契
あだ
〜徒し契〜
2003*8*20
to be continued...



 匡範は屋敷の自室で、杯を片手に夜空に浮かぶ月を見つめていた。
 杯を傾けたとき、従者の者が現れた。

「匡範様、ただいま京より戻りました」
「ああ、戻ったか、寛親」

 入ってまいれと促し、従者は匡範の側に座す。
 彼は先日、匡範が京へと遣わしていた者であった。

「……して、直江とは会ったか」
「ええ、確かにお会い致しました」
「そうか、どのような様子であった」
「お元気そうでいらっしゃいました。そして何より驚いたことに、直江殿の評判は京のうちでもかなりのものとなっておりました」
「ほう……?」

 匡範は扇をパラリと開き、口元に寄せた。

「評判とは、どのような?」

 それから寛親は京で仕入れた直江の評判の高さを次々に披露した。
 直江は主人の大納言に目をかけられて、その歌の才を見込まれ、大納言の末子である左近少将の和歌指南役に抜擢されたらしい。
 そして代筆の歌をいくつか詠んだところ、たちまちその出来ばえの良さが評判となり、じょじょに直江の名が人々の口に上るようになった。
 そんなある時、大納言邸で催された宴の際に、直江の評判を聞いた公達たちが「噂の歌詠みを見てみたい」と少将にせっつき、急遽直江は宴に呼び出された。
 公卿や公達たちは現れた直江の容姿の良さにまず驚き、そして何より衆目の面前で直江が披露してみせた歌は見事というより他なく、人々は感動し、次々に激賞したのだという。
 そのできごとは噂好きの京人のこと、たちまちのうちに京の都中に広まり、「身分は賤しいながらもその姿清々しく、当代きっての名歌人である」と噂は噂を呼び、直江の存在はいまや京の者で知らぬ者はいないほどの大評判となっているのだという。
 ただの名歌人だけだったならここまでの評判にはならなかっただろうが、「賤しいながらも姿清々しく」というところに女たちは魅かれるものがあるらしい。
 評判に気を良くした左近少将は好んで直江を連れ歩くようになり、側近く仕えさせ、宴にも引っぱりだことなって直江はかなり多忙な生活を送っているのだそうだ。

「ほう……直江にそのような才があったとは知らなんだ」

 匡範は扇を弄びながら、無表情に呟いた。
 直江は高耶の前以外では滅多に歌を詠むことはなかった。従者も「まったくでございます」と感心したように頷いた。

「匡範様には、このような良い勤め先をご推挙いただき、感謝の意にたえないと、よろしくお伝えするよう承って参りました」

 「そうか」と、匡範は唇を吊って笑いを漏らしている。
 それから……と従者は傍らに置いてあった文箱を取ると、匡範に差し出した。
「直江殿から御細君への文を預かってまいりました。くれぐれもよろしくとの言伝てにございます」
「……ああ、わかった。また私の方からお渡ししてこよう」

 そう言って、文箱を受け取ると、「今宵はもう遅い、さがれ」と匡範は従者を部屋から退出させた。
 匡範は燈台を引き寄せ、文箱の蓋を外して中の御料紙を手に取る。
 そうして文をぱらぱらと開き、そこに墨でぎっしりと記された文字を目で追っていった。
 流れるような、美しく大胆で、誠実そうな手である。書き手の人柄が察せられるようなその手の主は、もちろん直江その人であった。
 文の内容は、近況の報告から始まっていた。
 屋敷の主である大納言が、空位となっていた内大臣に昇進したこと。秋の除目で自分が側近く仕えている末子の左近少将も、めでたく蔵人頭を兼任とする頭中将となったこと。
 中将の妹姫の入内がいよいよ本格的に取り沙汰されて、屋敷はいまおおわらわであること。
 それから自分のこと。数ヶ月前にあった宴の件。随分な評判がたってしまい、困惑しているのだという。あれから何やかやと中将に連れまわされるようになって、毎日多忙であり、どうしてもそちらに帰る機会が持てないと。
 それから高耶の話になる。そちらは元気でいるか。体は大丈夫か。なにか困ったことはないか。高耶のことを思うとどうしているかと心配で、会いたくて恋しくて心が張り裂けそうになると。
 せめてそちらから文をくれないものか。後朝の歌の際にもらった返歌の文を毎日毎日眺めては、高耶に想いを馳せいるのだという。
 もちろん自分は高耶を信じていると、だから高耶も自分のことを信じて待っていて欲しい。必ず迎えに行く。そうしたら京で一緒に暮らそうと。
 あまり頻繁には文をおくることはできないが、それでも毎日一秒もかかさずあなたのことを想っている。逢いたくて逢いたくてたまらなくて、あなたのいない寂しさにたえながら、あなたを迎えに行く日を夢見てがんばるから、あなたもそれまでどうか健やかに暮らしてほしい……。

 そう高耶の安息を祈りながら、最後に一首、歌が詠まれていた。


─恋しきに 命をかふる物ならば 死にはやすくぞあるべかりける


<もしも愛しいあなたに逢えるのならば、自分の命と引き換えにしたって良い。あなたに逢えない苦しみに比べれば、死などはとてもたやすいことなのだから……>

 文の内容とは、矛盾しているともとれる歌だった。
 耐えてみせるとは言っても、それもどうしようもなくなるほどに、……それほど、逢いたいと思う気持ちが強く耐え難いということか……。

 匡範は微笑した。しかしその笑みは、嘲笑と言えるたぐいのそれである。

(どれほど強く想っても、おまえの心があの人に届くことは、二度とないよ……直江)

 抑えきれず忍び笑いを漏らしながら、匡範は文を入れていたのとは違う、あらかじめ部屋に置いてあった上等の文箱を引き寄せて、直江の文を中に入れた。
 文箱には既に何通もの文が入っていた。いずれも、京にいる直江が高耶におくった文であった。
 匡範は、京から帰ってきた従者が預かった、直江の文を度々受け取りながら、そのすべてを高耶に渡さず握りつぶしていたのである。
 高耶からの直江への文も、匡範は京へと向かう従者には渡さず、直江の文と共に保管していた。
 
 直江は、高耶に文を出し続けていたのだ。
 ただ、高耶のもとまで一度として届くものがなかったというだけで。
 すべては、高耶を得んがために企てた、匡範の巧妙な策略だったのである。

 その策謀はまず、直江が国衙を辞職させられたことから既に始まっていた。
 藤原匡範は、京から派遣された国司の次官であり、中流とはいえ貴族のはしくれであった。
 さして有能というわけではなかったが、容姿は悪くなかったし、その身分ゆえにへつらい寄ってくるものは多かった。
 ところがその国衙にて、目覚しい出世を遂げる一人の男がいた。
 それが直江だ。下賎な身分ながらも、直江はその聡明さと有能さを買われ、みるみる出世を遂げて匡範の部下となった。
 直江はいつも話題の中心にいた。まずその容姿が文句のつけようもなかったので言い寄る女は後をたえなかったし、人柄の良さに純粋に慕い集まる者も多かった。
 それを匡範が妬まないはずもなかった。大した生まれの者でもないくせに、常に人々の賛辞を浴びる直江を、匡範は逆恨みするようになった。
 幸い直江の存在を好ましく思わない者は他にも幾人かいたので、その者たちと組んで、当初は陰湿な嫌がらせをする程度で胸をすかせていたのだが、それだけでは済まない事態が起こってしまった。

 それが、高耶だ。

 当時高耶は、近隣でも評判の美人として知られていた。
 噂を聞きつけて次々と高耶のもとを訪ねる男たちの中に、匡範もその一人として加わっていたのである。
 もっとも、訪ね来る男たちを迷惑たらしく感じていた高耶は、匡範のことなど微塵も覚えていないようであったが。
 しかし匡範は、高耶を一目見た瞬間から、この者を必ず自分の妻にしてみせると、心に強く決めていたのである。
 ところが、高耶には既にそのとき、直江という心通わす相手がいたのである。
 匡範の心が憎しみに燃え上がったのは言うまでもなく、彼はなんとか高耶と直江を引き剥がそうと企て、仲間たちと策を巡らし直江の悪評をことさらに立てて、本人には全く身に覚えの無い濡れ衣を着せかけ、国衙から辞職に追いやったのである。
 直江は匡範たちの策謀だとは夢にも思っていない。それだけの信頼は勝ち得てきたつもりだ。
 次の職にありつけぬよう入念に手をまわしもした。収入もなくなり困窮していく生活に嫌気がさして、高耶が直江のもとを離れるだろうと踏んでのことだ。
 だが高耶は直江を見限ることはなかった。高耶と直江の絆は、それほどまでに深かった。
 業を煮やした匡範は、そこである作戦を思いついたのである。
 それが、直江に京への宮仕えの仕事を斡旋した、今回の一件だったのだ。
 国司に大貴族とのツテはつきもので、前々から密接な関係にあった前大納言に職口を頼み、直江を仕えさせ、休暇をとって故郷に帰ってくることが無いよう手を回した。
 それにしても、前大納言が直江を気に入るとは思いもしなかった。京に上ってまでも出世し、あまつさえ下臈の分際で京人の注目を浴びるとは……直江め、どこまでも忌々しい男である。
 だがこの作戦は高耶にとって効果的面であった。遠国へと旅立った直江を想い、何年もの間便りもなく帰ってくる気配も無いその空虚さに不安を感じ、やがては男の想いを疑い始めるようになった。
 京で新しい女ができたのかもしれない、自分のことなどもはや既に忘れてしまったかもしれないと、疑心暗鬼に苛まれ、みるみるうちに高耶は疲弊していった。
 男がまだ自分を思い続けていてくれているのか、確かめたくとも、確かめる術がない。なぜなら男の想いを確かめられる唯一の手段である直江からの文は、匡範によって一通残らず握りつぶされているのだから……。
 孤独な高耶は、次第に待ち続けることの苦痛に耐え切れなくなり、信じ続けることの意味を見出せなくなる。
 そして、直江が京へと旅立って行った時からずっとそばで励まし続けてくれていた男、─藤原匡範の優しさに癒しを求めるようになり、やがては彼を一人の男として見つめ、惹かれるようになっていくのだ。
 高耶がこちらを振り向くのはもはや時間の問題。崩落は間違いない。
 少し突付けば、今にも脆い楔は崩れ落ちるだろう。

(だが、まだだ……)

 三年の間、夫から音信が途絶えた時、夫婦の縁は切れることになっている。それまでは、最後の望みをたくして、高耶は直江のことを待ち続けるだろう。
 だが……三年待って、そうして直江が帰ってこなかった時。

(その時こそ、私が高耶を妻に迎える時だ……)

 匡範は杯を弄びながら、抑えきれぬ嗤いを唇から漏らした。
 もう少しだ。あともう少しで……夢にまで見た高耶が私の手に入る。

(それまでは直江、決しておまえを京から出させはしない。たとえその後にここに帰ってきたとしても、その時には既に、高耶は私のものだ……)

 その事実を知った時の、直江の顔が目に浮かぶ。絶望に打ちひしがれる、世にも惨めな姿が……。
 匡範は一層笑みを深くした。可笑しくて笑いが止まらない。
 なんという滑稽さだろう。なんという無様さなんだ、直江よ。妻のためにと一念発起で京へと上り、俸禄稼いでいざ帰ってきて見れば、とうの妻は他の男に寝取られていた。
 そうしてその相手こそが己に京の宮仕えを勧めたかつての己の上司だと知った時、おまえはその時こそ仕組まれたすべてのからくりを悟ることになるのだ。
 その瞬間おまえは一体どんな顔をするだろう……見ものだ。
 だがすべては人を容易に信じた己の愚かさと、のこのこと京の都に上って、悠長に遊興にふけって遊び歩いていた己の間抜けさが招いたことだ。自業自得というやつだ。

(この匡範を怒らせたこと、大いに後悔するが良い。そして存分に苦しめ……!)

 匡範は檜扇を手でくるくると弄びながら、抑えきれぬ高笑いを邸宅内に響かせた。
 空には昏い闇の中に溶けた白銀の月が、匡範の醜悪に歪んだ横顔を照らして、雲の合間に消えていった。



     *****



 それからまた幾年月の時が過ぎ去ったことか。
 気づけばもう、直江がこの寂れた土地から旅立って、三年の月日が経とうとしていた。
 直江の便りは来なかった。どんなに信じて待ち続けようとも、一通の文さえ高耶のもとには届かなかった。
 高耶はもはや、自分が何を待ち焦がれているのかさえわからなくなっていた。直江が自分のもとに帰ってくるのを待っているのか、それとも直江からの三行半という決裂の通知を渡されるのを待っているのか……。
 男の帰りをひたすらに待ち続けるのみの生活は、確実に高耶を疲弊させていった。ろくに食事もせず、日々物思いに耽って家の中に閉じこもる彼はじょじょに体調を崩し、次第に病がちとなっていった。
 かつての瑞々しくも艶やかな桜色の頬は見る影も無く、無表情な横顔は青白く精彩に欠けて、少し目を離せばまるで白く光る朝露のように、儚げに消え落ちてしまいそうだった。
 働き者だった彼はろくに外に出ることもなくなり、夜毎に月を見上げては物憂げに眺め暮らしている。
 その様子はあたかも物語の中の赫夜姫のようで、今にも月から宮殿の使者が迎えに降りて来やしまいかと、近隣の者たちがはらはらとした心地で高耶を見守っていた、そんなある日。
 ついに、運命の日はやってきてしまったのだ……。

 その日は朝からよく冷える日だった。朝露と共に白い霜が畑に舞い降りて、里人たちに冬の訪れを感じさせる、暮秋のうそ寒い日。
 火鉢に炭で火をおこして暖を取りながら、その赤い炎が揺れ動く様を何ということは無く判然と打ち眺めていた高耶は、戸口を叩く音に気づいて戸をゆるゆると開けた。
 そこに立っていたのは、匡範だった。
 招き入れて温かい白湯を出すと、匡範はそれに一つ口をつけて、膝元に置くと、正面に座る高耶に向き直り、こう告げた。

「明日で、直江殿がここを出て、ちょうど三年になりますね」

 高耶は目を瞠った。もうそんなに時が経つのか。この所ぼんやりとした生活を送っていたせいで、高耶は時間の流れの感覚が麻痺しきっていた。

「三年……」
「ええ、そうです。三年の間、夫からの音信が無い夫婦は、どうなるのかご存知ですよね?」

 知っている。三年の間夫からの音沙汰が無い場合、その夫婦の縁は事実上切れることになっている。
 つまり、直江と自分は夫婦ではなくなるのだ……。
 改めてそう認識しても、高耶の胸に、寂しさは無かった。
 あるのはただ、言いようもない虚しさだけ……。

「明日になれば、あなたは自由になれる」

 匡範の言葉に、高耶は顔を上げた。匡範の双眼がこちらをまっすぐに射抜いている。

「あなたはもう、苦しまなくても良いのです」
「匡、範様……」
「あなたの苦しむ姿は、もう見たくない」

 匡範が円座から膝を進めてこちらに近づいてきた。
 思いもかけない言葉に高耶は困惑して、その体勢のまま動けずにいた。

「私は、あなたに幸せになってほしいのです」

 高耶の双眼がみるみる見開かれていく。
 そっと上げられた手が、高耶の黒髪をかきあげて、左頬に添えられた。

「まさ……」
「ずっと好きだった……」
「……っ」
「あなたのことを毎日恋い焦がれるぐらい、ずっと……」

 手の平が、ゆっくりと頬を撫でる。
 高耶は茫然として、はちきれんばかりに目を見開きながら、目の前にある匡範の顔を凝視していた。

「決して、寂しい思いはさせないから……」

 匡範の声音が、耳元で鳴り響く。
 心が、揺れ動いた。
 涙が出そうだった。
 いままでの三年間の年月が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
 恋しい男を待ち続けては嘆いていた日々を。淋しい時に男からの後朝の文を抱きしめては涙を流した、あの切ない夜を。

(直江……)

 心の中で呟いた。

(もう、戻ってはこないのか……?)

 あの二人で暮らした幸福な日々は、幻だったのだろうか。
 自分の都合の良い、思い込みだったのだろうか。
 オレのことを愛していると、言ってくれたおまえさえ、全ては自分の完全なる妄想だったのだろうか……。
 ちがう、と否定したくても、この家で確かに一緒に暮らしたはずの直江のぬくもりは、とうに遠くなっていて、高耶は直江がかつてくれたはずの愛の言葉の数々を、どうしても思い出すことができなくなっていた。

(直江……)

 あれほど鮮明だった男の笑顔が、今は色あせて、あまりにも遠い……。

(オレはもう、おまえを……待ち続けてはいけないのか……?)

 答えろ、直江。
 答えてくれ。


 ─直江……。


 暫くの静寂の後、ゆっくりと顔を俯かせた高耶は、両手をゆるゆると持ち上げて、匡範の身体を軽く押し返した。
 驚いて口を開きかけた匡範に、高耶は首を左右に振り、無言で言葉を制する。
 そして、ゆっくりと唇を開いた。

「今宵、再び、お越しください……」

 紡がれた言葉に、匡範が目を見開く。高耶は依然として俯いたまま、円座の端を見つめている。
 その様子をしばし眺めて、匡範は言葉無く立ち上がると、

「それでは、今宵、また」

 そう言い残して、何も言わずに去って行った。
 高耶は動かない。じっと動かず、床の一点を凝視し続けている。

 秋風が、びゅぅびゅぅと音を立てた。
 今夜は雪が降るかもしれない、そう思って見上げた庇の向こうの空は、暗雲とした雲に覆われて、太陽はわずかばかり灰雲の中で仄光り、地上の高耶のもとまでそのぬくもりを届けることはなかった……。







あだ
徒し契 …… 末とげられぬ契り。
ず さ
ひろちか