「誇りをもって生きる」

 心の元気な人は、病にあっても周りの人を元気付けている。介護する人が、病人や身障者に励まされるとよく聞く。これはなぜなのだろう。心が快活であれば、どんな状況であろうとパワーがあるということだろう。快活ということは躍動していること、働いていることである。

ところがとかく人は、数字でものを量ろうとする。それはお金を多く持っているとか、地位や名誉があるというものである。しかし、心が働くという時、そのようなことに規定されるわけではない。うれしいから笑う、悲しいから泣くという尺度とも少し違う。それらも所有しているものに依存している場合があるからである。そう、生きていることに価値を見出しているといえる。

 生きているから価値がある、これに尽きる。身障者はこれを主張できる立場にある。お金をもらって障害を負っているわけではない。身障者であることに地位も名誉もない。このないという状態が大きな主張となる。生きるには、これこれが絶対に必要だといえる立場、これに勝るパワーはない。

介護を受けている身障者からすると、たしかに介護者に支えられて生きなければならない弱さがある。これは尊厳に制限がかかることを免れない。もしも介護を受けている時、介護者に逃げられたら死活問題である。こうしたことから、身障者には誇りが持ちにくいという考えも生まれる。しかしながら、これは外部から見てそうなのであり、現実は少し違う。

 実は身障者のプライドは、はたから見ているよりはるかに高い。一つのことに集中する癖なのか、能力なのか、専門知識に深い。これにプライドをかけて生きがいにしているとも言える。ところがこれには、井の中のかわづ的要素があり、違った見方をすると、深いけれど、狭いという弱点がある。ということは、数字でものを量ろうとする考えがここにも見られるわけである。

本当は裸の自分をさらけ出してこそ、強さが発揮されることを身障者自信もまた知らなければならない。困っているから、助けて欲しい…この言葉を真に発することができるなら、それが真実なのである。とはいえ、残念ながら、困ってはいない。これが実態である。家族がいる、社会福祉に頼ればいい、それで生活は安寧ではないか、そう感じてしまうことがあり、これが身障者の強さを奪ってしまい、力を削いでしまっている。確かにそれらサポートは便利なものであり、なくてはならないものかもしれず、身障者の生活を豊かにするものである。

 数字でものを量ろうとする考えは、ものの上下を生み出す。お金、地位、名誉、所有物、社会福祉制度、知識、これらは大切なものだけれど、命を支え、豊かにするものであり、命そのものではない。つまり持てる者と持てない者が出るわけで、絶対のものではない。命そのものが発する言葉、それが発せられるとき、大きな働きをする。

 それは発する側にも、謙虚さを求めるはずである。つまり、病であっても高慢な人が発する言葉は癒しにならない。それは物質に固執しているからである。物に由来することというのは、心を動かさない。裸の自分をさらけ出す時必要なことは相手への思いやり、感謝であろう。こうして発せられる言葉というのは、誇り高いものとなり、自分を高め、癒し、相手をも慰め、元気付けることになるように思う。

(‘07/01/18)

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