再発してから退院まで毎日、日記を書いていました。その日記の中に書いてあったものをいくつか書いてみたいと思います。移植をした時に知らされたリスクの話を詩にしたこともありました。でもそういう詩よりここでは「家族」についての詩を多く載せてみました。



                            「目標」


                        今は目標は多いほうがいい…。

                      その分、頑張れる気がするから。
 
               その目標一つ、一つに待っていてくれる人がいる気がするから。

                        今は精一杯耐えよう。


○入院中、毎日のように(というか毎日)病院に来てくれた母。「あんたの顔を1日1回は見なきゃ落ち着かないんだよ」と言いながら毎日来てくれた。でも肉親ほどお礼を言うのは恥ずかしいものだ。


                           「母へ」

               口ではなかなか言えないけれど、毎日ありがとう。

                     でも少しは息抜きしてね。

                あなたは自分のことより私の心配をするように

                  私も自分のことよりあなたの身体が心配です。

               そんなこと思っているなんて気づいていないだろうね。

                  でもそんなものなんだよ親子って。




○私は再発する前にもしものことを考えて骨髄バンクでドナーを探していたが該当者はほぼゼロに近かった。(結果的には新しい考えの元、本来該当外と言われていた妹と移植をすることになるが)。再発した時に「ゼロじゃないんやろ?」と言って何人もの友達がドナー登録をしてくれた。その中の一人が私ではないが適合者としてドナーコーディネーターから電話があった。そしてドナーとなることを気持ちよく受けてくれていた友人がいた。相手は私でなくてもその気持ちがとてもうれしかった。


                           「決心」


                           ありがとう。

               俺もあなたみたいな友達がいることを誇りに思う。

                   あなたの決心は一人の人間を

               その家族の笑顔を救うかもしれないのだから。

                  あなたの決心にありがとうと言いたい。



○この日は大学の同級生が見舞いに来てくれた日のできごと。昔からとてもさっぱりしていて曲がったことが嫌いな女の子。隠さずに本音をぶつけてくれる子やから大学時代には何度も気持ちに渇を入れてもらっていた。
その子が見舞いにきて話していて言ってくれたのが「私はあなたの辛さはわからない。だから言いたいこと言うけど努力してない口だけの人は嫌い!病気は治るものとして、今あんたは何かしなきゃ駄目だよ!病気に耐えるために頑張るのは当たり前、でも退院しましたじゃだめなの。その後のことを考える。周りに遅れをとるとか言っているけど今そこらでブラブラしている人なんて病院でだって追い抜かせるのよ!ハンデを背負うんだからそれくらいの努力したっていいの!そしていい男になりや!」と一見この文書だけを聞くとひどいな〜とかちょっときついのではと思うかもしれませんが、私にとってはなによりの応援の言葉に感じました。
何か悩んでたことをズバッと解決できたような感じでした。それにこの子は完全に病気のことを気にしないで言ってきてくれています。それが変かもしれませんが私にはうれしかったです。


                    勇気をくれる友がいる

                   渇をいれてくれる友がいる

                 そして想いを受け取る自分がいる



治療は予想以上にきつくて時にはトイレに行こうとして倒れることもあったし、熱、吐き気、頭痛など他にも様々な副作用に耐えるのが精一杯だった。
寛解に近づけるための抗がん剤も終わり、その後に砒素治療も終わって一時退院することになった。ここで移植の話が先生と話合われた。選択肢は二つ、移植をするか抗がん剤を長期に使いながら治療していく。どちらでも抑えることはできる。でも移植の方が治る確率は全然高いのだ。でもバンクのドナーはゼロに近いし、妹はミスマッチのせいで危険がともなうから無理と判断されていた。だけれど治療経過に書いたのですが、まだあまり症例はないけれど母親と同じお腹から産まれてきているんだからそのミスマッチは軽減され移植ができるんではないかという話がでてきた。でも症例も少なく危険が伴うのは間違いない。ぼろい木の橋を駆け抜けるかコンクリートの橋をゆっくり渡るかの選択となった。
通常の移植のリスクや自分がやる移植のリスクなどの説明を受けた。両親とも何度も話し合ってどちらを選択するか迷った。命がかかってくるのでそう簡単には決めることができない。答えは両親が「おまえが決めな」と言われ悩んだすえに移植をすることにかけることにした。


移植の話を聞いた時には様々な葛藤からショックもありました。
自分が思い描いていた夢も崩れてしまった気がしたのです。多分それは再発を告知されたよりも辛いことだったのかもしれません。日記は涙でかすれていました。今でも消化はできていないと思いますがそれに捉われずに自分の人生を生きていこうと思います。生きていればいろいろなことがあります。想像もつかないことがこれから起きるはずです。だから今全部が壊れたなんて思ったら、先も知らないのだから人生がもったいないです。やはり生があるなら大切に生きたい。


生きてるって辛いこともいっぱいあるけど楽しいです。


先生から伝えられたことを家族に伝えた。返ってきた言葉は申し訳ない気持ちで一杯な俺の肩の荷を少し降ろしてくれた気がする。

                           「家族」             

                 “家族”それは何かを共有することなのかな

                   想いを共有するのが家族なのかな

            「あんたあっての家族なんだからね。今までもそしてこれからも」

                      少し肩の荷がおりた…。



                     「幸せの一つの形」

                    今日を生きて、今を生きる。

                   明日を生きて、明後日も生きる。

             そしていつか歳をとって死ぬ。それが幸せなんだと思う。