チャイムと共に、波乱尽くめの一時間目が終った。 二時間目は体育である。更衣室に行って体操服に着替えてこなければならない。 「高耶、早く行こう」 教科書類を机の中にしまっていると、上方から話しかけてくる声がある。 高耶が目線をあげた先にいたのは、成田譲であった。キチッと締められた赤いネクタイが、いかにも品行方正といった感じだ。 「譲……おまえ、いたのかっ」 「いたのかって……朝来たとき声かけただろ」 譲が呆れたように眉を寄せた。 実際、今のいままで同じ教室内にいた譲の気配に気付かなかったのだ。てっきりいないものと思い込んでいたのだが。 譲は高耶を見下ろすと、肩を竦めて皮肉げな口調で言った。 「まぁ、おまえは授業中ずっと転入生に熱い視線を送るのに夢中で、俺の存在なんて全く気付かなかったんだろうけど」 「! 見てたのかッ、 譲!」 驚く高耶に、譲は思いっきり大きく溜息をついて肩を落とした。 「そこは普通、言い繕って否定する所だよ、高耶……」 「別に否定する必要ないだろう。本当のことなんだからな」 高耶は何のてらいもなく言ってのける。 「分かってるなら話は早い。オレは直江のこと本気だから、おまえも協力してくれよな」 「協力って……ちょっと」 譲の返事を待たずに、高耶は椅子から立って直江の方へと歩んでいってしまう。 「次体育だから、更衣室の場所分からないだろう?一緒に行かないか」 鞄から着替えを取り出していた彼は、「ええ、お願いします」と頷いて、高耶が促すと二人並んで教室から廊下へと出て行った。 その後ろを譲と、千秋がついていく。 「おい、成田」 千秋が隣りの譲を小声で呼んだ。 「なんだよ」 「なんだよじゃねぇよ。仰木のヤツ、あの転入生のことマジで本気なのか?」 先ほどの会話を千秋は隣りで聞いていたのだ。コソコソと話しかけてくる千秋に、譲はスイッと肩をすくめて見せた。 「さぁ、本気なんじゃないの。何しろ本人がそう断言してるんだしね」 「そりゃまぁな……。あいつの態度見てれば一目瞭然なんだがな……」 前方に歩む男子二人に目を向けた。 何しろ高耶の直江に向ける視線と言ったら、どこから見ても恋する乙女以外の何者でもないのだ。疑いようも無いほどに、これは正真正銘「マジ」であろう。 そう頭で分かってはいても、あの硬派でならした深志の仰木が、よりにもよって男相手に一目惚れなどと、さしもの千秋も俄かには信じがたかった。 そんな友人二人には全く気を留めずに前を歩む高耶は、キョロキョロと校舎内を眺めながら歩く直江の横顔を見て、悦に入っていた。 (やっぱ日本男児たるもの、運動で共に汗を流しながら親愛の情を深めるのが一番手っ取り早いよな) ↑※決して卑猥な意味に非ず そして親密になったところで、あわよくば急接近だ。 慌てることは無い。じわりじわりと奪っていけば良い。 高耶には、直江が自分に恋に落ちないわけがないという、絶対の自信があった。 なによりここは高耶の夢の世界だ。言うなれば自分がこの世界の支配者なのだ。 しかるに、ここではすべての出来事が、自分に有利な展開へと進んでいかないはずがないのである。 グラウンドに眩しい日差しが照りつけている。 校舎から外に出た高耶たちは、準備体操の前に早速グラウンドを軽くジョッグしだした。 今日の体育はどうやら陸上らしい。高耶としては陸上などよりも、久し振りにサッカーでもやって、思う存分体育の授業をエンジョイしたかったのだが。 (あぁ、くっそ。直江とサッカーやってみたかったなぁ) 現実ではまず間違いなく叶う見込みのない願いだ。だからこそ、なおさらこの夢の世界で実現させたかった。 (それにしても……) 高耶は視線を横にずらして、隣で並んでトラックを走る直江を見た。 当然のことながら、高耶と同じく白い半袖・濃紺の短パンの、体操服姿である。 高耶は眩暈を感じた。 (ま、まぶしすぎ……) 思わず鼻の頭を押さえる。 体操服は既に購入済みだったらしく、高耶と同じ城北高指定のものだ。胸にデカデカと付けられた名前とHRNOつきゼッケンが、いかにも田舎高校らしくて哀愁を誘うが、ダサいデザインも、美形が着れば見られるようになるのだから不思議だ。 まさか高耶も、直江とおそろいの体操服を着る日が来ようとは夢にも思わなかった。(今見ているが) 直江の体操服にかなりの抵抗があったのは事実だが、実際に見てみると、歳相応に伸びやかで長い四肢は躍動感に溢れ、程よく筋肉のついた剥き出しの肌は日の光を浴びて眩しく、風を帯びて振り乱れる髪といい、上気した頬といい……はっきり言って、とんでもない悩殺ショットだった。 「どうかしましたか」 じっと見つめてくる高耶に気付いて、直江が尋ねてきた。 思わず顔を背けて赤い顔を手の平で隠した。直江は依然として怪訝そうに眉を寄せている。 (こいつ……直江のくせにニブいぞっ。絶対無自覚だっ) あなたに言われちゃおしまいだという読者のツッコミはさておき、これはなかなか難攻そうだと、高耶が思わず溜息をつきかけた時。 「お〜お〜。何ちんたら走っちょるんじゃ仰木ぃ〜」 背後から実に耳馴染んだ声が聞こえてきた。 土佐弁にそろそろ全く違和感を感じなくなってしまった高耶だが、(じきに移るかもしれない…) よく考えずともここは松本である。ぎょぎょっとしてバッと背後を振り返る。 そこに見たものは……。 「れっ、れれれっ、れれッ……」 「何がレレレじゃ。おんしゃ赤塚不×夫キャラか」 振り返った先にあったのは、さほど懐かしくもない嘉田嶺次郎の顔であった。 見たとこ十七歳ほどの若い嶺次郎がそこにいる。 「ふ、はっ。ふははっ。はっはははははははははっ……」 高耶は嶺次郎を指差して、壊れたように笑いだした。 何しろ嶺次郎も自分らと同じ体操服姿なのである。高校生の体操服直江には悩殺された高耶も、高校生の体操服嶺次郎には乾いた笑いしか出てこない。 「はっ、ははははっ……」 「なんじゃおんし、人の顔見るなり。しっつれいな奴ぜよ」 「だだって……おま……ふはっ」 走りながら、高耶は腹を抱えて笑い転げている。 (く、くるし……っ) 「なんだぁ?どうかしたのか仰木ぃ」 「めずらしい、あの仰木が笑い転げちゅうぞ」 「なんぞ悪いモンでも喰ったんかのぉ」 次々に後方から降りかかってくる土佐弁。思わず条件反射で視界に映してしまい、更に笑いのボルテージが跳ね上がった。 声の主は、お馴染み潮と岩田と小源太である。 (むっ……武藤はともかく……ありえねぇだろ高校生檜垣っ!) 笑いのツボにはまってしまい、なかなか抜け出すことができない。 彼らのゼッケンを見ると、どうやらこの4人は隣りの2組の生徒たちらしい。 (2年2組っつーより、2年赤鯨組……) ヨロヨロしながら、どうにかグラウンド2周走り終えると、高耶はその場にしゃがみ込んでしまった。 「大丈夫ですか?仰木君」 隣りで走っていた直江が覗き込んできた。 いきなり爆笑し出した高耶に驚いて、切れ長の目を丸くしている。 「彼はどうして笑っているんだ?」 傍らの潮に聞いた。潮は突如話しかけてきた見知らぬ少年を、興味深げに見回す。 「いや……俺らも分かんねぇんだけど……あ、てかあんたってもしかしなくても、3組に来た転入生だろ。俺、武藤潮っての。仰木のマブダチー。よろしくー」 「……直江信綱だ。よろしく」 ヒクヒクしている高耶の上で、自己紹介が交わされた。潮はしげしげと直江の顔を見て、「噂に違わぬ美形だなー」と小さく呟くと、 「俺、ワンダーフォーゲル部兼写真部なんだけどさ、気が向いたら被写体になってくれよ。いま仰木に頼み込んでんだけど、あいつゼッテー撮らしてくんねーんだよなー」 どうやらここでも潮はカメラ小僧らしい。ついでにここでも自分は逃げ回っているようだが。 「あ、それとさぁ。ここだけの話こいつってかなり人気あって、むっちゃ血気荒いシンパの奴多いから、あんたももし仰木狙いなら気ぃつけといた方がいいぜ」 「……ってオイ武藤ぉッ!」 その瞬間、ガバチョッと高耶がもの凄い勢いで起き上がった。 「あ、なんだ元気じゃん仰木」 「なんだじゃねぇよ!よりにもよって余計なごたこいてんじゃねーぞ!」 眉を吊り上げて怒鳴りつけると、潮はニヘラと笑って、 「なーにムキになってんだよ、冗談だって。なんか今日のおまえテンション高いなぁ。あ、それより集合かかってんぜ?」 指を差してクイクイッと促した。確かに、高耶たち以外の生徒たちは既に男女共グラウンド中央に集っている。 三人は顔を見合わせて、慌てて駆け出していった。 整列する生徒たちの向こう側に、黒いジャージ姿の男が見える。おそらく、体育教師だろう。 だが、高耶はそのシルエットがだんだん近づくにつれて、何とも形容しがたい胸騒ぎに心が占領されていくのを感じた。 (どっかで……見たことが……あるよう、な……) 気のせいであってほしいと、ひたすらに祈りながらも、しだいにその人物の容貌を視覚に捉えていった高耶は、やはり想像通りの冗談キツイ展開に、思わず泣きたくなったのだった。 「なんであいつが体育教師……」 頭を抱えながらも、生徒たちの列に加わった。 体育係の号令と主に、「おねがいしまーす」との挨拶の声が上がって、一同はその場で地面に体育座りをした。 手前に立った体育教師が、列に加われずに脇に立っている直江を見て、その薄い唇を開く。 「おんしが、3組の転入生か」 方言ベタベタの言葉に、高耶は「教師なら標準語で話せよ……。おぜーっつの……」と、心の中で松本弁を呟いた。 「わしは体育課担当の兵頭隼人じゃ」 その男、兵頭は教師にしては随分横柄な態度と口調で直江に告げた。 嶺次郎とは違い、兵頭はジャージ姿という点を抜かして、現実と見た目ほぼそのままだ。こうなったらいっそ兵頭の高校生姿も見たかったような気もするが……。 しかしどうして首領の嶺次郎ではなく、兵頭が教師役なのかは謎だが、高耶は直感的に彼が間違いなく2組(赤鯨組)の担任であろうことを悟った。 「直江信綱です。よろしくお願いします」 直江が、素直に、何の疑問も含みも持たずに、あの兵頭相手に礼儀正しく頭を下げている。 この世の物とは思えぬ光景に、高耶は再び頭を抱え込んで、首を左右に強く振った。 その様子を心配そうに遠くから見つめるのは、女子の列で体育座りのである。 (なんかあったのかなー仰木くん。さっきから様子おかしいけど……) 実はさっき高耶が笑い転げていた所も、ばっちり遠目にウォッチングしていたのだ。 いまもなんだか悶え苦しんでいるような様子の高耶に、まさか直江くんと何かあったんじゃ……と、当の本人に勝るとも劣らずヤキモキしっぱなしだ。 「ねぇどうしようっ。仰木くんピンチっぽいよ、紗織ぃ〜」 隣りに座る森野紗織の体操服をつっつく。 しかし紗織は気付かずあらぬ方向をうっとりと見つめたままだ。 「……うぅ〜ん、いつ見ても成田くんの体育着姿ってカワイイィ〜……」 またコイツは妄想つっぱしってんな、とは眉を寄せて、(←自分のことは棚上げ) 紗織の耳元に顔を近づけた。 「なーに言ってんだかっ。仰木くんの方が絶対ナイスバデーのフェロモンボンバーだって!」 そこで紗織が初めてこちらに気付いたらしい。ヒョイッと三つ編みを振ってを振り返る。 「ええぇ〜?仰木くん〜?…んまぁ確かに最近いつの間にやらすんごい美人になっちゃって目の保養的には申し分無いけど、やっぱ私は成田く」 「あぁ〜ハイハイ分かったっての耳にタコー」 「なによぉ〜こっちこそあんたの仰木くんフェチには飽き飽きしてるわよぉっ」 「そうよっ。フェチで悪い?私には仰木くんに近寄る不埒な野郎や女狐どもを追い払い、仰木くんに最も似つかわしいカレシを見極めそして結び付けてあげなければならない使命があるんだから!」 「え、何?カレシッ?いつの間にそんなピンクな話題がっ?」 「あんた気付いてなかったの?直江くんだってっ。直江くん!直江くんを見つめる仰木くんの瞳ったらもぉ、まさしく恋する乙女そのもの!」 「えええっ!?キャー何っ。仰木くんったら、ついにその道に目覚めちゃったのぉぉ!?」 「失礼なっ。『その道』じゃないの!直江くんが運命の相手なの!」 「そんなーっ。あのステキな理知的美形転入生・直江くんと城北の裏カリスマ・トップアイドル・仰木くんがぁ〜?めっちゃくちゃ萌えじゃないっ!」 「でっしょー?でもまだ仰木くんの片想いらしくってさぁ」 「これはもう断然っ」 「プッシュあるのみっ!」 小声でヒソヒソギャーギャー騒ぎながら、と紗織が固く右手を握り合わせた時だった。 「おまんら五月蝿いぞッ!グラウンド一周走って来いッ!」 至近距離で兵頭に怒鳴りつけられた。と紗織はギョギョッと硬直した後、渋々立ち上がり、トラックをピューッと走り始める。 「なにさぁー。私あの兵頭って、すっごい嫌いーっ」 が眉間に思いっきり皺を寄せながら言った。 「えぇーでも、兵頭先生けっこう、カッコイイじゃない〜?」 紗織もぴょんぴょん跳ね走りながら答える。 「そりゃーねー。でも私はカッコイイなら、直江くんとか、千秋くんとか、仰木くん達の方がっ」 「うちのクラスも相当レベル、高いよねー」 「それにあの兵頭って、仰木くんを見る目が、どうも臭うのっ。私の第六感が騒ぐのっ。あれは絶対仰木くん狙いだってっ。間違いないっ!」 「……あんた、伊達に『仰木高耶マニア』、自称しちゃいないわね」 「それほどでも、あるわよ」 「にしても仰木くんったら、ついに教師にまで、フェロモンの餌食に……」 「とにかくあの、兵頭隼人は敵っ。教師という立場を利用して、仰木くんに何やらかしてくるか分かったもんじゃないって!仰木くんは清い身のまま、直江くんのお嫁にしてあげるんだから!」 「きゃーお嫁だってぇぇー!」 「いいっ?あんたも協力すんのよ紗織?次の昼休みお弁当の時間のあたり、直仰……いや、言いにくいな。直高、うんそう。『直高・愛のキューピッド作戦』決行だかんねっ!上手くいったらあんたと成田くんのも協力してあげなくもないから!」 「オッケイ、!」 丁度紗織が叫んだところで、グラウンド一周が終わった。 紗織という新たな仲間を得て、の暴走は留まるところを知らずますます増大していく。 グラウンドの中央では、直江の背の順の位置を決めるために、高耶が気恥ずかしそうに、そして嬉しそうに直江と背中をくっつけて、背ぇくらべっこをしていたのだった。 to be continued... |