永島慎二

フ−テン

築摩書房:ちくま文庫(全一巻1988年9月)
初出は1967年4月より1970年7月まで「COM・プレイコミック・ガロ」に掲載。
1972年6月に青林堂から単行本として刊行された。


この作品は、「漫画家残酷物語」の続編ともいうべき作品。後者が1960年代前半
に描かれたもので、「フ−テン」も同じく1960年代の後半の同じ新宿を舞台に描
かれた「黄色い涙」のシリ−ズである。従って、副題に「青春残酷物語」とある。
「フ−テン」というと、私たちの世代の多くの人は、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」
を想い出すのだが、これはいわば「年甲斐もなく、若い女の性の魅力に取り憑かれた
色気違いの老人」を通して芸術至上主義の境地を表現した谷崎純文学の一つだが、
60年代後半に新宿界隈に出現したアウトサイダ−たちが、何故「フ−テン」と呼ばれ
たのか、その経緯はよく分からない.その言葉がマスコミの話題になるようになったの
は、多分1967年(昭和42年)頃からのことで、漢字の「瘋癲」でなく、カタカナ
の「フ−テン」であったところに当時の時代背景が感じられる。文字通りに解すれば、
それは「狂人」の意味であるから、「社会からドロップアウトした狂った連中」と
いった批判的なニュアンスが込められた言葉であるが、同時にそれは単なる「狂った
連中」の意味ではなく、既成の体制や価値観に自ら背を向けた抵抗者ないし反抗者と
いった肯定的な意味も込められていたように思う。少なくとも「フ−テン」と呼ばれ
ていた人たち自身は、積極的、消極的の程度の差はあっても、自分たちのことを「既
成の体制や価値観に対する抵抗者・反抗者」といった意識を持っていたはずである。

それは、ちょうどアメリカにおけるベトナム反戦運動の高まりの中で、「愛と平和」
を叫ぶヒッピ−(hippie)たちの存在が社会的注目を浴びてきたことと無関係ではな
かったように思う。アメリカがベトナム戦争に本格的に介入し、「北爆」に踏み切っ
たのが1965年2月のことで、以来アメリカはベトコン(ベトナム解放戦線)のゲ
リラ戦術に悩まされ、戦死者が日増しに増える中、アメリカ本国では次第に若者たち
を中心に厭戦気分が高まっていった。彼らは、徴兵拒否や大掛かりな反戦集会や「ラ
ブ・イン」といった行動において、あるいはドラッグや麻薬の世界に、あるいは東洋
的なヨ−ガや禅などの宗教的世界に逃避する行動において、既成の価値観に対する反
抗を表現した。そうした若者たちの中で、定職をもたず、サイケデリックな服や音楽
を好み、放浪したり、集団生活をしたりした一群の若者たちを、世間はヒッピ−と呼
んだが、「フ−テン」はそうしたヒッピ−の影響を少なからず受けていたように思わ
れる。もちろん「フ−テン」と呼ばれる人たちの中にも、このマンガにも登場するよ
うに色々な人たちがいたであろう。例えば、芸術家や音楽家を目指す若者たちや、政
治運動くずれの若者たちや、家出した若者たちや、今で言うフリ−タ−や、あるいは
失業者たちもいたであろう。要は、新宿界隈のジャズ喫茶や駅前広場などに昼間から
たむろし、ドラッグの世界に遊び、芸術論や文学論を戦わせ、反動の既成体制を批判
し、革命の必要を訴えるなどといった若者たち、世間の目から見たら浮浪者然の生活
を送っているように見えた一群の人たちを、「フ−テン」と呼んだということである。

当時、日本は高度経済成長の進行中であり、1964年に初めて新幹線が走り、東
京オリンピックが開かれ、66年には21万トンの世界最大のマンモスタンカ−「出
光丸」が進水、67年には自動車保有台数が1000万を越え、68年には高層ビル
時代の幕開けを告げる霞ヶ関ビルが完成、東京府中での「白バイ男3億円強奪事件」
が発生、69年には東名高速道路が全線開通、70年には大阪で万国博覧会が開かれ、
およそ6千400万人の空前の入場者を集めたこのイベントは日本の大企業が先端技
術を競って展示、内外に「経済大国日本」を印象づけた。
ところが、こうした華やかな出来事の裏で、そこには同時に様々な問題が同時進行
していたこともまた確かである。世界的な問題は、何といってもベトナム戦争であっ
たが、中国では1966年頃「文化大革命」真っ盛りであり、67年にはイスラエル
とエジプトの間で第3次中東戦争が勃発、68年にはパリで「5月革命」、フランス
の学生たちが「管理社会」に対する反乱を組織、69年にはアメリカのウッドストッ
クでは3日間にわたり40万人の若者たちが、「ロックとドラッグと平和」に熱狂す
る集会が開かれた。

一方、日本でも、そうした世界の動きに連動するかのように、次々と問題が噴出し
ている。1965年に新潟県の阿賀野川流域で「第2水俣病」が発生していることが
明らかにされ、日韓条約の強行採決に対する大規模な反対運動があり、67年には
「四日市公害訴訟」が提訴、佐藤首相の東南アジア歴訪を巡って、羽田では学生
2500人と警官隊2000人とが衝突を繰り返し、警察側発表では、学生1人が
死亡、警官646人、学生17人が重軽傷を負い、警備車7台が放火され炎上した。
続く68年には、日大全共闘が大学当局と徹夜の学内民主化を求める団交を行うも、
大学側は機動隊導入による指導者逮捕、ロックアウトといった強行策をもって応え
た。10月には新宿で、内乱さながらの騒乱事件発生、これは「国際反戦デ−」の
デモ隊が新宿駅周辺で警官隊と衝突、乱闘を繰り返し、駅舎や信号機などが破壊され、
警備車への放火、流血の惨事となったもので、この事件には「騒乱罪」が適用される
ことになった。続く69年の1月には、東大紛争の最大の山場となった「安田講堂の
攻防」が2日間にわたって繰り広げられ、この模様はテレビ中継され、後の日本赤軍
による「浅間山荘事件」、さらには近年の「湾岸戦争」といったように戦闘や戦争そ
のものが一種のショウ化されるという映像時代の幕開けを象徴するものであった。

こうした華やかな経済成長とその歪みから生じる対立・抗争の噴出の攻めぎあいか
ら弾き出されるかのように新宿のジャズ喫茶や路頭にたむろした一群の人々が「フ−
テン」であったように思われる。彼らの多くは、私自身の当時の体験と見聞から言え
ば、経済成長を強引に推し進める体制側にも、それに反抗する反体制的な政治運動に
も積極的に組することの出来ない、むしろ内向的な芸術家タイプ、あるいは内省的な
哲学者タイプの人々であったように思われる。「フ−テン」から私が連想するのは、
新宿東口にあった「風月堂」という喫茶店、歌舞伎町にあったジャズ喫茶や歌声喫茶
であり、アングラ(アンダ−グラウンド劇場)の象徴であった唐十郎の「状況劇場」
であり、フランスの実存主義者サルトルとボ−ボワ−ルの来日である。
「風月堂」(「電脳・風月堂」支配人・エモリ氏の詳細な解説あり)
では、ベレ−帽や長髪の芸術家や作家たちが、あるいはその卵たちが口角泡を飛ばすが
風情で熱い議論を戦わせていたし(その様子は、このマンガの110頁と111頁に
象徴的に描かれている)、新宿花園神社の境内で唐十郎の主宰するアングラ劇団が、
紅テントを張って公演を始めたのが、1967年(昭和42年)の夏のことであった。
サルトルは、「嘔吐」や「自由への道」などの作品で知られる現代フランスを代表
する哲学者・作家であり、その「宿命としての自由」を説く実存主義思想は、当時の
体制や既成の価値観を批判する人々の心強い思想的基盤たりえたし、「第二の性」に
おいて女性の精神的自立と解放を訴えたボ−ボワ−ルは、女性解放運動の象徴的存在
であった。1966年9月のこの二人の世界的な思想家の来日が、日本の多くの知識
人や若者たちに大きな刺激を与えたことは間違いない。二人は、約1カ月ほど日本に
滞在し、各地で講演を行ったが、私自身、早稲田の大隈講堂で彼の講演を聴いた超満
員の聴衆の中の一人であった。

永島慎二のマンガには、そうした時代の雰囲気が色濃く反映されている。そこには
華やかな生活も、表立った政治運動も、肩肘張った思想の主張もないけれども、人間
の生き様を深く、静かに見つめる視点がある。このマンガに登場するフ−テンたちは、
一様に心優しき連中であり、社会的地位や名誉や世間体といった見せかけの立派な衣
を着て窮屈な生活を送るよりも、貧しくぼろは着てても自由に、自分の気持ちに出来
るだけ忠実に生きようとする連中である。しかし逆に、そうであろうとすればするほ
ど、彼らの存在は、秩序と発展を追い求める既成の社会体制とその価値観から取り残
され、はぐれ者にならざるをえないというのが現実であろう。従って、彼らの生活と
心情は、現実にはこのマンガに描かれている以上に、残酷で悲しいものであるはずな
のだが、そして作者がこのマンガに「青春残酷物語」と名付けた理由もそこにあるは
ずなのだが、奇妙なことにこのマンガにはそうした「悲しさ」や「残酷さ」はどこに
もない。例え、仲間の一人が車に刎ねられて死んでも(第1部・春の章、No.1)、
あるいはまた作者の分身と思われるダンさんこと長暇貧治が「人間の底をとうとうと
流れる悲しさ」
に身を浸していようと(60頁)、どこか明るいのである。この明るさ
はどこから来るのだろうか?
それは、何よりもまず作者の人間観ないし人生観から来るものである。つまり、作
者は「人間の悲しさ」に共鳴したところから人間や人生を眺めているわけであるから、
「悲しさ」はすでに肯定されてしまっているのである。言い換えれば、「人間が悲し
いものである」ことは、「人間が人間であることの本質」として肯定されているので
あるから、「悲しい」ことはいつでもすでに「人間的である」ことを意味する。だか
ら作者の関心は、人間が「人間的に生きる」ことを描くことにあるので、どのスト−
リ−を読んでも、全体としては「明るい」のである。作者自身、ダンさんに次のよう
に語らせている。

「おれはその悲しい人間の…長い長い友だちになれるような、そんなまんがが描きた
いんだ…だれにでも愛される新宿の街みてえなまんがをな」

(夏の章No.4、245頁)


「悲しい人間の友だちになれるようなまんが」は、基本的に「悲しい」マンガで
あってはならないだろう。「悲しい」からといって、何をやる気もなく、人生を悲観
したり、ヤケになったりする人間やそうしたスト−リ−を描いたのでは、「だれにで
も愛される」わけがない。「フ−テン」が基本的に「明るい」マンガである理由は、
そこにある。その意味では、「青春残酷物語」というサブタイトルは、作者の一種の
逆説である。

(注:1965年から70年にかけての年表的記述は、講談社版「日本全史(ジャパン
・クロニック)」(1995)を参照した。)


E-mail:moon@wing.ncc.u-tokai.ac.jp

(読んだよ、というメッセ−ジだけでも頂ければ幸いです)



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