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a Frog in the Ocean Web Site

井蛙(せいあ)、大海(たいかい)を泳(およ)ぐ。

ここは、國語・日本語の問題について考へる、コーナーでございます。

本サイトの、日本語表記にたいする考へ方



 
本ウェブサイトでは、正字・正假名遣(舊字・舊假名遣)をもって表記します。ここでは、なぜわたくしが、一見むつ かしくて古くさい表記法を、敢へて採用してゐるのかを、御説明いたします。
わかりやすさや、みなさんへの情報傳達のしやすさのみを考へれば、常用漢字・現代假名遣で表記すればよいのです。その方が、みなさん樂に讀んでいただけますから、できればそのやうにしたい。しかしながら、次のいくつかの理由により、さうすることができません。その理由を御讀みくださり、納得せられんことを、希望いたします。


【理由の目次】

  言語表記の規範は、過去にもとめるほかはないから。

  言語表記の規範として適切なのは、表意主義のみであって、表音主義ではないから。

  【假名遣】歴史的假名遣の方が、現代假名遣よりも、文法的整合性があるから。

  【漢字】常用漢字より正漢字の方が、文字の有機的統一が保たれてゐるから。 

  言語の公權力的な改變は、文化的斷絶をまねくので、そもそも避けるべきであるから。 


  言語表記の規範は、過去にもとめるほかはないから。 


  すべての言語は、規範をもってをります。ルールと言ってもよいでせう。言語を表記するときは、規範にしたがって表記しなければなりません。單語のつづり方とか文法とかが、その規範にあたります。

言語にかぎらず、ひとの行動には、かならず規範の問題がついてまはります。それでは、その規範がどこから生じるのでせうか? それは、過去からのみ生じます。この點は、すこし考へれば、すぐにおわかりになります。

まづ、未來から、規範が生じることはありえませんね。

たとへば、昔、わが國でも、一夫多妻制がおこなはれた時代がございました。一夫多妻制とは、ひとりの夫に多くの妻(正室一名・側室數名程度)が嫁ぐといふ婚姻形態です。その時代は、それが倫理に反することであるとはみなされませんでした。「不貞行爲である」と、夫が追及されることはなかったのです。

ひるがへって、現代はどうでせうか? 現代においては、一夫多妻制は容認されません。制度上、重婚は犯罪ですし(刑法184條)、倫理に反する行爲として社會的制裁をうけます。

一夫多妻制がおこなはれた時代を《現在》とすると、現代は《未來》にあたります。さて、一夫多妻制時代の規範は、現代の規範から生じたのでせうか? そんなことはありえないと、みなさんおわかりくださるとおもひます。いまだ到來してゐない時點から、規範がわいてくることはないのです。

  次に、現在から、規範は生じるのでせうか? 現在とは、《いま、この瞬間》といふことです。《いま、この瞬間》といふ、點の連續體が、現在です。いまこの瞬間に、規範が生じては消え、生じては消えしてゐるのでせうか? これもありえないことですね。そんなに頻繁に、規範が生滅されてはたまりません。先月よしとされた行爲が、今月は禁止される。昨日よしとされたことが、今日は禁止になる。今朝よしと言はれたことが、今夜には禁止される。このやうな状態になったら、われわれは安心して暮らすことができません。じっさい、世の中はそんなことにはならないわけです。もっと安定してゐます。現在から規範が生まれることは、ありえません。

  時間軸は、《過去・現在・未來》から成りたちます。現在・未來から規範が生じない以上、規範は過去から生じるよりほかはありません。消去法的論法なので、やや齒切れはわるうございますが、納得をいただけるものとおもひます。

  規範の一種たる法律も、過去の出來事をふまへて、制定されます。

「過去において、かくかくしかじかのことが起きた。それを防止するため、この法律を制定する。」

「過去において、このやうに良くない状況が出現した。以後、望ましい状況に誘導するため、この法律を制定する。」

といふ具合です。

  規範は過去からのみ生じると、結論づけられます。 

  なほ、補足ながら、このやうな疑問をもった方がをられるのではないでせうか。

「規範が過去から生じるといふならば、日本においてはながく一夫多妻制であったのだから、その歴史を反映して、現代も一夫多妻制のままであったはずではないか。なぜさうならなかったのか?」

わたくしは婚姻制度の專門家ではありませんし、そもそも本稿は婚姻制度史を語るものではありませんので、深入りはしたくありません。わたくしの推測を申上げれば、その理由はたぶん、ふたつあります。

@一夫多妻制のもとであっても、一夫一妻制が望ましいと潛在的には考へられてゐた。その潛在してゐた考へが、時代とともに表面化・一般化して、一夫一妻制に移行したから。そのやうに考へれば、現代の一夫一妻といふ規範は、やはり過去から生じたと判定しえます。じっさい、昔も庶民は一夫一妻でしたし、一夫多妻の家であっても正室はかならず一名でした。なかには、側室をおくことに抵抗感があった者もゐたやうです。過去にも一夫一妻の規範の素地があったと、判斷せざるをえません。

A明治維新後、西洋化をおしすすめる必要にかられた當時の日本人は、西洋的でない一夫多妻制を、なるべくはやく打破しなければならなかったから。見方をかへれば、一夫一妻といふ西洋の規範をとりいれたといふことです。そして、西洋のその規範も、やはり過去から生じたもの。《規範は、過去から生じる》といふ命題には反しません。餘談ながら、イスラム教諸國がいまだに一夫多妻制を維持するのは、西洋の規範をとりいれなかったからであると、おもはれます。

  閑話休題。話を言語に戻します。これまでの議論をふまへれば、言語表記の規範も、過去からのみ生じると判斷されます。

「犬は、なぜ《犬》と書くの?」

「歩くといふ行爲は、なぜ《歩く》と書くの?」

幼い子に、さう訊かれたら、いかに御答へなさいますか?

「昔から、さう書いてきたからだよ。」

と答へるほかは、ないのではありませんか。語源から説明するといふ手段もありますが、それとて萬能ではありません。そもそも、語源論じたい、

「昔がかうだったから、今もかう書く。」

といふ議論です。

《言語規範は、過去からのみ生じる》ことが、これで論證されました。

  さて、なぜ、まはりくどい議論を延々としてきたかといへば、さうすることによって、《現代表記》といふ發想そのものが誤りであることを、あぶり出すためです。讀者諸賢は、すでにおわかりでございませう。《言語表記の規範は、過去からのみ生ずる》にもかかはらず、《現代》表記・《現代》假名遣とはなにごとか、といふ根源的な疑惑です。

  《現代》假名遣にたいして、《歴史的》假名遣がございますが、すでに明らかなごとく、そもそも言語表記に《現代》はありえません。あるのは、過去表記・歴史的表記のみです。英語にしても、すべては歴史的つづり法なのです。たとへば、「ナイト」と發音する單語を、nightknightと書きわけます。むろん、ghkは發音しません。發音しなくなって久しいのですが、いまだにghkをカットせず、そのまま表記してゐます。歴史的にさう書いてきたから、或いは、語源的にみてさう書くことが必要だからです。《現代》英語表記などといふものはありません。あるのは、《歴史的》英語表記・《歴史的》フランス語表記・《歴史的》ドイツ語表記・《歴史的》日本語表記、といふわけです。《現代》日本語表記はありえないのです。

  わたくしは、つねづね感じます。日本人は、英語をつづるとき、throughとかthoughとかthoroughとかthoughtとか、發音しないアルファベット・發音原則に反するアルファベットを書きわけて平然としてゐるくせに、こと母國語たる日本語になると、たとへば、

「けふは暑くなりさうですね。」

といふ文章にアレルギーをおこし、拒否感をあらはにします。この《態度のタブル・スタンダード》は、いったい何なのでせう。難易度にもとづく素直な反應であるなら、納得もいたします。が、どうひいき目にみても、日本語より英語のつづりの方が、はるかに難しいのです。英語のつづりの難しさは世界的に有名で、英米人でさへ、正しくつづることが困難であるとききます。それに比ぶれば、正字正假名遣の難易度は、ものの數ではありません。

  誤解されないやうに、ここで申上げますが、わたくしは、戰前生まれではありません。つまり、學校教育で、正字正假名遣を教はった世代ではない、といふことです。やや長じてから、正字正假名遣を獨學いたしました。その經驗と、英語をまなんだ經驗とをてらしあはせて、

「正字正假名遣の學習は、さほど難しくない。」

と斷言できます。もちろん、すぐには習得できませんし、一通り習得したあとも、わからない語があったり間違へてしまったりはします。が、それは、ほかの言語とて同じこと。むしろ、英語の《つづりかたと發音との深刻な乖離》の方が、はるかに難解です。

  話が脇道にそれました。わたくしが申上げたいのは、

「正字正假名遣を毛嫌ひするのは、《食はず嫌ひ》ではありませんか。」

といふことです。御試しになれば、ぞんがい好きになるやもしれません。

 

  本項目の結論は、

「言語表記のルールに、《現代表記》はありえない。あるのは《歴史的表記》のみ。」

といふ、單純明快な事實です。

(2012年6月29日 掲載)