馬止め」まで車で、その先を五合目の山小屋まで歩く。
我の歩みは亀なるか、少し歩いては息切れし駆けて行く人らは超人か、数多の人に抜かれても吾のペースは何も変わらず。
このコースは整備されて、ひたすら新緑の中を歩くのだが、途中の朽ちた古の建物、標識など逐一写真に修める。取りあえず今回はこのコースの状況の把握できて良しとする。
19日は父の日、例年の如く子供らから焼酎を頂き、年に二度(吾の誕生日は7月)の唯一の晴れ舞台何時までも続くことを祈る。
パッションフルーツの花が一輪さき、めしべ、おしべを交配させたら、小さな球が膨らんできた。後幾つ実が着くか、昨年は6個
石楠花(半額で昭和の森「道の駅」で買った)を植える。つまらぬツゲの樹を抜いてそこに植える。木の名前は「あけぼの」鮮やかな赤の花。先々のツツジの時期の楽しみが増えた。すくすく育て天城の石楠花
庭のギボウシの花が咲く。花はしとやかで目立たぬが葉をよく見れば緑のまん丸的な葉に黄緑の勢いの葉が画かれて、同じ模様ではあるが同一の形状はない。徒然に模様を比べ眺めるうちに愛着が湧く。
ダンゴムシがよく目に留まる。つかもうとするが丸まってしばらくの間団子状態。転がせばコロコロと小石の如く固くなり忍者の如し、人の眼を欺く。
富士吉田口ルート 木山を歩く
父の日は
イギリスのEU離脱か残留の国民投票の結果は離脱に
結果に異議と唱える人が増え、その内容は投票自体の軽さが目立ち世界経済に及ぼすことや、将来の予測は考えないとか、離脱の根拠の数字に欺罔があったとかふんぎりの悪いものが目立つ。
東京都知事の異常な経費の行く末は、議会を空転、子供じみた答弁に唖然として、法律に触れなければ問題はないような主張、政治家の使命や倫理は何も感じられない。精査精査の言葉が空しい。胸に手を当て冷や冷やしている輩はおらぬか
参議院選がスタートしていつもと変わらぬ選挙戦、有権者との握手に、街頭の選挙カーの主張には有権者との議論はない。寂しき選挙で国政の人らを選び、これこそ民主主義の基本であると言えるか、日々内容に疑問がつのる。
政治家の剪定は難しい
イギリスのEU離脱に
今年も半年を過ぎた。弟の入院も丁度同じ。もうじき私の誕生日とお盆がくる。
富士山は山開き、夏の季節はまた格別な風情を醸し、酒は冷酒にビールが美味い。
日本の夏に乾杯。
昨日は我の誕生日、知らぬうちにこの年になってしまった。「まだまだ若い」は気休めか、目的を明確にしてのんびり過ごそうと思う。
盆の入り、部屋を片付けあれやこれや余分なことまでさせられる。仏壇の掃除は盆と暮れ、何とか間に合い坊さんを迎えるがお経は短くそそくさと去った。植木鉢の壇の周りを蝉が歩く、その蝉は羽化するとすぐに蟻の餌食になった。手を差し伸べておれば、今頃鳴いていただろう。今年は未だ蝉の声せず、蒸し暑い曇り空に雨が落ちてきた。
今朝の蝉の鳴き声に会話ができず。我が家の蝉だろう、抜け殻が樹に張り付いている。何年かを土の中で育ち、地上に出てくる蝉は第二の誕生の日かも、赤子の鳴き声の様で、我が家の蝉の誕生の日なら祝いたい気がする。蝉と言う生体はいろいろ調べれば知識としては解るが、蝉の気持ちは如何かな。花やダンゴムシやムカデを見るにつけ生きるとは何か想像してしまう。
家の庭にはやぶ蚊が多く、雑草減らせば少なくなるかと先日水をやれば固まる砂を買って少々庭に試みた。意外とすっきりしてよし、蚊には疫病神が居そうで好きになれぬ、鼠や野良猫もダメ、人間嫌いには今のところならないでいる。
神奈川の津久井の障害者施設で19人ほどが元職員の手により刺されて亡くなると言う、悲報を聞く。
動機は定かでないが、障害者の存在を否定する卑屈な考えがあると聞く。私が蚊を退治する程度の気持ちかも。
障害者 あまたの命 奪はれる
独りよがりの 変質者かも
沼津第69回花火大会を久々に見物。吾の生まれる前年に始まり、子供のころや、子を連れ歩いた時など、いろいろ思いだす。
桟敷は御成橋の下の最前列 ベストポジションである。
づるづると群を為す人の群れ、露店が群れを妨害す。せっせと歩こう、イライラしつつたどり着くこの場所は夕暮れ迫る静かな川面の光りがゆらゆらと揺れる別天地。闇が迫れば一転する花火三昧、酒を飲み、飲むほどに酔う一瞬の夢か、終わればまぼろしの如く切なさが募る。見上げる連れらの顔見れば年を重ねた顔が並ぶ。顔に花火の光りが点滅、点滅するごとに表情が違い、面白い。
5日 柿田川湧水から三島大社まで歩き寺回り、その後駅から源平川を歩いて柿田川湧水に戻る。
15日からまた三島の祭りが始まる。街中は静まりてその時のために生気を充電しているかのように感じる。
6日 広島原爆忌71周年をTVでみてその後はリオのオリンピック開幕を見る。
8日 イチローが3000本安打達成、男子体操、水泳、柔道の金メダルの情報に喜ぶ
体操や柔道や、イチローなどの生き方はひたむきな練習以外に、一本の信念を感じる。輝く人にこだわりの生き方を感じる。
8日午後三時「天皇陛下のお言葉」生前退位の内容、老いることの厳しさ、退位の必要性につき考える一日。
八月の日本列島は猛暑になり、一途な人生を生きる、老いる、若人の輝きなど様々な事件に人生の縮図を垣間見る。
9日にパッションフルーツの花が2輪咲きだし、受粉する。後2輪は明日にも咲くか。夕去ればしわくちゃになる青い実も水を与えれば翌日にはシャキッとする。何事もメリハリが必要か。
日本躍進のオリンピックが終わり、次は東京
色々な種目に感動し、寝不足の日が解放される。若き日の、青春を一途に打ち込むことに 悔い無きものか。
結果の有無は別、どんなことにもひたむきに打ち込むことにより、人生の肥やしとなる気がする。
人生は短く、青春は束の間、浦島太郎にならぬよう日々気を付けねば。
猛暑でもダンゴムシから蟋蟀の出番に、トリプル台風が突如として現れて、列島を駆け抜けたり、迷走する台風もあり
異常が当たり前のこの頃でも今年の気候は更なる異常。
日中は夏日の暑さがまだ続く。13号台風は温帯低気圧になり、ひと安心。パッションフルーツの実が一つ見当たらず、探すと地に落ちていた。栗の実でなく我が家の秋はこの実から始まる。見上げる空は鱗雲、例年見ている雲ですが、秋の気配を感じ秋刀魚が食べたくなる。今年は未だ高値らしい。温暖化の所為でもないらしい。秋刀魚を食べる国が増えて乱獲と聞く。日本人の長生きは魚をよく食べることにあると思われ始めたらしい。よもすがらコオロギの鳴く声がしてくると、単調な中にいつまでも聞き入ってしまう念仏の様で夜の冷気に体が休まる。
パラリンピックが開催、4年前の感動を思い出す。障害者のひたむきな姿に勇気をもらうが、見る悲しさを抱く。イチローが代打ホームランを打った。これで通算3021安打、足ふみしていてやはり限界かと思いきやまたまた話題に、やはり並みの選手ではない。錦織も全米オープンでベスト4入り、この人も限界と思っていたが驚く結果、自分にも限界はないと信じたくなる記事に喜ぶ。
西田幾太郎の「禅の研究」を読んでいくうちに益々内容が理解できず、諦めてもよいが癪に障るので懲りずに読んでいる。哲学者とは哲学とはその意思は何だろう。一は多であり、多は一であり、個物は一般、一般は個物何を言わんとするか閑人な学問らしい。ソクラテスからベルグソンまで人名をマトメ、何を言わんとしているかまず流れから理解しよう。
世界情勢は各々の国益のため、色々画策があり、非情な交渉力が必要とされることをつくづく感じる。9日北朝鮮の核実験成功。ミサイルの日本海に向けた発射があり脅威は現実になる。
十五夜の満月をみる。秋雨の雲り空や雨が続き秋空の感触忘れてしまうが久々に雲が晴れて満月の赤い月が東に登る。
パッションフルーツの実を冷蔵庫から出して、実を食べれば甘く美味い。くりぬいて焼酎を注ぎ飲んでみるとこれもまた美味い。
この実のために水遣りを、肥料を与えて育てた物はまた格別なものである。
ボクシングの中山の頑張りに感動する。神の手がさく裂、興奮に血圧がかなり上がったかも。イチローも最近マルチヒットが続き勇気をもらう。老いは人様々で目標とするものがある限り、努力をすればケガや病気や事故などを別にすればその人の寿命が決まるのかも。
ボクシング世界タイトルマッチ神の左と言われる山中が見事にその片鱗を見せた
秋雨前線停滞し、日々雨模様が続く。台風18号の行方が気になる。
10月に入り、パッションフルーツの花が又咲きだし10輪ほど受粉ができた。これで今年一杯の楽しみができた。
大隅良典栄誉教授(科学技術創成研究院)の2016年ノーベル生理学・医学賞受賞が決定。細胞が栄養環境などに適応して自らのタンパク質分解を行う自食作用オートファジーの分子機構と生理学的意義の解明”とのこと。基礎研究の成果らしい。また日本の研究レベルの高さが世界に認められる。ガンや加齢による諸々の病気に対して活用が望めるとのこと。そういえば以前スタップ細胞の発見が世の中を席巻した。細胞の若返りであった。こちらは捏造であったが、こんな研究の成果は間違いなくノーベル賞だろう。
無駄を省き、リサイクルの活用は地球規模の生活圏に欠かせないものになり、温暖化による異常気象と言われる昨今の現象(秋刀魚が取れない、シラスが取れない、台風のかってない迷走など)は以前よりいろいろと目立ってきたがいよいよさしせまって世界規模の課題となってきた。この自食作用の原理を生かせないかと素人ながら期待する。阿蘇山が噴火した。地球規模の自食作用は延々と繰り返してきたのかも。
花が咲き 落ち葉とともに 実を付ける
やがて新芽が また花咲く
三石山の登山口まで車で走る。身延の駅を右に曲がり、訳も分からず登って行けば椿草里。なんという地名か、字だけは覚えている。そこから山崩までくねった、落石の目立つ道路を走ると登山口の標識があった。山はどちらかというと平坦で難なく頂上に。三石大明神の宮があり、そこに巨石があり、これが三石の言われらしい。辺りは苔むして視界は乏しいが、岩の上に岩が乗ったりどうしてこんな岩が頂上にあるのか不思議でならぬ。富士山の噴火時の吐き出された岩なのかも。何故頂上にこの目立った石があるのか。
長者ヶ岳 天使が岳の 西の山
三石山は 苔むしており
富士川に 添ってくねるは 十号線
三石山は 姿を見せず
16日秋晴れの中宝永山に登る。以前より季節ごと場所を変えては眺めてきた冨士さんの宝永山に登る。
噴火口は遠目には奇妙で気味悪くうつるが、その山は富士の焼山赤き山であった。噴火口の外輪は赤茶けて火口に向かい崩れて風化しているがここから宝永に噴火してはや三百年余まだ日が浅い。傷跡は鮮明と言わねばならぬ。千七百七年の噴火は想像できぬ世を驚かせただろう。白隠禅師も苦労したと聞く。
娘と歩いたが、第一火口から頂上に登る道は砂利で、しかもかなりな坂で疲れるが、登り切ったその先は雲海を望み、火口の縁の岩は牙をむきだしていた。美しく信仰の山の周辺の木山を歩くことにしてまだ一年ですが、今回のこの場所はインパクトが強い。まだ何年かは富士山周辺に足を運ぶことになりそう。
神無月 朝日を浴びた赤富士の
宝永山に娘と登る
西田幾太郎の『善の研究』を読み始めてよくわからずに読み進む。日々の歌も、少しでもましな歌を詠みたいと新たな境地で読みたいと欲を出しては哲学ムードに流されて歌詠みは中断しましたが、秋の訪をすなおな気持ちで詠もうと思う。初心に帰ろう。自分は自分。
はや11月に入り日本列島を攪乱した大気は安定し我が家の小庭にも秋の色に染まる。
庭の虫なども姿を消して虫刺されの心配もなく庭を楽しめる。
木犀が咲き終ると秋薔薇が咲きだしやコキア、夏椿も紅葉して子庭に秋の訪れてミカンの色づくを眺めて飽きず。
故障ばかりでなく世界のトップも何か変。変な国が増えて世界は変に変わらぬことを願う。8日はアメリカの時期大統領が決まる
北朝鮮やISや中国、ロシアなどに加えフィリピン、韓国、アメリカのトップの振る舞いの非常識 、常識とは何か考えさせられる
きらきらと夕陽が踊る そむければ
校舎の窓に夕陽は踊る
生があるから死がある 出会いがるから別れがある 人様々な生き方でよし
夕方タバコを吸っていると鴉が一羽西に向かって飛んでゆく
出だしが悪いとその後に予期せぬことが発生する。ここまで悪事が発生することもめったにない悪夢の一日
教訓
はや今年も師走、今年は早し、弟が倒れてはや一年もあと少し
てらてらと師走の夕日眩しくて
残光しばしわが目を奪ふ
達磨山から棚場山までハイキング
久々の西伊豆のハイキングは寒晴れて海を眺めて気持ちが良い
西の海辺の土肥や戸田の海岸も行きたくなる
海は凪ぎて土肥の松原公園の歌碑などを見て浜からの温泉街はいつも変わらず穏やか
戸田の湾はべたなぎで西の日差しを浴びて湾を取り巻く山々は黄金色に輝く
松原公園の前の浜より土肥の町を眺める
何か物足りなくて天気が荒れる師走は27日、東名飛ばし弟の居る病院に。首都高速は渋滞激しく千寿大橋まで渋滞が続く。
19時半に帰途、雨の東名高速道路はトラックが多く、昼間に見た我が車をスイスイと追い越してゆくベンツやポルシェは見当たらず。
我が軽四輪も足回り良くトラックの間をスイスイ走る。気分が良い。行きの鬱憤を晴らすかの如く走る。
庭のトマトはもういいだろう、実の付くトマトの木を抜く。梅が数輪咲いている。白薔薇見頃、パッションフルーツの20個の身は少し色づいてきた。今年は特に早く過ぎた。元旦から弟の心筋梗塞が気にかかり何度東名を飛ばして病院に行ったことやら。何もよくなっている気配はなし、悪くなっている様だ。
安倍首相が真珠湾を訪問、トランプの次期大統領、リオのオリンピック、異常気象、都知事選、色々変なことが想い出せば尽きないが
、すべて忘れてPPAP。
年末年始は空晴れて弥生の陽気に。
屠蘇を飲み何するではなく祝い酒、2日は三島大社に初詣、一時間列をなし、ようやく参拝。
今年は厄年、おみくじは「末吉」、今年はそっと過ごせばよいかも。他の連れは「大吉」「吉」「小吉」。交通安全、身体安全色々のお守りを買い嬉しそう。清流沿いの店でビールやお茶にハムサンドなどを食す。
ポカポカの春の陽気の風が吹きぬけて気分よし。ビールが美味い。
ぞろぞろと 参拝の後富くじを
厄年守れ 末吉を引く
昨日は七草粥をたべ、お飾りを下げお飾りをどんどん焼のために公会堂に持ってゆく。
今日は久々の雨の一日、与謝野晶子の歌を調べる。
庭の金柑にいろいろの小鳥がやってきて、金柑を食べる。我もその仲間かな、金柑を食べる。
久々の雨のなか、ヒヨドリが電線に止まり吾の去るのを待っている。
寒の雨の中電線にじっと止まっている姿をみて可愛そうになり早々に立ち去る。
AIは 晶子を真似て「白髪の
虚心の秋の 美しきかな」
20日は大寒、雪降る気配の空模様 雪は降らずに済んでホットする。
庭のパッションフルーツが色づくも寒さで萎びてきた。雲南百薬(おかわかめ)も葉が寒さで溶け出す。すべて撤去したが
オカワカメの効能は癌の予防や視力回復、動脈硬化に効果があると知り、悔しがる
トランプの大統領の就任式を少々みたが、一つ言えることは彼のスローガン(言葉使い)は単純で誰にでも記憶に残るらしい。
シンプル イズ ベスト
短歌の歌語とか調べにも言えるのでは この着眼点に重きを置いて詠もうと思う
弟の病院に車を走らせる。
朝の御殿場にはせまる真っ白な冨士が、帰りの荒川近くの環状線から夕焼けの中に
富士のシルエットがクッキリと描かれていた
早い早い、如月に入る。世の中はアメリカの大統領トランプの大統領令に振り回されている。大企業もしかり
各国のトップもしかり、トランプの姿勢は明確で従来の曖昧な、慣習的な面にメスを入れて素朴に、強引にアメリカ第一主義のもと臆面なく主張する。
その要求に日本はどんな対応を見せるか。当たり障りのない、要求に答えて正論を唱えなければ益々分が悪くなりはし無きか。
世の中のAIの進歩は人間の幾つかの仕事を奪うという心配の声を聞くが私の周りを見る限り無縁と思う。トランプに似た保護主義、ワンマンな態度は是々非々や良識を破壊、やがて人が去り衰退に向かう気がする。
節分と言えば「豆撒き」から「恵方巻」のイメージが強くなる。孫でもいれば「豆撒き」でもよいが
年寄り家族は恵方巻を黙々と食べ鬼は外、福は内。
鮭が不良らしい。いろいろな魚がとれなくなったらしい。資源の枯渇か、先が心配。
土から、海から直接、間接に食を得て、それが当たり前の時代は終わったかも。自然のリサイクルに当てはまらない人間の営みが原因か。
寒晴れに、最近気になってそのうち行こうと思いつつ延び延びになっていた清見寺に行く。我が寺は白隠禅師の若き時に学んだ寺で
清見寺より禅師が来たらしい。臨済宗妙心寺派になる。歴史の長い寺であるとは調べていたので。
場所は興津の駅近く、寺の前を東海道線が走り沼津から静岡に通勤していたり、以前より寺があるのは知ってはいたが何の興味を抱かなかった。隣には瑞雲院がある。由緒ある梅の木があり期待したがほとんど蕾。
寺の前の興津ふ頭の高速道路に沿って公園がありこちらの梅は綺麗に咲いていた。年寄りがゲートボールで遊んでいて環境がすこぶる良い。松岡子規の句碑があり、子規はここを終の棲家と考えていたようだ。
帰りは岩本山の梅林を観梅 生憎富士は雲で隠れていたが、愛鷹山塊がやけに美しく見えた。
山門と寺の間を東海道線が走っている
岩本山の梅園にて
その他
娘より 今年もチョコが 嬉しくて
チョコを勉強 チョコ大好きに
春日の天気に河津桜の見物に。道路は渋滞、やっと現地に。
花は満開春の陽気に人が群れ、車が群れて一足早い春を楽しんでいた。
帰りは渋滞を避けて松崎に出て西伊豆の夕陽を眺めて帰る。
普段の生活を忘れて、やがて来る春の季節を心待ちにする気持ちは雪国ではなくても同じかな。
先日より庭の木々の剪定をする。ぼさぼさの梅の木をかなり剪定。山茶花の白の木は背を低く、赤の山茶花は背を高くして
高低さをだしたら、見違えるように面白くなる。金柑は実がまだたわわに実を付けているが、今回は全て捨てて思い切り枝を詰めた。
知らぬ間に木々は大きく、枝が茂り、日々なんとなく圧迫感があるが今回は時間が十分あり色々選定し納得。
災害、事故に病などの突然死はいつあってもおかしくない。急の訃報を聞けば、我も70歳まであと2年余、将来のいろいろな願望があるが、同時にいつなくなってもよいように身辺整理など終活の活動も必要とつくづく思う。
梅の枝 山茶花の枝 金柑も
樹々の個性を 切りつつ理解
朝晩の寒さはつづくが、日中は春めく陽気になってきた。5日は啓蟄しばらくすれば蚊や毛虫やムカデなどが蠢いて、此方の点では歓迎できない。
久々にクモを一匹目撃し普通なら処分するのだが初物の虫であり、懐かしい気がして眺めただけでした。そのクモは隠れて様子を窺っているように見えて親しみを覚える。春の気分とはこんなものかも。
新聞やテレビ番組は 震災の六年の経過が。 韓国の朴大統領の弾劾裁判と 森友学園への国有地の払い下げの問題
北朝鮮のミサイルと、金正男の暗殺、築地の豊洲移転にからむ真相など話題に事欠かないが、国際的にも、国内的にも何かきな臭さが漂う。政権の慢心が始まれば、国の方向性を見誤り、日本の立ち位置を見失う。
震災もはや六年の月日が経ち、復興は、避難者の生活は、被災地の今後の進展は、色々問うが、避難者への中傷の話は尽きない。
故郷を捨てた人あり、是が非でも帰りたいと思う人あり、まだ見つからない人は2千人余らしい。海岸で骨を探している光景が映る。
原発の廃棄作業はあと何年を要するか、半世紀以上はつづくかも。負の遺産を将来の糧にするには真摯な態度で諸々取り組み、被災者の現状を正確に分析して被災者に添う対応を続けること。
朝晩はまだ寒さが残るが昼間のポカポカ陽気は、何もせぬとも気持ちが良い。
草花に新芽が伸び始めて、今年も咲き揃うだろう。
摘果した金柑の実をヒヨドリが咥えて地に当て砕いている。夜、カボックから飛び立つ鳥があり、ヒヨドリが巣作りを始めた?
草木や鳥や山や海、月に星みて、悠久の時間の移ろいを感じれば我は少しづづ自然と同化しているのかも。
暑さ寒さも彼岸まで。また山歩きの楽しみが、苦しみが。
豊洲移転や安倍首相の寄付は、国有地の異常に安い払い下げなど世間は嘘の弁解方便にうんざりし真実は何かの追及に絶え間ない。WBCは勝負事、勢いとかムードとかに一喜一憂楽しみが。今の日本に足りないのはワクワクするムードでは。政治家は襟を正して政治に当ること、嘘や方便何の役にも立ちはしない。そんなところで苦しむのは人間の恥と知れ。春彼岸、線香つけて先祖に恥じぬ生き方をしなければ。他人ごとではない。
世間は桜の開花が気にかかる様です。私も例年春の訪れるのを、梅の開花から始まり、庭の水仙などが咲きさすのを眺めては春の訪れを感じてきました。なんといっても桜が咲きだすと春爛漫の高揚した気分になり、花見に出かけて一杯やってと楽しみはある。
木々に目をやれば辛夷や木蓮、山法師、馬酔木に雪柳、ハナミズキ、アカシアなどが咲きだすと、又桜と別の春の趣があり、ドラマがありそうだ。そんな木々を愛でて歌でも詠もうかな。
25日 春の木々の花の白いものは清楚な感じ 歌にしたらどうだろう
28日門池と香貫山の散歩
ポカポカの陽気に誘われて「門池」を散歩する。
コブシ咲き、花がぽたぽた落ちてくる。池の水鳥は陸に上がり日向ぼっこのよき日なり。
しだれ柳は芽吹いて池のぬるんだ風に揺れていた。桜は蕾であるがこんな春日も良い。
川岸に「カワセミ」がおり、ブルーの体に腹がダイダイの鳥を初めて目にして、嬉しくてスマフォで撮ったがしょせん無理、
初めての体験に嬉しさがじわじわ。
「香貫山」をその後散歩
此方も桜は芽吹くが花は未だ、連翹や、タブの木の花芽が綺麗である。シダの大きな芽が伸びてヘビかアナゴか。
晴れが曇りに変化する。家に帰ればやがて雷が鳴り雨が落ちてきた。昨日までは寒の戻りの寒さで、周辺の山は白くなっている。
後一週間で桜も咲きだすだろう。
香貫山にて
裏の家は、痛みがひどく借家人が出た後は廃家になった。
ふと見れば、色鮮やかなピンクのコメ桜が咲いている。主去るとも花は咲きけり。
1日記
桜がまだ咲かない4月に入る。我が家の庭は春の草花が咲き揃い、見ていて飽きず。
春は「山笑う」草木の芽吹く時期、新たなスタートの時期、普段の生活も見直して我も新たな目標に、新たな気分で臨む
六日に弟が息を引き取る。通夜、葬儀はなたね梅雨、花は盛りでもそぼ降る雨は哀れなり。
9日の越谷の斎場に向かう川岸は菜の花が満開で、桜が満開で、バスよりみる雨の景色は寂しさを増す。
桜葉散ると庭の木々や草花はあれよあれよと萌えだして、その変化の眩しくもある。
世界情勢あっけらかんとミサイルを打つ、ミサイルが来たら隠れなさいと政府の案内。
いつの間にこんな情勢現れて、それをたいした抵抗もなくあっけらかんと聞き流す。戦争とか紛争とかは国益のもと正当化されて、国民の生活は二の次か。一発触不気味な風が吹き荒れる。
一日は昼間は夏日、やがて雷雨の午後でした。
八十八夜、初夏の訪れ、自分には関係ないがゴールデンウイーク。山は変わらず、季節は待たず、計画をしよう
今日は母の日、卒寿になる義理の母を連れ出して富士の中央公園に薔薇を見に出かける。90歳を生きるとはなんと辛い事だろう。わが父もそうだったが体や心がぼろぼろで生きる目的如何なるや。老いの大変なことつくづく感じる。薔薇は満開でそれなりに楽しんでくれたかな。
娘の友達が亡くなる。あまりに早い人生を終えた。とりあえず、生きてる限り生きて生きて人生を終えれば幸せと思う。人生は長く短く知らぬ間に老いる。実感
娘の友が亡くなりし
20日は弟の四十九日
アカオハーブ&ローズガーデンに21日出かける
いろいろ咲いた花などは色あせて、枯れそうに、思いきいてそれらを伐って、雑草を伐ってすっきりした。
新たな庭、梅雨に、夏に向かう庭に。五月の庭よさようなら。
水無月の6月に入り、夏日が続く。トランプ米大統領がパリ協定離脱を表明し、益々地球は熱くなりそう。
アメリカのプライドはどんどんなくなり、保護主義の自国の保護に向かう。やがて中国やインドが世界のリーダーシップとなるのは明らか。日本の外交益々かじ取りが難しくなる。
今思えば自分の人生振り返り、いい加減に、惰性に生きてきたと反省するが時遅し。
後悔がつのる今の我。
以外と人の一生は短くつまらぬものなのかも。凡人には凡人の余生を考える時なのかも。
美味いもの食い、酒を飲み、山を歩き、花を愛で、自然と共に生きていく。そんな中で何か目指す道などあれば幸いかな。
七面山の登山口など下見に出かける
南アルプス街道を走り早川に着き、登り口は解った。登り口の羽衣に牧水の歌碑を見つける。春木川には羽衣の赤い橋が架かり
白糸の滝と御萬の方の像がある。鳥居を入るとすぐ右に牧水の歌碑がある。登山道は赤すぎの木が綺麗である。
帰りは300号線(本栖湖街道)を走り本栖湖に、雨に煙る湖は静まりて寂しい。梅雨入りのニュースが流れる
梅の実がポツポツ落ちて、植木鉢に集めておくと、次第に色が琵琶のような色になり、綺麗である。
この時期の月は高度が低くなり苺の月というらしい。夜空を見上げれば雲のまにまに月が望まれ子供の頃の赤月を思い出した。
中学生の頃、妹を背負って子守りをしていた。ふと見上げて月がやけに赤く見えて驚いたことを思い出した。
久々に香貫山を散歩する
香貫山 紫陽花咲けリ 満開の
花はしとやか 寂しくもある
将棋 藤井4段 14歳の少年が連勝記録更新(28連勝)に日本の人らが喜び、77歳の加藤一二三が引退を表明 。
先日蓮興寺のハスを見学。 驚いたのは唐招提寺や中尊寺のハスがあるらしいこと。いにしえから花は変わらず人を癒す。
小林麻央が亡くなった 死に際に愛してると言ったそうだ。
我妻はそんなときになんと言うか想像するが、 吾は嘘でも愛してる。
梅雨の陽気の庭に蝶が舞い、羽黒トンボがひらひら舞っていた。何処ら来たか解らぬが珍しい。
六月も今日で終わり、ブドウやトマトの実が青々としてそのうちに色づくだろう。
今にも雨が落ちそうな中、静かな時を過ごすと何か詩的な気分になる。
そうこうしているうちに蚊に刺された。庭の消毒を早々にしなければ。
2日の期待は都議会議員選挙の結果と将棋の藤井4段の30連勝のかかる一番、結果は都民ファーストの大勝と藤井4段の負け。
台風三号は沼津には何も影響がなくホッとしていたら九州の北部は梅雨前線の停滞による線状降雨帯という大雨のための被害の報道に驚く。
毎年日本のどこかで発生していることが又繰り返される。日本の宿命か。
地震を初め噴火とか水害とか予期せぬ災害というが突然に発生するではなく、過去の歴史は繰り返され、人は知らぬが諸々の兆候は自然の中に発生していることは事実。AIの知識を以って予測できぬものか。危険な個所には住まぬ事、自然を破壊することなかれ、地球温暖化も一国では出来ず、経済優先の国がある限り掛け声は意味をなさず。戦争は国益のため、有史以来延々と現在まで繰り返されISの集団や北朝鮮の核開発,ICBMは人類の滅亡に向かう兆候か。病気とか震災に合えば神も仏もおらぬと言うが泣き言は意味をなさず、神や仏は人の心にあるもので、智慧や知識や思いやりがひとを助けるのでは。神や仏が居るとすれば宇宙の遥か解らぬ所に居り人の都合はいちいち聞く耳を持たず。無の世界に居るものと自分は考える。
七夕に願い事など書いてみる。
葡萄には 早やカミキリムシや コガネムシ
梅雨に雨無く 悩みは増える
西田幾太郎の「善の研究」が種となり西洋哲学の「知の芽生え」
何もせぬのも、何も考えぬのも 生きる術とは思うがついつい知りたくなる我が性を知る
12日は吾が誕生日 蝉の羽化を目にして誕生の意味をしみじみと思う。
13日盆の入り久々の雷雨になり庭の水撒きが省けると喜ぶか、坊さんが雨の中、暑い中を稼いでいた。
迎え火を焚こう。
19日勢子辻より愛鷹山系の越前岳に
久々の山歩きに喘ぎあえぎの山道は、いつまでつつく坂の途、坂が湧き出て際限がない様な
我の喘ぎは蝉しぐれ、ただひたすらにロープを伝い登るのみ
今日、梅雨明けらしいニュースが届く。我が地の沼津はさして雨が降らなかった。
空梅雨の影響がでなければと願う。雹が降ってきたところがあるとか、家や車の破損に驚く。
24日 蝉の抜け殻異常かな
朝のセミの鳴き声けたたましくて追い払えばおしっこをして飛んで行く。
今年の蝉の抜け殻が小庭のあちらこちらにあり、今までにない数では。
秋田県の水害の情報に驚く。懐かしい地名の数々を聞けば、走馬灯の如く思い出す。雄物川
早や単身赴任の三年間、それから三十年の年が過ぎたかと、その速さに驚く。
天候不順に気を取られ、気が付けばはや八月に入る。
一日、二日と西日本は猛暑に、此方は六月の、十月の陽気 今月も天気模様を気にしながら過ぎるかも。
義理の母が数えで91歳、亡くなった
迷走した台風五号が去ってほっとする。年々迷走台風が増えてきたようだ。被害も増える。
一昨日は最高気温に昨日から一転涼しくなりこの温度差に呆れる。
一昨晩は高速道路再渋滞、昨晩は渋滞はなし 帰省の盆の綾を知る
北朝鮮のグアムの排他的経済水域にミサイル同時に4発を計画とのこと
日本上空通過のミサイルを打つか ゲームではない
最近食と命の関係を感じることが目立つ。亡きウサギらは命の際の近くなるころから食が無く
知り合いの方等は食べたくとも食べられずに亡くなったりする。命と食の有無は比例関係、よく食べることの喜びに
感謝しなければ。当たり前のことが改めて感じる時あり。
某作家は資本主義、民主主義、国家主義の枠組みの限界を迎えた時代になったという。
SNS、ツイッターなどでいいたいことを言い、他人に迷惑をかける意識がない、人間の持っている野蛮なところが世界中でむき出しになっている。
終戦記念日も72回
食は命か
相変わらず熱い暑いも先日から風に変化が。夕去れば涼しい風にホッとする
虫にコオロギ目立ち始め、秋の気配が嬉しくもあり
昨日のサッカーのワールドカップの予選のオーストラリア戦は優勝したかの様な興奮に
2対0で勝利する。これで首位で予選通過、北朝鮮のミサイルの騒動など悪しきことが多い中での
明るいニュースに嬉しくなる。8月は熱帯夜や,はっきりしない天気にうんざりし、身内の不幸も重なり
嫌な月であった。庭の葡萄が美味く実り今月は出だしが良いかも。台風15号の行方の心配はある。
9月2日は「くじ」の日 願いを願掛け、宝くじでも買おうかな
不揃いの庭の葡萄が美味くなり
若木
古木
6月6日に下見して いざ参道を登り始めてすぐ息切れし苦しけれ 日々の運動疎かなれば 情けない
この地は山岳信仰、修験者の場所 南無妙法蓮華経 白装束が眩しく
あれこれ迷わずに修行すれば楽なのに 吾は理屈やか、あれこれ考えるタイプの人種で往生際が悪い。
今回の登山は亡き父が毎年大晦日に七面山に行ってきたという話を聞いていたから、どんなところか知りたいことがある。
また、早川という所は南アルプス街道が走ってその終点が吾の山歩きの終点ではないかと思ったりする。
もう一つの目的は身延と冨士の景色、南アルプスの景色を楽しみにしていたが生憎霧のために何も見えなかった。
諦めずに再チャレンジしよう。
9/8日太陽フレアの影響か、 メキシコの地震、秋田の地震、ハリケーンの猛威などが発生。
北はミサイル、水爆実験、中国、ロシアの思惑は 誰が損して得するか 外交という仮面の裏で 人の尊厳、叡智も空しい。
15日 朝の七時にまた北海道方面にミサイルを発射 おかげで朝ドラ 「ひよっこ」を見れず。
秋刀魚が獲れず、鮭が獲れず、シラズが獲れず 地球は渇き衰えつつあるか。
17日 牧水の裾野の歌碑が出来たとか。景が島の西行の歌の近く。
奇岩の多い意場所で以前から何度か足を運んだが、その景色を詠っている。
「この渓(たき)の岩のかたちぞ面白き 根をゆく水は痩せて澄みつつ」
18日午後3時30分 義兄が亡くなる。息絶えんとするが、妹の声に反応し、又吹き返す。
やがて静かに息を引き取る。ただただ無念の病気の生活、お疲れ様、お世話になりました。合掌。
欲もなくただおのれの人生を生きてきたような方 ウナギが、寿司が、牛肉が食べたいと言っていたらしい。
あの世で思う存分食べておくれ。
18日の台風18号が去ってぬばたまのよもすがら「しじまの空」は透き通り星が輝き、辺りは冷気が漂う。
至福の時を我呆然と眺めて飽きず。今日からタバコを16mgから3mgに変更。最近息切れがすぐする。
20日 山の山道の脇にススキが咲いて、ところどころに彼岸花が咲いていた。お彼岸が近い。墓参りに行かなければ。その前に通夜、葬儀に出なければ、仏の行事が今年も続く。パッションフルーツの花が咲いて受粉をした。後幾つなるか、実のなるころは節分の頃。長い目的が増えた。
ヒキガエルを見る。 のそのそ歩き、ペットにする人がいるとか。
寿命は15年から30年らしい。
28日 衆議院の解散 なんで解散問うてもわからぬ
希望の党も降って湧いて やがて消えるか
5日 4年ぶりに箱根の明神ヶ岳に。コースは宮城野から明星ヶ岳にでてそこから尾根を歩いて、神山、大涌谷や富士を見ながら
景色を楽しむ。明神岳の景色は富士の前に金時山がそそり立つ。神山、駒ヶ岳、がどっしりと眼前にそびえる。
はや十五夜の時、月が煌々と大地を照らす。衆議院解散のなか、民進党は緑の党と立憲民主党に分裂、北の脅威はつづく。
月は何事もなく天球を渡る。山を歩けば昔よりのススキやアザミやその他の山野草が季節を醸す。月見る月はこの月の月。無常を感じる。
小川も大河に流れる水も大地の血であり血管である。自然破壊は命取りと知る。秋刀魚もしゃけも不良と聞く。
11日 河津バカデルガーデンの秋薔薇を観賞 レッドクイーンを3800円で購入
稲取の済広寺を見学 樹齢750年のかやの木は見事 なんか癒される寺であった。 臨済宗建長寺派らしい
秋霖の寒い日が続く。
22日 超大型の台風が沼津を通過 衆議院の選挙 いろいろ気の抜けぬ日である
台風22号がまたきて折角の終末を荒らす。法事があり雨降る中に久々の兄弟衆の顔を見て、老け顔なるも健康そうな表情に安堵する。懐石料理は美味かった。料亭の景色はこれまた素晴らしく、古風であるが風格がある。日本酒の熱燗の香りは懐かしく焼酎ばかり飲んでいた身に、臓に染みわたる温かさに心からほろ酔いとなる。
今回の台風も何の被害を受けずに通り抜けてほんとについている。夜空にくっきり半月が浮かんでいた。神無月の過ぎ去るも、なんと早足であったかとつくづく思う。
寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ (寂蓮法師)
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ (藤原定家)
台風が去り夜は冷え込む霜月の初めの晴れ日が続く。山茶花やつわぶきの花が咲きだす。
季節の移ろいを素足に感じ、冬に向かうもひと時のやすらぎの時、庭でぶらぶら何するのでもなく、それでいて家に入る気もせず。
叔父が逝く 今年に入り4件目の身内の葬儀にうんざりするが止む形無しの宿命か
暖かな立冬
梅ヶ島から八紘嶺より七面山への登山口を探しに梅ヶ島に
そこは紅葉の最盛期 山は錦に化粧して川や滝の落ちる清流の流れのを堪能
奥静の南アルプスの麓にしっそりとした湯治場は川に添って連なっていた
安倍峠にて
安倍の大滝
29日は小春日和の10月の陽気になった。久々に修善寺の紅葉を堪能する。
前回の修善寺の紅葉見物から早7年が過ぎた 。色ずく紅葉は最近になく鮮やで、この陽気と紅葉を愛でつつ歩みは軽快で無心に、素直に楽しめた 。今年の色付きは良好、前回同様に竹林などの川沿いの紅葉を満喫しました。枯葉がゆらゆらと落ちる様は一抹の寂しさとか哀れさとか自然のはかなさなどいろいろな思いが胸中がせまってきました。七年という年月のアット過ぎ去ったかという感傷もあるのかも。
いろは紅葉や銀杏、楓など色鮮やかに紅葉するが庭の梅の木慎ましく黄葉、それでいて哀れを醸す。
腰が痛む 平成24年の年末の脊柱管狭窄症のぶり返しかも
四年余を山歩きしてこの病気は忘れていたが体は覚えていた。歩けずにじくじく痛むあの辛さは半端ではない。
歌はすぐ忘れてしまう。体で理解、日々の生活の中に浸透させなければ。
死にたい人がいて生きたい人がいる (SNSに死にたいという方あまた投稿、余命わずかな生きたいという人もあまた)
68歳になり
15日の零時半雲が晴れて星座が輝く。双子流星が天空をさっと流れるのを見る。
何かいいことないかと願いをたんまり考えて星に祈るのは原始からの心の在り様か。
過去何度も見た流星であるが今回ほど多く見たことはない。
14日 グリーンカーテンの撤去した竿に雨垂れがついていた。朝日を浴びて白から緑や赤の彩光が怪しく輝くのを見て驚く。
視覚を変えるたびにその変化に目を奪われて年甲斐もなく我を忘れていた。神か仏の光を想像する。
冬至 すぐにクリスマスか年末か。 以前の様な歳末の気分はない。
このところ身内の葬儀が四件あり、漠然と時間が経過していたようだ。
富士山世界遺産記念センター23日オープン
今年最後の墓参り
45年人工知能が人を超える
犬は共通の癒しかも
31日大晦日
天気よく月がまん丸の正月を迎える。今年もボチボチ歌の真似でも続けます。
2日スーパームーン
6日白薔薇が咲く
今年の梅の開花が遅くて日々眺めているが、15日やっと一輪の白梅が咲いた。
紅梅は全体的につぼみが膨らんできて、赤の花芽の蕾が可愛い
阪神淡路の地震もはや23年、朝方の揺れを思いだす。その後の被災状況は想像を絶した。
咳と鼻水が止まらない日がほぼ一週間続く。熱などはないのでインフルエンザではないだろう。
咳き込みつつタバコを吸うおのれを惨めとぞ思う。そのうちに人は人工知能に教えを乞う時が来るかも。
気乗りがしない、やる気がないなどの気分はAIにはないだろう。風邪もひかないだろう。
21日熱海の梅園にて遊ぶ。花はまだ蕾が多い意が早咲きの梅が綺麗であった。
ミス熱海から甘酒をもらい、猿回しは純粋に腹から笑えて、足湯を使い癒される。
その後、糸川桜を初めて観賞、あたみ桜(いとがわ桜)は熱海の賑やかなところを流れる糸川に沿って咲いていた。
20日から祭りが始まり、花は五分咲き程度であった。こじんまりした風情だが市街に咲く花見は石像の磯物の石像や川沿いに立つ居酒屋などが酒飲みのたまらない景色に見える。午後の五時からライトアップされるとのこと。次回は其の時間帯に来たい。燗酒が美味かろう。
早くも睦月が終わる。歯の治療がまた始まった。右上の半年ばかり前に治療してブリッジしたところ。
結局一本抜歯し、もう一本は歯根の治療してまたブリッジするらしい。あれだけ前回時間を割いて治療したのにすべてがパー。
恨み節など出てくるのも自然か。AIの記事が多くて、世の中はかってない産業革命に突入したようだ。一つひとつ理解して本質を見失わぬようにしたい。
紅梅の咲く木の根元の石臼にメジロが飛来して水浴びを。予期せぬことに驚くもさぞ寒かろうと思う。
梅見つつ 苦き青春 思はるる
世間知らずの 我は負け犬
三十五年に一回のスーパー・ブルー・ブラッド・ムーン 満月が地球の影で隠れたり、寒月の空始終見ており
節分に春分に
やっと8日と9日と寒気の緩む、ポカポカの陽気になった。庭には知らぬ猫が日向ぼっこを、私が庭に出ると猫嫌いの人間と解る様で渋々と離れていく。
久々に静岡市の美術館に行く。白隠禅師250年遠諱(おんき)記念展を観賞。
その後駿府公園をぶらぶらと駿府城の発掘調査の様子や家康の像を見る。
あとは浅間さん通りを歩きつつ昔の記憶を漁るが面影まばら。
賎機山に登って半世紀前の花見の場所を懐かしく探すも全てはささやかな記憶を懐かしむのみ。
。静岡の最初の下宿は茶町でした。飲んでは終電間に合わず、飲めば泊まった旅館など、昔の景色、風情はかけらもなく思い出という記憶だけが寂しく記憶にある。
月日は良きことも、悪しきことも思いでだけを残して過ぎた。
前回は モナリザを見し 美術館
観梅やめて 今日は白隠
2018ねんピョンチャンオリンピックも閉会し、色々の競技に感動を覚える。
歯医者にて、椅子を下げる(頭部を下げる)と目眩がする。
びくびくと治療を受けて、耐えられずに治療を止めると医者に言う。
梅の花が散り始め、良く咲いたと満足を。
日頃日頃に春の気配が嬉しい。
春一番が去って陽気が急に暖かくなる。河津桜はやっと満開らしい。
三日に越谷の娘が犬と共に沼津アルプスの山登りに来る。
4日はぽかぽかの天気になり、登りはじめる早々汗が吹き出し早々に薄着になる。
辛うじて縦走し心地よい疲労に満たされる。
雛祭り
目覚まし時計
庭の草花が芽吹き初め、肌に春日や風の温さが目立ち始めて、春が来た来たとなんか楽しくなるこの頃。
東北の大震災もはや七年か、まだ七年か 感慨深いものがある。計画停電もなつかしく思われる。原子力発電はやっぱりやめた方が良い。
危なっかしい情報のみで試行錯誤の心細さ、廃炉の研究を十分にできたら改めて検討すればよい。
庭の水仙の新たな花が咲きだす。ハナニラや芽吹く草花に春の訪れを実感、我も新たな芽吹きを探さんと古稀を迎えて考えてみよう。
急に暖かさが続き桜の花が例年になく早まりそう。19日は彼岸の入りで墓参りする。
21日は真冬の如く寒くなり、箱根は積雪二十センチとか。冬物をしまわずによかった。
小庭にも 春が徐々に訪れて、春の芽吹きは、庭を賑わす、この時期を山笑うというか。庭のウサギの置物の周りは花で覆われる。
ウサギも笑うか花を愛でては。
いたずらに 小庭(さにわ)の竿に 油ぬらば
小鳥こけるか 邪推の思ひ
今年の桜は例年より早い。庭を見れば次から次と花が咲きだす。忙しくもある。
28日は香貫山の桜を見物、ほぼ八部咲でしたが、霞がかかり景色は今一、例年の如くの咲き様だが何故か時めくものはなし。
沼川の白隠ざくらを見物、提灯が並ぶが露店は出ていない。早咲きのせいか。
初夏の陽気に川の鯉が跳ねて、水鳥が遊ぶ。綺麗とは言えない水の中をまったりした時が流れる。
この時期の亡き母は始終塞ぎがちであった。無き兄が桜の散る時期に亡くなったのが原因。
私も複雑な時ではある。昨年に、弟が桜に飾られ亡くなった。桜の時期は兄弟が亡くなるときかも。旅たちの時の寂しさと郷愁を思われる。西行は桜の時期に旅立つことを願い、その通りになったと聞く。この時期はもろもろの点で別れの時と、新たな旅たちの時、楽しくもあるか。哀しくもありか。
桜は咲いた瞬間から散り行く運命を背負う 。だからこそ人は桜に人生を映し、心を共振させる。そして桜が綺麗と 思えるとき 、人生を肯定するゆとりがそだっているという見方。
生あるものには終わりという死がある。桜ばかりではない。何故桜なのか。
日本古来から春先に咲き、桜の開花が日本縦断して行く知らせは彼岸を過ぎて本格的な生の営みの象徴と言える芽生えの時期の到来を実感し、命の躍動する時期を実感するからでは。卒業や社会人になるひと、諸々の旅たちの時期の象徴となる花であることに起因するからではないか。そんな中で別れや出会いなど悲しみも楽しみなど諸々の哀愁がこの時期に咲く桜と同期してくる。散り際の良いことと交差して桜の花の時期にそれを超越した感慨を持つとき人は人生を肯定して生きて行けるのでは。花が綺麗に見えるとは心が澄んでいることでもある。
門池の桜
桜散り 散花の道の 眩しさよ
憶することなく 我は踏み出す
バラの花の蕾が膨らんで、ブドウの新芽が吹き初め、一気に草花の咲き始めた。木犀が小枝を伸ばしぼさぼさとしてくる。春の季節から初夏の姿に変化する。
この二日間、強風が吹き冬に逆戻り、梅の実が転がっている。春日は続かないというが実感、昨日の春日、今日は荒れて寒の戻りに震えるは吾。
若者の野球や将棋に卓球や水泳と あまりに若いアスリートの躍進に胸のときめきを感じる。そのおこぼれを年寄りの冷や水でもよい頂戴したいと願う。芽吹くバラや葡萄の新芽を眺めつつ思う。
エンジェルの大谷や将棋の藤井や卓球の張本などの若者の活躍に活躍に
初夏というか夏日の陽気の快晴に、終日富士を眺めて山登り。ミニピンのビスコは上り下りを自力で歩く。ツツジが咲き、コメ桜が咲き笹山から望む本栖湖は輝いていた。こんな長閑な山歩きも良い。頂上からの展望は霞んでいたが雪を頂くアルプスにいずれは上ろうと心ときめく。
小庭はバラを初め、毎年咲く花が今年も生き生きと咲いてくる。例年になく葡萄の花芽が良くついて例年にない百花擾乱の体を為している。芽吹く命をひしひしと感じつつあと何年の我が命かな。あまりにも少ないと思う時あり。朝に夕に、庭を眺めて残りの人生何を為すべきか思いやる一時である。自然のままに生きて、なる様にしかならぬ生き方も良し。そうして生きてきたのだから。
寂しさと、物足りなさをしんしんと感じつつ庭を眺めてため息をつく。
五月三日から沖縄に四日は結婚式で五日に帰る
忙しなく、はしかに脅えて 沖縄を駆け足の如く回り疲れて、今歌を詠む
結婚式に参列
水族館のジンベイザメや諸々の魚を目にして
万座毛にて
古宇利島 にて
オーシャンタワー
その他
いつになく庭は五月の花に溢れ、梅に虫がたむろして、バラは咲き揃い、ブドウの花芽が多くつく。
梅や薔薇の剪定に追われて心地よい汗をかく。
ブドウの花芽を剪定し実りの時期は如何であろうと期待や楽しみが増える。
アメリカ大リーグのエンジェルスの大谷や将棋の藤井少年の活躍に楽しみの日々。
アメリカンフットボールの日大選手の関西学院大学の異常な反則の真意は。
訳の分からぬセクハラなど分別のある立場の人の行動がおかしい。 加計や森友の真相は?
天気がコロコロ変わり異常な変動にやきもきをする。
香貫山の展望台から四方を眺めて改めて駿河の海や冨士の佇まいに感動する。
富士とツツジと蝶のスナップに嬉しくなる。
アメリカ大リーグのエンジェルスの大谷や将棋の藤井少年の活躍に楽しみの日々。
訳の分からぬセクハラなど分別のある立場の人の行動がおかしい。 加計や森友の真相は?
なんとなく梅雨の気配が感じられる。
紫陽花が咲き初め、ギボウシの花芽が膨らみいよいよ梅雨入りになるかも。
しとしとと雨の音が聞こえてきた夕べは静かなり静かなり。
赤薔薇の 春は大輪 つゆに咲く
小ぶりの花も 味な趣き
六月に入り気温がかなり上昇してきた。夏日の陽気でもからっとした暑さである。梅雨前線が近くなり6日は梅雨入りになる。
つゆの風情の紫陽花や薔薇や擬宝珠も咲いて庭を眺める楽しみがある。
グリーンカーテンの丘ワカメや葡萄の房を窓越に目の前で眺めるときは予定通りに育ったと満足する。
庭にスズメが2羽遊びに来る光景をちょくちょく目にする。電線音頭の如くスズメが群れを成す景色は、はや昔の記憶でしかない。
裁判には継続性が必要かも。
地裁で再審の決定、高裁では再審破棄、
何か見落としたことが有りはしないか、 人の命を手玉に取って。
目的は自分のため、家族のため、組織のため、国民のため。
エゴや欲は目的から外れて、目をそらす原因。目標は発展のエネルギーなり。 欲を払拭 、未来を描け。
一本の マキの木が枯れそうに 、何をしても枯れないと勝手に思っていたがやはり生き物であった。
娘らから父の日の感謝の気持ちの焼酎や酒が届けば 何故か頑張ろうという気になる
関東は昨日梅雨明け発表、異常な速さに水不足の心配があり
日本のあちらこちらで弱い地震が発生して大地震の前触れかも
サッカーのワールドカップは辛うじてトーナメントの出場が転がり込む。運も実力の内、結果オーライ。7/3日午前3時はベルギー戦。
賃金遅延か不払いか、生活費の見直しを早急にしなければ。 何時になっても金の問題がつきまとうのは宿命か。
庭の葡萄に虫やカビがついて虫の時期になったことを実感、花や木々は忘れずに季節を刻む。我も刻むか人間の生き方を。
どうでもよいか、歌でも詠もう。
はやぶさ2 竜宮に4年もかけて到達とか
大瀬のビャクシンと井田の煌めきの丘の下に展開する松江(すんごう)古墳群と明神池を訪れる
FIFAワールドカップ ベルギー戦 ベスト8の攻防は日本の2点先取もあれあれと
ロスタイムにてまさかの撃沈。 いにしへゆ 「出来過ぎの時落とし穴」 初心に帰る意味はそこかも。
今月に入り台風崩れの前線に西の地方は水害に泣く。無残な光景が又繰り返された。
幸い沼津の地は災害もなく安堵したが日々続く雨にはうんざりする。
今日はワールドカップの決勝戦。昨日の三位決定戦はベルギーの勝ち、日本がベルギーに勝っていたらと、悔やまれる。
熱中症の心配される暑さが続く。
昨日は墓参り、帰りは夢庵により久々の生ビールと天ぷらに癒される。
哲学者 マルクス・ガブリエルの記事が載っていた。(39歳のドイツの哲学者)
シンギュラリティ論はナンセンス
唯物論は、人間の思考も、脳の中のニューロンの状態にすぎないと考える。
だとすれば、物質から思考を生み出すこともできることになる。
近い将来、人工知能(AI)が人間の知性を超えるというシンギュラリティ論もまた、唯物論の延長にある。
思考と脳の関係は、歩くことと靴との関係に似ています。
私たちは靴を履いたほうがよく歩けます。でも、靴自身が歩くわけではありません。
同じように、脳があれば、いろいろなことを考えることができますが、脳という物質が考えているわけではないのです。
だから脳は複雑な構造をもつ知性の一部にすぎません。
「世界は存在しない」が「世界以外のすべてのものは存在している」というものだ。「世界は存在しない」とは、唯物論のように世界をたった一つの原理だけで説明することはできないことをいう。
自分には難しいことは解りませんが人の体と心の関係といった、身近なことから考えていこうと思います。人体の構造は完結したネットワークとも言われている。科学はますます進化する。
このところ日々熱中症の警報が、じっとしていても汗が滲む。
西の豪雨災害の地は、この暑さの中、片付けをする姿はあまりにも酷。山をひっかく跡を見るにつけ
そこに住むことは今後不可能と判断すべしと思う。
夕間暮れ 月が上がり、その右上に一段と輝く星が赤々と 火星らしい。
12号台風が去ってまた猛暑とか酷暑とかの日が訪れて寝苦しい。
七月も終わり、八月はいかなる月になるのやら。想定外の気候に、驚かないこの頃である。
台風が去り猛暑がまたふり返す。ブドウ色付き食す楽しさも八月の季節。日々熱中症の注意情報が流れる。
気象庁ではこれも災害と言う。
高校野球選手権が始まる。7日は僅差で静岡の勝ち。
高校野球の熱戦に日々目を離せない日が続く。
また台風13号が此方に近ずくが今回は千葉をかすめて東北の沿岸沿いを北上して難を逃れた。
昨日と今日は天気が安定せず晴れたり雨になったり雷雨立ち込めて集中豪雨になったりとコロコロと天気が急変する。
葡萄を収穫、粒は今一ながらかなりの量に満足、墓参りの土産としよう。
21日 熱闘甲子園 金足農業と大阪桐蔭 結果は金足の吉田が崩れて大差で終わる。
吉田の疲労が少なければ意外な展開になっていたかも。
台風19号、20号が又日本の西を直撃か。今日のこの地の天気は又猛暑になるが、見渡す限り雲一つなく、今の時期に珍しい。
台風の饗宴は御免こうむりたい。
さくらももこ逝く
たのしみは妻子(めこ)むつましくうちつどひ 頭ならべて物をくふ時 橘 曙覧
なかなかに思へばやすき身なりけり 世にひろはれぬ峰のおち栗 橘 曙覧
9月に入るが台風が又暴れ始め、21号台風の強風の恐ろしさを改めて知る。電柱が居れ、車が舞う光景は言葉にすることが難しい。そうこうしていると6日に飛び込む北海道の地震の報道。この地震の特徴は全ての北海道が停電になるブラックアウトである。他は異常な山の崩壊であった。台風の影響か山が水分を蓄えていた折に、砂の山が地震で一気に崩壊する光景は見たことがない。他は地盤の液状化があげられる。昔は川であったところを埋めて道路にしたところは地盤沈下、地盤の液状化した泥が道路に溢れて車が動かなくなる。自然の猛威は予測不可能であるが、地盤とか山崩れとか事前の予防は可能では。
阪神淡路が1995年、2011年は東北地震、その後熊本、今回の北海道(胆振)と続くのを知れば次は関東か、東海かと憶測もする。
娘は早々に防災グッズを購入、妻は賞味期限の有無など非常食を点検する。我は何もせず、ダメな典型。
。
台風21号
2018/9/6北海道の地震 胆振(いぶり)地震 は震度七
9日 義理の兄の一周忌
14日 事業閉鎖の知らせ受け、今日の出勤せぬ事と聞く。
倒産か、危ないことは うすうすと 競売の話も聞く 、時は来たれり。
17日 香貫山を歩く
彼岸花が咲いていた。この花は艶やかであるが寂しい記憶が多い。
18日 水神社から愛鷹山を歩く。
久々の登山はきつい。愛鷹山は平成23年9月19日に登ったきりであった。
近くまで愛鷹山塊歩くたび何度も近くに来ていたが素通り。
香貫山にコスモスや鶏頭の花が咲き、我が家の木犀の花が咲きだし香りを放っています。
台風24号が日本縦断らしい。何もなきことを祈る。
煙草を吸おうと家の窓を開けたら丘ワカメの葉の上にアマガエルが一匹止まっていた。そっと煙草をふかし眺めていた。
葉と同じ保護色だから我に気が付かないと思っているカエルかも。
後ろに目あり、日々の行動に気を付けようと思う。
28日は久々の晴れ間が出て急遽富士山五合目から二子山、四辻、幕岩を歩く。生憎ガスが出て景色を楽しむことが出来なかったが三時間程のハイキングは気分転換にちょうど良い。行きは砂山、帰りは雑木林を軽快に歩く。気分も晴れた。
1日の台風24号は静岡県に被害が多く、強風に県内は70万戸以上、潮風が木々の葉を枯らしていた。幸い我家は停電が無かったが庭木や花々の葉が塩で焼けて枯れてきた。五日の25号台風は日本海を進み安堵する。
七日は夏日になり久々に下田の上原美術館、蓮台寺の大日如来、竜宮窟を見学に出かける。蓮台寺と言う地名は残っているが廃寺で大日如来は天神社の横に安置され、当日はお祭りであった。その他の村祭りを幾つか目にし、老若男女内揃う素朴な祭りに心を奪われる。柿が色ずく南伊豆は暑い日差しの中、平安仏教という歴史が受け継がれているのを確認、山海は輝いていた。
10日静岡新聞に小山の興雲寺の子安観世音菩薩が100年ぶりの御開帳の記事を見つけ早々に出かける。場所は御殿場線の足柄駅の近く、車で246号線、78号線にて向かうが金時山に行ったときに走った記憶がする。秋晴れの暑い日差しも当地は涼しくて、自然の残る田や畑、山々を眺めて安堵する。足柄の金太郎の生地は何かあるかも。
あちこちに 馬蹄観音 馬の碑が
今なら車 車観音
闇の中煙草をふかす。静かなり、昼間も今も人の声せず。子供の時の騒がしい時代もあったが世話焼きのおばさんと言う存在もなく、ガキ大将らしき子供も見当たらずあまりにも静かな場所に変ってしまった。時の流れか寂しさもある。
職探す。 古稀の声聞けばもう仕事は終わりか、古稀の意味をはたはたと実感。気持ちは若い、程々に体力知力あると思っているが如何せん職は警備とかドライバーとか清掃とかの仕事しかない。自分を生かす仕事を探すが自分を問えば何ができるか。
赤蜻蛉が三匹庭を舞っている。各々の動きを眼で追ってみたらほとんど同じコースを動いている感じ。庭から飛び出すではなく、、上昇下降や飛ぶスピードなど同じコースの感じがする。何を基準に飛んでいるのか聞いてみたいものである。
朝の富士見て早々に富士登山の須走の小富士に行けばすでに霧で覆われ景色は見えず。
グランドキャニオンとか、まぼろしの滝とか紅葉とか確認できず全て悔いを残す一日であった。
長月が終わる。渋谷のハロウィンの騒動が問題化する。
不安定な陽気も影を潜めて朝晩は冷えてきた。日中の日差しは強く秋風が気持ちいい。
朝の五時ごろ起きて煙草をふかしていたら年寄りが散歩をしている。日中は人影が少ないが朝の暗い時のヒトの動きがやけに気を引く。
あさぼらけ、東の山の端が、血の色に彩られ、やがて雲を彩る。庭の山茶花の花の蕾が膨らみ霜月に入る。
庭梅の一輪の花が弱々しく花開く。桜の花が咲いたとニュースに有ったが、梅も咲いたか。天候不順がまだ尾を引いているのかな。
香貫山を散歩する。山茶花が咲きだしツワブキが咲く。ツワブキの花弁の数を数えれば13枚か、12枚とか17枚とか花の大きさで変わるのかも。
急な秋空と寒空に黄葉が気になる時期が来た。
職を探すが年齢で落とされる。体力知力など若い者にはまだ負けぬ自負があるが如何せん年齢と言う制約に阻まれる。
薔薇の花が咲きだし見るほどに綺麗と思う。ピンクに白薔薇、あとは真っ赤な花がそのうち咲くだろう。
10日 小春日和の陽気に誘われ御用邸の「松籟の宴」に出かける。のんびりと菊を眺め、海を眺めてぼんやりと、
見上げる松の老木は様々な形をして時の経過を語っていた。
久々の「よさこい東海道」を見物、踊りこの、音頭の音に酔う。
21日 娘と箱根の金時神社より金時山に。情けない脚力ではあったが頂上に立つたら冨士が目に飛び込んで嬉しくなる。
紅葉は今一であるが富士の白雪は間違いなく素晴らしい。
あれあれと月日が過ぎて明日より師走か,吾何をしていたか。問うて空しく夕陽を眺める。
修禅寺の紅葉
28日三島スカイウォークに
温き陽気に香貫山を歩く。海は白波、荒れて見える。冨士は薄き姿で、その前の我が町は日差しが
注ぎ、輝いていた。
月初めに高血圧と左耳の難聴と耳鳴りに苦しんだが目眩は収まって血圧は160前後になる。
今年は最悪の年で終わる。長泉ガーデンの給料未払いと経営者が変わったが9月15日経営の撤退とその為の退職届、其のうちに11月から再開するから出社してくれとの依頼。はっきり断りハローワークで職探し。なんとなく病院の清掃のパートを初め、日々汗をかきつつ今日も仕事に。
平成の三十年を振り返れば全てが空しい時を過ごした感がある。平成元年は秋田に単身赴任、その後厚木から沼津に戻り平成14年退職、父母を見送り、自営は失敗、コープ静岡の御殿場工場の豆腐製造は4年で閉鎖、長泉ガーデンは十年弱で退職。弟が一昨年に亡くなり、義理の兄も昨年に逝く。妻の両親や姉、妹も逝き、振り返れば平成の三十年は苦難続きであった。そんな年回りだったのか。
古稀を迎える歳になり無事に生きてこられたのが不思議な気がしてきた。
山を歩き、歌を初めて生きるとは何だと日々考えて過ごしたこの十年でもある。過去はどうにもできず、将来に向かって生きようと思う。病院の老人の方を見るにつけ老の辛さをしみじみ感じ、真摯に老の生き方を考える年になったことを実感。
最近は短歌を詠む余裕もなく仕事から帰れば疲れて机に向かう時が無く過ごして来たが、もとの生活に戻らなければと思いつつも空しき日々が過ぎてきた。上の娘夫婦が沼津に移り、賑やかな大晦日の時を過ごす。
元旦の初日の出を愛鷹運動公園にて拝む。娘らと犬のビスコが偶然同じところに来ていてうれしくなる。
久々の初日の出、今年は家族みな健康であるように、皆が楽しく生活が出来ますようにと祈る。
お屠蘇は 貰い物の日本酒の秘蔵酒 「十四世代(1升だと8万円らしい)」を発見、仕舞ったまま忘れていた酒に舌鼓を打つ。
年明けて妻の体調がおかしくなる。熱が出てインフルエンザかと気をもむが胃腸障害とのことで一安心、新年早々縁起が悪いが正月の疲れか、定年で仕事を止めて体調が狂ったのではと思うがハッキリせず。
2日から仕事で正月気分にならず、6日やっと休めて机に向かう。
成人式は一月の第二月曜日、昔は一月十五日とハッキリしていたが2011年から変更になった。
それでも晴れ着の姿を目にしなくなった。晴れ着を着れる人ばかりではない、女子の京都駅伝を久々に見たが晴れの姿はすがすがしくて目的をもった若人の姿に心打たれるものがある。
スーパーのミニピンの子犬が売れて、ほっとしたと妻が言う。娘のミニピンの子犬の時の姿にそっくりで買い物に行くたびに眺めていたという。今年は猪の年、ジビエと言って鹿と同じく食べられるが、鹿はバンビー、イノシシはウリボウと幼い姿は可愛いものである。
生きとし生けるものの命はかけがえのないものと、なぜか胸に迫るものがある。
薔薇がまだ咲き、ピラカンサの実はほとんど食べられてヒヨドリや椋鳥の姿が減った。梅の木にメジロが一羽訪れて嬉しくなる。寒の益す日々が続くが春の音連れは何時になっても心待ちわびる。
天皇陛下の最後の歌会始の儀
静岡新聞に両陛下の平成の歌が載っていた。平成2年から30年の歴史である。阪神淡路の震災、東日本大震災と災害の目立つ時期でもあった。歌会自体は奈良時代からの歴史があり、天皇が年の初めに催す歌御会始は鎌倉時代中期にさかのぼる。明治維新後の1874年(明治7年)一般国民からの応募が認められ、1979年からは優れた歌が披露された。昭和25年から現在のかたちになった。
平成のわずかな時ではあるが歌を始めた我に、日本の歴史とその心の一端を垣間見れた出会いを幸運と思う。
久々に妻の姉らとその旦那が6名集まり呑み会を。久々の顔合わせを楽しむも、話題は健康、各自それぞれ病んで候。
あと何年の余命はあるか、とりあえず話は弾む。 共通の課題、未知の課題にボケる気配は感じられなくホッとする。
あと十年先は各自如何におわすか、願わくば健康で会いたいものと心から祈る吾なり。人生の終焉の始まりを感じ始める年になった。
昨日は昨年と同様、熱海の熱海桜(糸川桜)を見にいった。春の陽気に桜は散り始めたが、熱海の海や、振り向く山並みは春めいて気持ちが良かった。熱海の海の公園のヨットが春の遊びを醸し出す。海鳥が整列して餌を待っているのも面白い。何もかもが素直に楽しくなる日であった。
今日は節分、夕方から雨が落ち初め寒くなる。明日は立春、梅の開花の知らせは過去の観梅を思い出し出かけてみようと思う。
春は一日ごとに駆け足で巡てくる、気持ちがそうさせるのかも。何はともあれこの時期の春を待つ気分と寒の一段と厳しい時期を楽しみたい。
11日 岩本山の観梅に
曇り空ながら暇に任せて岩本山の梅園を見に出かける。七分咲きながら十分に花を眺めてきたが、人出が少ない。
家の梅と剪定などにどこが違うか気になり色々と枝ぶり、花の付き方を見て回ったがそんなに違いが無く自信が持てた。我が家の梅は家に這わして狭いところに育っていることを考えれば良く咲いていると思う。鉢の盆栽の梅を地に下ろして何年が過ぎただろうか、良く育ったものだ。
庭の梅 枝の剪定 過ぎたるか
樹が太く見え 老木の様
河津桜が見頃になったらしい。行ってみたいがあの渋滞が出足を挫く。
雨水も初夏に
19日の夜は雨でスーパームーンは見れず、朝気が付けば、西の空に大きな月が居座っていた。
24日 寒さも緩む昼間時、庭をぶらぶら、肥料を与え
2日、3日と家族(犬のビスコを含む)で伊豆高原のドッグペンション「 ことぶきベース」に一泊
初日は 伊東道の駅にて遊覧船を楽しむ。海からの大室山や矢筈山、遠笠山に天城山を眺める。
海鳥が船を追いかけて来る。かっぱえびせんを放り投げて、鳥が集まっていた。その後、「犬の駅」
城ヶ崎海岸を散歩して一時を楽しむ。
ペンションでは看板犬がお出迎え、金目鯛のしゃぶしゃぶをベースにした料理を食す。
翌日は雨、大室山は諦めて近くのデディベア館に。トトロの特別展示にみな懐かしそうであった。
雨が止まず早々に伊東駅のお稲荷さんを買って帰宅。旅はたのしい、又出かけよう。
真夜中に 吾が腹の上 犬が居り
じっと我慢も 犬の為なら
啓蟄の風物詩の「こも外し」のニュースが流れる。
暖かい陽気が一転して冷たい雨が降り続き、嘘のように近所は静まっている。
木犀の葉がやけに落下している。眼を上げれば枝先に新芽が伸びている。
午後2時45分、東日本大震災もはや八年の時が過ぎた。
このところ雨の日が多く、季節の変わり目を実感する。庭を見れば春の訪れを思わせる草花が咲き始めている。ハナニラやペチコート水仙や花芽が伸びている草花、梅の木にはかわいい実を付け、薔薇の新芽も目立つ。バラは冬の間も咲いていたことに驚く。そのうちに桜の便りが届くだろう。
弟の三回忌は16日、早いものである、寂しさもあり、懐かしさもある。春は色々な人の思い出の季節になってきた
病院の清掃作業の従事者の生き様を偶然に耳にして、人生を踏み外した人の苦悩の生活の一端を垣間見た気がする。
しかし仕事に向き合う姿に頼もしく思う時がある。人生いろいろ健康であれ。
我も今の職についてはや三か月。体重が五キロ減った。健康にはよかったと思う。待遇面では世間相場よりはるかに低い。
そんな所も人生の荒波に怯まず生きてる人の姿を目にして良かった。何時までも居れるところではないが。
ふと漏らす 年増女の 生ひ立ちは
生死の時を 場を踏みしとか
声高の 年増女の 明るさは
ブラジル育ち 漢字が読めず
16日 弟の三回忌、かわいい墓に納骨を。健やかであれと遺族を思う
メジャーリーグの開幕戦
マリナーズのイチローのプレーを期待をしつつ観戦も、、往年の姿はやはり夢であったか、年には敵わぬ寂しき姿を垣間見る。
3/20初夏の陽気になる。夜の月は満月の光りが靄(もや)ってまさにおぼろ月夜、月を漠然と眺めて春の夜の物憂い気分にしたる。
21日は彼岸、天気は雨や曇りの一日で墓参りや庭の消毒をする。今年もブドウが豊作であれ、、ミカンが豊作であれ。
五月から元号が「令和」となった。時代の表記が変わることで、気持ちが変わり、気持ちが変われば行動が変わり、実際に社会が変わっていくことだろう。我も新たな投企のチャンスにすべくこの歌集は終わることにする。
「令和」元号の出典
天平二年の正月の十三日に、師老(そちのおきな)の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾く、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀に封ぢらえて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋(ふた)にし地を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放(ゆる)し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずば、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。(万葉集・巻第五)
「「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す」
(時は初春の良き月、空気は良く風もおだやかで、梅は鏡の前で装うように白く咲き、蘭は身につけた香のように香っている、といった意味)
新たな歌集のタイトルや方向性はまだ決まっていない。今月中に決めよう。
パート先の病院の老人を思う
身の世話は人手に頼り何が楽しみか、子供に帰るというがふと疑問に思う。
老々介護は如何に、近い将来のおのれの姿を垣間見て悲しくなる。
11日 富士霊園の花見に行く 先日の雪で山は白く化粧していた
ブラックホールを初めて電波望遠鏡で映すニュースがあった
ぼんやりと月を眺めて 庭を眺めて
NHK「ブラタモリ」にて紹介された山梨は甲府の地形と昇仙峡、半世紀前か数度は行った記憶があるが定かでない。
21日早々に出かける。新東名から中部縦断自動車道が部分的に開通したと聞いており新東名の新清水から52号線に出たが一向に入口がない。下部温泉から乗ることが出来たがほとんどトンネルを走るだけで、景色を楽しむこと不可能、がっかりする。
昇仙峡はそれなりに魅力的なところであるがこんなにも寂れているとは思わなかった。ブドウや紅葉などの時期ではないのが原因か、山は変わらず人の世の移り香だけが寂しさを思う。桜の花が満開の「金桜神社」やその向かえの「夫婦木神社」など素朴な地の桜を堪能できたのが嬉しい。”ほうとう”が美味い。
帰りは中央道の大月から山中湖、須走をドライブしたが、全然渋滞が無くゴールデンウイーク前の静けさだろうと思う。富士山を南から西に眺めて其のうちに北になった。以外と冨士は小さいと感じる。
水晶購入
さくらえび、しらす、ウナギやその他の魚の異変を聞くにつけて、やはり自然破壊が原因、温暖化が原因か
何でもよいが、趣味でも仕事でも「極める」「究める」ことが生きる上での楽しみに、生きがいにつながるのではと漠然と思っている。
釣りでも家庭菜園でも、ラーメン通でも何でもいいが。セミプロを目指そう。