「悲劇は喜劇」


 人生には嬉しいことも悲しいこともある。平坦な道のりではない。山があれば、谷もある。川が流れ潤うこともあれば、砂漠を歩かなければならないこともある。嬉しい時は喜べばいい。とはいえ、悲しい時はどうしたらいいだろう。悲しみの主人公になっていてはいけないかもしれない。起こっていることを外から見るのはどうだろう。悲しみの主人公を見るのだ。一般的に、笑いは悲しい主人公を眺めることだ。多くの場合、落語でも、喜劇でも、何か失敗したり、困ったり、あるいは傷ついたりする主人公を笑っている。他人の不幸は蜜の味、なのだ。では、悲しい主人公の不幸に付け込んで笑ってしまおうではないか。その主人公はだれなのか。それは自分なのである。ならば、だれをさげすむわけでもなく、傷つけるわけでもない。悲しみの主人公を笑ってしまおう。そうすれば、乗り越えられないと思っていたことも、悲しみの自分をかたわらに眺めて、通り過ぎてしまえるように思える。いつも自分を笑えるなら。どんな悲しいこと、苦しいことも乗り越えられるだろう。悲劇は喜劇なのである。

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