「下降する哲学的マンガ」

つげ義春「無能の人」


(開発工学部総合教育系教授)高月義照

つげ義春という作家は、不思議な魅力を持ったマンガ家である。

多くのマンガが、ヒーローやヒロインの痛快な冒険やファンタスチッ

クな空想物語を展開することによって、読者に夢や希望や勇気を与え、

あるいは主人公が様々な失敗や苦難を乗り越えて人間的に成長していく

過程を描くことによって、愛や友情や根性の大切さを教え、あるいは皮

肉や風刺や戯れによって読者の笑いや共感を誘うような、いわゆる「面

白い」マンガであるのに、つげ義春のマンガはそれらとはまったく異質

である。おそらく若い人々には、暗い陰鬱な話ばかりで、「面白く」も

ナンともない、と思うはずである。

それは、社会や人生の表面には現れにくい人間の深層の暗部へとひた

すら下降してゆくつげ義春の人生観と思想性のためである。

もっとも60年代後半の諸作品は、「山椒魚」や「ねじ式」などの作

品を除けば、物欲や栄誉や富といった世俗的価値の世界とはおよそ無縁

な一隅の人々のひっそりとした生き様を私小説的手法で淡々と綴ったも

のが多かったのであるが、80年代に描かれた「石屋シリーズ」の連作

「無能の人」では、つげ義春の下降はついに「人間の死に様」というそ

の極点に達した感があり、鬼気迫るものがある。主人公が近くの多摩川

の河原から拾ってきた売れるはずもない石に名付けられる「孤舟」「霊」

「怒」「泪」といった言葉が、主人公の心情を最もよく表している。世

俗的な価値をとうに否定している主人公にとって、石が売れるかどうか

はどうでもよいことであって、石はむしろ無価値なものの象徴として

ただあるがままに存在しているだけである。そして人生も、石と同じよ

うに、本来あるがままに存在している無価値なものではないのか。だか

ら、主人公は妻に「虫けら」と呼ばれても「役立たずの無能の人」と軽

蔑されても、それを黙って受け容れるのである。

圧巻は、最後の「蒸発」に描かれる乞食俳人、井月の「枯田の中の糞

まみれの死」である。死は人生の価値の究極的な否定である。死を思い

きり無様に描くことによって、世俗の生に執着する煩悩を徹底的に否定

し、物欲や名誉や富を剥ぎ取ったところにある「生そのもの」をつげ義

春は肯定しようとしているのである。

このように、「無能の人」はマンガというにはあまりにも哲学的であ

り、哲学的というにはあまりにもマンガ的である。自らに人生を考える

ためにも、是非、味読を薦めたい名作である。

(東海大学新聞96年4月20日号掲載)

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