社会倫理… ヘ−ゲルの「人倫」を中心に…

高月義照


「哲学と倫理の間」(北樹出版、1981年)より


これは天森六康さんが描いてくれた
ヘ−ゲルの似顔絵です。

われわれは、いつでもさまざまな人間関係のもとに
存在している。この人間関係の総体を社会というとき、
われわれは社会的存在である。そしてこの社会は、人間
関係の空間的な拡がりに応して、あるいはその基本的な
あり方、性格の運いに応して区分される。例えば、家族
とか地域社会とか実社会とか国家といったような区分が
可能である。こうした社会は、それぞれ社会的存在とし
ての人間の社会的連帯性、共同存在性の場面を示すもの
である。人間が一個の独立した自由な人格としてあるだ
けではなく、同時に社会のさまざまな秩序とのかかわり
においてのみ存在するものであるならば、人間存在の倫
理的な意味づけや倫理的行動のあり方をもっばらその社
会的連帯性の場面において考察する倫理学が成立しても
不思議ではない。
個人の自自な人格を中心に間題とする倫理学を、かりに
主観的倫理学と呼ぶとすれば、そうした社会的存在として
の人間のあり方に焦点をあてた倫理学は、倫理の客観性を
問うものであるから、客観的倫理学と呼ぶことができる。
われわれは、こうした客観的倫理学をはしめて体系的に構
築した哲学者としてへ−ゲルの名前を挙げることがでぎる。
ところで、ヘーゲルには倫理学と題された著作がひとつもない。しかしへ−ゲルの倫理学
が、その晩年の主著である『法哲学』において体系的に展開されていることは、周知の事実
である。それではなぜへ−ゲルは、自らの倫理学を倫理学と呼ばずして「法哲学」と名づげ
るのであろうか。実は、この事実にこそ、ヘーゲル倫理学の特有の性格が暗示されているの
であり、従来の倫理学の革新を意図するヘーゲル自身の意欲が表明されているのである。
それゆえわれわれは、この点をてがかりにして、『法哲学』において展開されるその倫理
思想を、とりわげそのなかの中心概念である「人倫」の思想を明らかにすることによって、
ヘーゲルの倫理学の特徴とその意義を考察してみたいと思う。

(1)法哲学と人倫

「法哲学」というと、一見、倫理学とはそれほど関係ないようにおもわれる。しかしへ-ゲ
ルのいう「法」は、今日われわれが使う意味とはかなり違っている。「法」の原語は Recht
であり、これは同時に「権利」や「正義」を意味する。レヒトは、一般的には自然法や法律
というときの法を意味するが、ヘーゲル的にはそうしたものを含め、権利や正義をも包括す
る広い意味に解される。つまり法はたんなる理念としての正義であるのみならず、その理念
の現実態としての権利でもある。ここにおいても、理念を現実においてとらえ、現実を理念
において把握するというへ−ゲルの基本的な学問的態度がつらぬかれているといわなければ
ならない。というのも、ヘーゲルにとっては、「現実的なものは〔いつでもすでに immer
schon〕理性的であり、理性的なものは〔いつでもすでに〕現実的である」からである。こう
した基本的な立場から法を取り扱うと、どういうことになるか。ヘーゲルは次のようにいう。
「法の理念は自由であるが、これが真に理解されるためには、それの概念において、またこ
の概念の現存在において認識されなげればならない。」(1)
法は、理念としては自由であり、現存在としては法の体糸である、とへ−ゲルはいう。し
かしどのような意味において、自由が法の理念であるのか。これにはいま少し説明を要する
であろう。
a.自由と法
へ−ゲルによれば、『法哲学』において問題となる自由は、「実践的精神一般」としての
意志という形で現われる。これは、自由の実践的なあり方として、「自らに現存在を与えよ
うとする衝動としての思惟」でもある。それゆえ、自由と法との関係は、次のようにもいわ
れうる。
「法の基盤はそもそも精神的なものであり、そのもっと身近な場所と出発点となるのが、自
由な意志にほかならない。それゆえ自由が法の実体と規定をなすので法体系こそ現実化された
自由の国であり、精神自身から生みだされた精神の世界、いわぱ第二の、自然にほかならな
い。」(2)
b.客観的精神
このようにみてくると、『法哲学』がへ−ゲルの哲学体系からいうと『精神哲学』の一環
としてあることがよく理解できる。この精神哲学は、主観的精神と客観的精神、それにこの
両者の統一としての絶対的精神とに区分されるが、『法哲学』が、第二の自然としての精神
の現実態を主題とする客観的精神に定位されていることは、もはや明らかである。法の体系
こそ「現実化された自由の国」として、客観的精神そのものである。したがって、自由な意
志の理念が客観的精神として現実化されていく過程が、『法哲学』の内容をなしている、と
考えられる。そしてこの過程が、ヘーゲル弁証法特有の論理展開に従って、三つの段階から
成ることはいうまでもない。すなわち、即自の段階としての「抽象法」、対自の段階として
の「道徳性」、そして最後にくるのが客観的精神の完成態として、即かつ対自の段階として
の「人倫」である。これら三つのうち、前の二つは「人倫」にいたる前段階であり、「人倫」
の中に集約されていくのであるから、何といっても「法哲学」の、したがってヘーゲル倫理
学の核心部分は、この「人倫」の展開にある。それゆえ、われわれはまず「描象法」と「道
徳性」とについて簡単に触れたあとで、「人倫」については少し立ち入って検討することに
したい。

(2) 人倫への過程

a.抽象法(Das abstrakte Recht)
この立場は、自由な意志の直接的なあり方としての人格性(Persoenlichkeit)の立場で
あり、これに対応する現存在が、他人の人格を尊敬し、他人の権利を侵害してはいけないと
いうたんなる抽象的な、形式的な合法性を要求するところの法である。ここにおいて論しら
れるのは、一般的にいえば、法律と人間とのかかわりであって、法律によって規定された権
利、あるいは正義は、人間に対してまだ外的にかかわるにすぎず、合法的であるか不法であ
るかは偶然に支配される。ここでは、人間はまだ捕象的な人格としてあるだけであり、「精
神」がまだ自らを自覚していない即自的な(an sich)あり方をしている段階である。それゆ
え、この立場は、「精神」が自己自身を反省し自己を自覚した対自的な(fuer sich)あり方と
しての主体性(主観性)の立場に移行しなげればならない。これが、カントの道徳哲学に代
表される「道徳性」の立場である。
b.道徳性(Die Moralitaet)
{ カントの倫理学}
この立場は「対自的に無限な自由の主観性」を原理とするものであり、ヘーゲルがこの立
場を語るとき、カントの「実践哲学」あるいは「道徳哲学」を念頭においていることは間違
いない。カントの倫理学こそ、人間の内面的自由を重視し、自由な主観性の自律を原理とす
る典型的な倫理思想だからである。
カントが『実践理性批判』の中で、「純粋実践理性の根本法則」として定式化した次の
命題は、彼の倫理学の基本的立場を示すものとしてあまりにも有名である。
「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理と見なされるように行為せよ」(3)
この命題に特徴的なことは、一方に「主体的な個別性」としての意志があり、他方にそれ
が目指すぺき自的としての「普遍的なもの」が対置されているという事態である。つまり、
ここにおいては、個別と普遍とがひとつの関係として措定されており、しかも個別は、普遍
との一致、同一性を求めて行為すべき(当為Sollen)であり、また行為すぺく要講されている。
こうした特徴をもつカントの倫理学をへ−ゲルはどのように見るのであろうか。
c. カントの功績
カント倫理学の根幹は、「意志の自律」にある。、カント自身、「意志の自律がすべての
道徳法則と、それらに適合する義務の唯一の原理である」(4)というように、意志の自立の思
想を確立した点にこそ、彼の大きな功績が認められるであろう。この点に触れて、ヘーゲル
は次のようにいう。
「意志の純粋な無条件的な自己規定が義務の根源であることを際立たせるのは、非常に本
質的なことであり、実際にまた意志の認識はカント哲学によってはじめてその確固たる根拠
と出発点を、彼の無限な自律の思想を通して獲得した。」(5)
従来、意志が人間の個別的な主体性として、倫理学的概念の核心を占めることはなかった
ようにおもわれる。このようなカントの自律した意志は、「抽象法」における場合のように
たんに不法を犯さないという消極的なあり方ではなく、道徳法則の普遍妥当性をめざすもの
であり、またそれに適合する義務を自ら意欲するという積極的な意義をももっている。ここ
からカントの次の功績と考えられるものが出てくる。
それは、主体的個別性としての意志が、本質的には、普遍的な道徳法則や義務とひとつで
あるという認識に到達したことである。つまり、普遍的なものの本質と、思惟し意欲する個
別的な主観とが本来的に同一であるという認識にいたったことは、へ−ゲル的にいえば高く
評価されなげればならない。なぜならそれは、実体と主観との同一という認識を大前提とす
るへ−ゲル的立場にそのまま移行しうるものだからである。
d.カント批判
しかしまたこれが単なる認識に終わったという点がカントの決定的な欠陥であり、そこに
ヘーゲルの不満もある。「認識に終わった」という意味は、カントにおいては、個別的な意
志の主観性が普遍的なものとしての義務とひとつでなければならないという要請として、あ
るいはひとつであるべきだという当為として、いわば形式的に認められているだけであり、
いまだ両者の同一性が実現されていないし、実現された場において考えられていないという
ことである。
これは、カントが「単に主観的な道徳的立場を固持した」ことからくるのであり、主観と
普遍的なものとが根本的には分離されており、そうした普遍に対置された主観性の立場に立
っていることからくる、とへ−ゲルは考える。普遍と個別との「形式的な一致」は、ヘーゲ
ルにとって抽象的な規定にすぎず、何ら具体的な現実性をもちえない。まさにこの具体的、
現実的な普遍こそ重要なのである。つまり、主観と普遍的なものとの、主観と実体との絶対
的な「具体的同一性」こそが、いいかえれば「主観的な善と、客観的な即且対自的にある善
との一体性」こそが、ヘーゲルの「人倫」の場面にほかならないから、カント的な道徳性の
立場は必然的に次の「人倫」の段階へと移行しなければならない。
この「人倫」の展開こそ、ヘーゲル倫理学の核心部分であるので、われわれはこれを少し
立ち入って検討する必要があるだろう。

(3)人倫(Sittlichkeit)の展開

人倫の概念は、しきたりや習俗を意味する Sitte から来たことばであり、常識的にいえば
良風美俗をあらわす。こうした習俗や良風美俗は、へ−ゲル的にいえば、「主観的な意見や
気ままな意向を超えて存立するもの」であるから、具体的な普遍と考えられる。いいかえれ
ば、「人倫とは、現存世界となるとともに自己意識の本性となった、自由の概念である。」(6)
このように自由の概念が現存世界となったものが人倫的存在であり、自己意識の本性となっ
たものが人倫的意識と呼ばれ、この両者の不可分の一体性が人倫にほかならない。そしてこ
の人倫もまた、ヘーゲル的な理念の弁証法の発展段階に即応して、即自的な普遍性を原理と
する「家族」にはじまり、人倫の否定態として個々の対自的な特殊性を原理とする「市民社
会」を経て、最後にその面者の絶対的な統一態として即且対自的な普遍性を原理とする「国
家」において完結する。

a.家族(Die Familie)
ヘーゲルが家族について述べていることは、時代的制約もあり、今日からみると古めかし
い記述もあるけれども、しかしその基本的な把握は今なお充分通用するものである。彼は、
家族の本質的な契機として三つのものを挙げる。つまり婚姻と資産と家族の解体の三つであ
る。これは、いわば家族の成立からその完成にいたる過程でもある。そしてこの過程を通し
て家族の構成員を支配する人倫的意識は、直接的、感情的な一体性の意識としての愛(Liebe)
である。この愛の一体性は、「個々人の自然的、個別的人格性という点からすれば一つの自
己制限であるが、しかし彼らはこの一体性において自らの実体的自己意識を獲得するのであ
るから、まさにこのゆえにそれは彼らの解放である。」(7)
しかしこの一体性は、まだ直接的であるので、現存在をもたない。そこでこの一体性はな
んらかの対象性において媒介される必要がある。ヘーゲルは、それを資産と子供の存在にお
いて考える。夫婦、あるいは家族の構成員の共同の所有になる資産は、一体性を支える外面
的、客体的基盤であり、子供の存在は、両親の一体性の客体化としての精神的基盤である。
しかしこのように客観化される一体性も、必然的に解体される運命にある。なぜなら、ひ
とつには「両親、ことに男親の死による自然的解体」があり、もうひとつには、「子供が自
由な人格性へと教育され成年に達する」ことで、主観的にも客観的(法的)にも独立した個
人となってあらたな家族を形成するからである。こうして人倫の問題は、家族内の問題から、
複数の家族間の問題へ、いわゆる「社会」の中におけるそれぞれ独立した個人の問題へと移
行する。個々の独立した人格性を原理とする社会は、一体性を原理とする家族とは本質的に
区別されなければならない。へ−ゲルは、それを「市民社会」と呼ぶのである。

b.市民社会(Die buergerliche Gesellschaft)
市民社会におげる市民 Buerger とは、「自己自身の利益を目的とする私的人格」のこと
である。ビュルガーは、フランス語のブルジョワ bourgeois に当たることばであるが、こ
こではのちのマルクスにおけるようなプロレタリアに対置された意味はまだない。それは、
さまざまな欲求をもち自己と自己の家族との生活を支える独立した自由な人格である。こ
うした意味での市民は、近代以前にも存在したには連いないが、しかしその顕著な現われ
は近代におけるものである。とりわけ、個人の利益追求が優先する社会、「自己が自己に
とって目的であるような特殊的人格」が支配的原理となっている社会とは、産業革命以来
顕著になった近代社会を意味するものである。
実際、ヘーゲルが市民社会を語るときその念頭にあったのは、イギリスの自由主義経済
社会であり、その思想的表現としてのA・スミスやD・リカード等の古典派経済学であっ
たことは確かである。これらの経済学理論を踏まえた上で、近代社会をヘーゲル的に特徴
づけるとき、市民社会は特有の意味をもって浮かび上がるのである。つまり、へ−ゲルに
よれば、近代の経済社会は、明らかに家族を支配する原理とも、国家を支配する原理とも
違う欲求充足の原理に支配された一種特有の新しい社会であって、それは「欲求の体系」
ともいうべきものである。それゆえ、「市民社会は、国家よりもあとに形成されたにして
も、家族と国家との中間にくる差別態である。」(8)
このようにへ−ゲルは国家社会と市民社会とを明確に区別する。これは今日でこそ常識
的となっているが、当時においてはまったく新しい認識であった。スミスにしても、カン
トやフィヒテにしても両者をほとんど同一視している。ヘーゲルのこの近代社会批判とし
ての市民社会論は、マルクスの資本主義社会批判に大きな影響を与えたものとして、ヘー
ゲルの鋭い洞察力と先見性を示す好例ともなっている。

c.欲求の体系と労働の意義
へ−ゲルが市民社会を「欲求の体系」として特徴づけるのは、近代人のあり方が個人的
な利益の追求、欲求の充足を第一義的な原理とするものだからである。ここにおいては、
個々人はそれぞれ独立の人格としておたがいに自らの欲求を充足しようとするので、当然、
一体性ではなく多数の人格の相互関係が生しる。この相互関係は、個人が自己の利益を追
求する手段としてのみ承認され、自己の利益に反する場合には排除されることになるので、
それはたんに必要性に基づくだけの、ときにたんに契約に基づくだけの非人倫的な関係で
ある。この意味で、市民社会は「人倫の喪失態」となる。また市民社会にあっては、自己
の欲求充足のための経済活動として、労働(Arbeit)が不可欠であるが、この労働が市民社
会の原理に従うかぎり、個人の技能や財産に不平等を生じ、階級の差別が生じる。この点
でも市民社会は人倫的実体の分裂を結果する。
このように市民社会は、基本的に普遍性の否定として現象する。しかしだからといって
市民社会には否定的契機しかないのかといえば、決してそうではない。市民社会がそれと
して存立しうるためには、そこには当然すでに肯定的契機も含まれているはずである。例
えば、多数の人格の相互関係も、たんに排他的な一方的関係であるのではなく、同時に相
互依存関係であることなしには自己の利益追求自体が成り立ちえないのであって、自己の
利益追求が同時に他者の利益追求を潜在的に承認しているという形で、特珠性はすでに普
遍性の規定を受けているのである。
ただここにおいては、普遍性は陰に隠れていて特殊性の中に反映している−「形式的に
作用している」−だけである。また労働についても同様のことがいえる。労働は、直接的
には自己の欲求充足を実現する手段であるが、これは他者の労働との相互依存においてし
かありえないことは明自である。それゆえへ−ゲルはいう。
「諸個人の目的は、彼らに手段として現象する普通的なものによって媒介されているので、
その目的が達成されうるのは、彼ら自身が自らの知と意欲と行動を普遍的な仕方で規定し、
自らをこの連関の鎖の一環たらしめるかぎりでのことである。」(9)
このような事情から、労働は同時に「特殊的な主観性を陶冶する過程」でもある。つまり
労働は、特殊性から普遍性へと自らを高め形成する(bilden)陶冶・教養(Bildung)という
意義をも合わせもっていることになる。
こうして市民社会は、一面では特殊性の原理に基づく人倫の否定態でありながら、他面
では普遍性の映現ないし現象界として、真の普遍性、絶対的人倫へいたる必然的な通過点
にほかならない。しかしそれにもかかわらず、市民社会内部にあっては、労働の本質的な
意義は完全には実現されない。それは、「司法活動」や「福祉行政、職業団体」の役割り
を通して市民社会内部で行なわれる人倫の回復の試みが原理的にいって完全には実現され
ないのと同様である。完全な人倫の実現は、家族の直接的普遍性と市民社会の個別的特殊
性とを統一した絶対的普遍性を原理とする「国家」においてはじめて可能である、とへ−
ゲルは考える。というのは、国家こそ両者を有機的に包括する全体的な人倫的存在だから
である。

d.国家(Der Staat)
へ-ゲルが人倫の最高の現実的形態として想い描く国家とは、歴史上実在したり、あるい
は現存する特定の国家を意味しているわけではない。この点にまずわれわれは注意する必要
がある。というのも、しばしば、ヘーゲルが当時のドイツ(プロシァ)をあたかも最高の
理想国家であると考えていたかのように誤解されるからである。ヘーゲルの国家論は、現実
に実在している特定の国家の是認であるというより、むしろ国家の本質的な意味づけであり、
基本的には、国家の理念の展開なのである。へ−ゲルにとって、「国家は人倫的理念の現実
性」であり、「自由の実現態」であり、「現存する意志としての神的意志」ですらある。
それゆえ彼自身、次のようにいう。
「国家が存在するということがこの世における神の歩みなのであり、国家の根拠は自己を
意志として現実化する理性の権力である。国家の理念というとき、特殊な国家や特殊な制度
を想い浮ぺてはならない。むしろ理念を、つまりこの現実的な神を、それ自身として考察し
なければならない。」(10)
このようにへ−ゲルにおける国家は、理念的には「現存する神の国」という性格を与えら
れるのであるが、しかしそれはたんに国家についてのヘーゲルの理想像、ユートピアを語っ
たにすぎないものでは決してない。もしそうであるなら、それは彼自身が批判する主観性に
対置させられた単なる空想に逆戻りしてしまう。ヘ−ゲルにおける普遍(実体・神)はいつ
でもその弁証法的論理につらぬかれており、特殊、つまり個別的自己意識(主観)との相互
媒介によって成り立っている。この点が従来のュートピア論と決定的に違う。それゆえ、次
のようにいわれうる。
「国家は、習俗において自らの直接的な実存をもち、個々人の自己意識や知や活動において
自らの媒介された実存をもつ。同様に個々人の自己意識もまた、心術を通して自らの実体的
自由を、自己の本質であるとともに自己の活動の目的と所産であるところの国家のうちにも
つのである。」(11)
個々人の自己意識に媒介され、かつ自己意識がそこにおいて自らの真の自由を見出すよう
な人倫態が、ヘーゲルのいう国家にほかならない。家族において自己意識と普遍的意識との
一体性が直接的に現われたのに対して、国家においてはそれが自己意識に媒介され、いわば
自覚的に現われる。ここにおいては、自己意識と普遍的意識とは国家という全体者の不可欠
の契機として有機的に結合されている。ヘーゲルはこうした国家の機能を、感受性(家族)
と反応性(市民社会)との二つの面を有機的に組織している神経組織(国家)になぞらえて
説明している。感受性と反応性のどちらが欠けても神経組織は十全な機能を果たしえないし、
またこの両者はひとつの神経組織の一契機としてのみ自らの真の意義をもちうるというわけ
である。
こうして、「個々人の最高の義務は、国家の成員であること」であり、「諸個人の便命は、
普遍的生活を営むことにある」と結論づけられる。国家こそ、諸々の倫理的意識や倫理的活
動や倫理的存在とが有機的に集約されていく最高の人倫的存在となり、ここにへ−ゲルの倫
理学は一応の完成をみるのである。
もちろん、こうした国家至上主義ともいえるようなへ−ゲルの倫理思想には、時代的制約
もあり、いろいろな欠点も指摘できるであろうし、また誤解を招きやすい点があることも確
かであろう。そこで最後に、二、三の問題点を挙げて検討することにしたい。
まず最初に考えられる批判は、国家至上主義に対する反発であろう。
へ−ゲルにおいては、個人は国家の体制や諸制度のうちに埋没してしまい、誰も自分の国
家の倫理に反抗したり拒否したりすることはできないということになりはしないか。そして
もし既存の国家の是認しか許されないのであれば、人間の倫理的意識や行動の進歩というも
のもなくなるのではないか。
こうした批判に対しては、しかし容易に答えることができる。なぜなら、こうした批判は
へ−ゲルの国家の理念と既存の特定の国家とを混同しているからである。へ−ゲルの国家は、
マルクスもいうように、「ライソ河のむこう岸にしかないような抽象的な途方もない近代国家
の思想」(14)である。まったくの「抽象的な途方もない」理想国家とは、われわれは考えない
けれども、少なくとも実在の国家でないことだげは確かである。ヘーゲルの主張の要点は、
国家を本質的に考えれば、そして哲学的、倫理学的に考えれば、そういうものであるし、
またそうでなければならない(muessen)というような形で、必然的な論理的帰結を述べた
ものだとおもわれる。したがって実際的には、へ-ゲルにおいても国家に対する反抗も可能で
あるし、「普遍的生活」への努力も要請される。この意味で当然カント的な当為の立場が含
まれていることも間違いない。(15)
次に、ヘーゲルの市民社会論は、初期の資本制社会の先見性に富んだ分析として今なお高
い評価を受けるものであるが、しかしそのなかで取り扱われる人間疎外の問題が、弁証法の
必然的な論理展開としてあまりにも簡単に解消されてしまう感があるのは否定できない。
資本制社会におげる労働が惹き起こす問題性を見事に摘出してみせたのであったが、労働の
本質的な意味としての「主観性を陶冶する自己形成」の面が強調される結果、労働による
自己疎外は、「福祉行政」や「職業団体」を通して国家の中に解消されてしまう。ここには
多分に、B・ラッセルのいうように、「ヘーゲルの態度は、十九世紀後半の科学的楽天主義
と少なからず結びついたもので、当時は、あらゆることに対する解答が間近に迫っていると
考えぬ人はなかった」(16)といわれるような時代的背景を考えることができるかもしれない。
しかしそれにもかかわらず、ヘーゲルが倫理思想史の上に残した功績は大きいといわなけれ
ばならない。
何よりもまずヘーゲルの倫埋学は、倫理の問題をたんに人間の内面性の問題として考える
だけではなく、それと同時に、いやそれ以上に社会的関係の場において、具体的、現実的状
況とのかかわりの場において考えることの重要性を教えてくれる。へ−ゲルが倫理の客観性
を問題にしたこと、そして彼なりにひとつの客観的社会倫理学を構築したこと、さらにそれ
が後の倫理学の発展の転換点になったことを思えば、われわれは決してへ−ゲルの倫理学を
国家至上主義として過少評価してはならないだろう。
事実、ヘ−ゲルの死後わずか数年で、はやくも二人の思想家、マルクスとキルケゴールに
よって彼の倫理学はニつの対照的な方向へと批判的に転換されるのである。前者はヘーゲル
の弁証法に根強く残る理念性を払拭し、徹底的に客観性を追究する方向においてあり、後者
は逆に主観性を徹底的に追究する方向においてあるが、しかしともに理念性を排し、人間存
在の具体的現実的状況を重視する点では共通している。つまり、「両者は、ヘーゲルが人間
の現実的な実存を、実現しうるものとみなされた精神化によって見落としているといって非
難する点で、一致している」(17)のである。
この二人の思想家の二つの方向が、それぞれ現代においてなお広範な思想的影響力を保持
しえているマルクス主義と実存哲学の哲学・倫理思想へと展開していくことは、いまさらい
うまでもない。


(1)G.W.F.Hegel:Grundlinien der Philosophie des Rechts, Werke in 20 Bde.7.Suhrkamp
Verlag.S.30. 以下、「法哲学」の引用は、すべて本書による。
(2)Ibid.,S.46.
(3)カント『実践理性批判』深作守文訳、カント全集7(理想社)177頁。
(4)前掲書、181頁。(5)Hegel;op.cit.,S.253.
(6)Ibid.,S.292. (7)Ibid.,S.294.
(8)Ibid.,S.339.なお、岩崎武雄訳書「世界の名著35」(中央公論社)の415頁の訳註 (5)
を参照。
(9)Ibid.,S343. (10)Ibid.,S.403.
(11)Ibid.,S.398. (12)Ibid.,S.399,S.411.
(13)W・ウオルシュ「ヘ−ゲル倫理学」田中芳美訳(法律文化社、昭和50年)87頁。
以下「人倫の批判」を参照。彼は、ヘ−ゲルが最終的には倫理学を社会学に解消して
しまったと批判するが、これはヘ−ゲルの思想がいつでも全体的な歴史性、神の摂理へと集約
されていくことからくる外観的な印象であり、社会学への解消ではなく、社会倫理学への転換
と考える方が妥当である。
(14)K・マルクス「ヘ−ゲル批判」大内兵衛・向坂逸郎監修、マルクス・エンゲルス選集1
(新潮社、昭和40年)40頁。なお、マルクスはヘ−ゲルの国家理念の抽象性は当時のドイツ
の現実の後進性を反映したもので、この後進性はヘ−ゲルのように理念的にでもなく、実践的に
現実を変革することによって打破しなければならない、という。この意味で、ヘ−ゲルによって
社会倫理学へと転換された倫理学は、さらにマルクスにより、「実践的社会倫理思想」へと変換
されたといえる。
(15)例えば、第260節の追加に「・・・でなければならない(muessen)」という形で何度も出て
くるように、論理的必然の形をとった当為がへ−ゲルにもある。
(16)バ−トランド・ラッセル『図説・西洋哲学思想史−西洋の知恵(下)』東宮隆訳
(社会思想社、昭和52年)157頁。
(17)Iring・Fetscher:Hegel・・Groesse und Grenzen,Kohlhammer,Urban-Taschenbuecher Reihe,
80,S.31. 尚、邦訳I・フェッチャ−『ヘ−ゲル・・その偉大さと限界』座小田豊、加藤尚武訳
(理想社、昭和53年)48頁参照。

参考文献
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波全書、昭和54年)
金子武蔵『ヘーゲルの国家観』(岩波書店、昭和46年)
中埜肇『ヘーゲル哲学の基本構造』(以文社、昭和54年)



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