「「私が生き続けられているのは両親の献身的な世話のおかげ」」


 梅雨に入ると毎年思い起こすことがあります。私が8ヶ月の早産で産まれ、一卵性双子児であったことは何年か前に述べました。そう、今で言う、「極低出体重児」でした。あまりに小さくて、ねずみのようであったと聞いています。もう片方の赤ん坊は私より大きかったらしいのですが、残念ながら産まれて七時間で亡くなりました。その子を父は泣きながら埋葬したと聞いています。母は何度か流産していて、その後のことでしたので、その悲しみは幾ばかりだったかと思います。だから、私の生まれた日は、同時に、私の両親にとっては我が子の命日なのです。私は本当におぼつかない存在でしたが、両親の全く献身的な世話のおかげで生きつづけられました。私が産まれた昭和30年はまだ医療も発達していない時代です。「20歳まで生きられないだろう」と、医師は言いました。私は母乳を吸う力もなかったので、乳をガーゼに含ませて口に持ってきて呑ませたといいます。化学畑の父が温度計を借りてきて、私の傍らに置いて体温を診ていてくれたとの話をよく聞きます。今年もまた新たに同じ遺伝子を持って亡くなったもう片方の子のことを思い、その子の分まで元気に生きようと思うのです。

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