日常生活動作(ADL)は、長い間、身障者に必要とされてきた訓練であった。服を着る、食事をする、排泄をする、風呂に入るなどがその内容である。この動作の確保はまさに死活問題になる。できなければ生活はおろか生命維持さえも危うくなるからである。ひとりで家にいると実感することだが、ともかく、トイレにいけないと、2時間でさえ耐えられない場合がある。上肢がうまく動かない日など、ズボン・下着を下ろせないだけでこの危機に見舞われる。この苦しみは非常に大きい。人間の必要としていることがまず、排泄であることは否めない。次に来るのが食事である。水分はストローなどの用具を用いて解決しうるが、その準備がない場合、つまり、容器に水分を注いである、ストローがあるという条件にない場合は我慢しなければならない。固形物は口に持っていくまでがまた難儀である。いっそうのこと、口を持っていったほうがたやすいかもしれない。そう、いつも思うことだが、口に運んでくれる口と、食べる口と二つあればいいと思う。そして、寒さ・暑さに対応するためには、衣服の着脱が必要になってくる。これは非常に時間を要することであり、上肢の麻痺の場合、腕を通す、ボタンをはめるといったことはもちろん、靴下を履く、シャツをズボンに入れるといった上肢から離れた部分の動作はより難しくなる。さらに入浴については衣類の着脱を含む以上に、身体を洗う、湯船に浸かり、上がってくる、身体を拭くといった困難な動作が含まれる。これら日常生活動作は、行わなくてはならないことながら、大変な時間を要する。つまり、身障者が朝起きて、着替え、食事を取る、排泄をするという当たり前のことは、もし当人だけの力に依存するならば、一日の大部分の時間を費やしてしまうかもしれない。それは、ただ着替えて、食事をするだけの毎日を、「努力」し続けなければならないわけである。
そこで、考え方として、その動作を誰かに手伝ってもらうということが挙げられる。生活の質(QOL)をサポートしてくれるシステムがなければ、身障者は、人間として楽しむこと、外部との交わり、社会参加が不可能になっている。ここで、必要とされるのは、「人の力」である。それは、家族であり、公的な支援による介助といえる。朝起きて、食事したら、昼になり、昼食を取ったら、夕方になったというのでは、何もできない。この生活の質をサポートされて、はじめて、人並みの生活ができるというわけである。つまり、人間というときに、他の人との関わりがあってしかるべきであり、一人で生きることは不可能である。これは、ADLのレベルでもいえることである(食事を作る、材料を買ってくる、衣類をそろえるなど…)が、しかし、人間が社会的存在であることを考える時、殊に重要となり、その人生に大きく関係してくることである。たとえば、労働者として身障者が行動するとき、時間の確保は重要となってくる。人と話したり、余暇を過ごすにも、時間の確保が必要となる。そう、この時間の確保こそ、第一義的に、「人間らしい」生活を実現するものである。ADLは、ただ自分のためだけにあったことであるが、それは身障者の生活を拘束するものとなり得る。その努力の時間をさらに、自分のために、用いることを可能にするのが、QOLのサポートといえる。
これは、身障者の行動に自由を与えるものである。短時間で身の回りのことがなされ、時間が生まれ、そこに社会的活動の実現も可能となってくる。外に出て、買い物をし、遊びに行き、講演会など、知的活動に広がりが見られることになる。交通機関を使えば、今まで見たこともない経験を味わえるのである。外に出るという行為は、家の中の世界とは違い違った考えの人と出会うチャンスなのである。
しかしながら、身体というものは使わなければ、等しく誰もが衰えていくものである。ということは、家族や、他の介助者の手を借りるということは、それだけ、身障者の身体的能力を削いでいくことになりかねない。排泄介助、食事介助、入浴介助を受ける場合、このことを覚悟しなければならない。つまり、QOLのサポートというのは、生活の質を高めるが、身障者のすでに持っていたADL能力に制限を加えかねないのである。それで、ここで均衡を保たなければならないだろう。できていたことまで、介助者に任せると、それさえもできなくなってしまうのである。ADLは、保たなければならない。なぜなら、介助者は常にそばにいるわけではないからである。ADLに没頭するのも、「人間らしさ」を失うのと同様に、QOLサポートに依存してしまうのも、生活の崩壊を招き、主体性を失うことになりかねない。いつも自分の意思、自分の行動でありたいものである。
('07/01/08)
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