バスで、伊賀焼の里・長谷園まで走る。
2019.12.05~07
伊賀焼は三重県伊賀市で焼かれている陶器。中世から始まったといわれている古陶である。武士の間で茶の湯が盛んになった安土桃山時代の伊賀上野の藩主が茶の湯や陶芸をよく知る人物だったことから、茶の湯の陶器として伊賀焼の名が全国に広まった。江戸時代になると小堀遠州の指導で遠州伊賀と呼ばれる薄い陶器が焼かれるようになった。
ツクは陶製の丸棒、エブタは陶製の板でこれらを組み合わせて窯内に棚を造り、焼成する製品を並べる。エンゴロは炎が直接当たらないように大型の瓶などを中に入れて焼く窯道具。ひびが入ったりしたものが垣などの材料として転用された。何度も火にさらされるため独特の色合いがある。
常滑焼・古常滑と呼ばれる初期のものは歴史が古く、六古窯の中での最古で最大規模である。全国各地の遺跡から数多く発見されている。
急須・急須産地ならではの知恵が凝縮され、淹れやすく、便利な急須がいろいろなデザインで作られている。
身近な製品・戦後はインフラ整備に欠かせない土管や衛生陶器の生産で飛躍的に発展した。タイルや焼酎瓶、鉢、食器置物など幅広いニーズにこたえてきた。
招き猫・二頭身のふっくらした体つきで小判を抱えた招き猫は常滑系と呼ばれる。散歩コースにある巨大招き猫は大人気である。
東京から来るツアーと豊橋駅で合流し、バスに乗り常滑に向かう。総勢92名、2台のバスに分乗して出発する。
常滑焼
美濃焼は岐阜県東濃地方の跨る地域で製作される陶磁器。東濃地方は日本最大の陶磁器生産拠点であり、中でも土岐市が陶磁器生産日本一の町である。美濃焼の代表は志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒で、人間国宝の作家も多数輩出している。
常滑焼は愛知県常滑市を中心として、その周辺を含む知多半島で焼かれる日本6古窯のひとつ。平安時代、鎌倉時代、江戸時代と焼かれていたが、明治以降は土管が主力商品であった。明治末期に入ると、タイルを中心とする建築陶器の生産が開始される。近代の常滑焼は連房式登り窯、大釜で焼かれていたが、その後石炭釜が普及する。その後ガス窯や電気釜の普及で、量産品はトンネル釜で作られるようになり、その役割を終えた。
瀬戸市で最も多く製陶所があった洞町にある。法泉寺付近から東に向かう400mほどの小径である。元々はこの道が洞町のメインストリートだった。かっては陶磁器を積んだ荷車が行き交った。
顔料として使われた鬼板粘土の壁や、登り窯に製品を詰める際に使われた窯道具「ツク」「エブタ」「エンゴロ」などを埋め込んで作られた塀が連なる。
木町オリベストリートを散策する。以前に個人で来たことがある。明治から昭和初期にかけて美濃焼の陶磁器問屋が軒を並べ、多治見の商業の中心として栄えた。「澤千」で鰻の昼食をとる、ここは鰻が有名で、前に来た時も違う店で鰻を食べた。
予定には入っていなかったが「ばんこの里会館」に寄る。
萬古焼は、江戸時代中期に桑名の豪商・沼波弄山が現在の朝日町小向の窯を開いたのが始まり。弄山は自身の作品がいつまでも残るように「萬古」「萬古不易」の印を押した。国内生産第一位、全国シェア80%を相める萬古土鍋。現在もIH対応土鍋、高機密土鍋など時代にあった開発に取り組んでいる。鉄分の多い土を使って還元という方法で焼いた「紫泥急須」が有名。
信楽焼「信楽陶芸村」に移動する。信楽焼は滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる陶器で、日本6古窯のひとつ。一般的にはタヌキの置物で有名である。信楽は付近の丘陵から良質な陶土がでる。伊賀焼と信楽焼は雰囲気が似ているといわれるが、それは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽独特の土味を発揮し、純朴で温かみのある情感は、古琵琶湖層の粘土にある。
土管坂(土管や焼酎瓶が詰まれた常滑ならではの風景。ふるさとの坂30選)
とこなめ招き猫通り(夫婦円満、健康祈願などのご利益が込められた大きな招き猫、道路のり面にはたくさんの猫の置物が並んでいる。)
美濃焼ミュージアムで美濃の代表的な陶芸作家の作品を解説付きで見学する。人間国宝など蓑を代表する作家の茶碗で抹茶を嗜む。
瀬戸に移動して「窯垣の小径」をガイドとともに見学する。
瀬戸焼は愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本6古窯のひとつ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。
16連房登り窯は天保3年(1832)創業から昭和40年代まで稼働していた。かってはこの16窯を焚き上げるのに16~20日を要した。この大きさの窯で現存しているのはここだけである。
陶磁器会館に着いてここからガイドとともに「やきもの散歩道」を歩く。
本業窯は登り窯の一種で、本業製品(陶器)を焼成する窯として、江戸時代後期から使用されている。磁器を焼成する丸窯とともに瀬戸を代表する窯である。この間では昭和54年まで水甕、水鉢、こね鉢、紅鉢などを年に数回焼成していた。
トイレ
風呂
名古屋に戻り、「名古屋コーチン鍋」の夕食をとり、昨日と同じホテルに入った。
この登り窯は昭和9年に築窯された。主に火鉢を焼いた窯で、11の部屋がある。一番下の部屋を火袋といい、初めに火を入れます。窯の中の天井は当時のタヌキと同じ色をしている。世界で唯一「登り窯」を改装したカフェでチーズケーキと紅茶をいただく。大小のタヌキが飾られていたが、生産としては数%とのことでした。 同じ陶芸村のレストランに移動して「近江牛の陶板焼き」の昼食をとる。
信楽焼
特徴は隣の信楽焼と比べると、硬く、厚みがある。焼き物の色や形に変化が現れることを「窯変」といい、この窯変によるビードロというガラス質や焦げ付きの具合、器そのものの力強い形や色が伊賀焼の特徴になっている。
連房式登り窯 (広場に隣接する登り窯は、昭和45年まで実際に使われ、昭和47年に国指定重要文化財になった。現存する日本最古、最大級の登り窯)
登り窯広場、広場には東屋、水琴窟、陶壁 が見られ、展示工房では陶芸教室も楽しめる。
江戸時代から廻船問屋を営んでいた瀧田家。市指定文化財になっている。
壺や土管の塀
曲がりくねった路地を入っていくと今は創業していない昔の工場がある。木造の壁には黒いタールが塗ってある。
バスが止まっている「瀬戸蔵」に戻り、「瀬戸蔵ミュージアム」を見学する。520円が250円で入れた。先ほどのガイドさんが説明をしてくれた。
いろいろな瀬戸の焼き物や生産の道具、瀬戸焼の歴史が展示されている。
窯垣の小径ギャラリー
煙突のある風景(現在では使われなくなった石炭焼成の煙突を見ることができる。)
2日目
これで見学はすべて終わり、「やまさ竹輪」によって、豊橋でツアーと別れ藤枝に帰った。今までは、常滑焼と言えば、朱泥の急須、信楽焼と言えば、たぬきの置物、瀬戸焼と言えば生活雑器、美濃焼と言えば少し厚めのどんぶりや鉢などを思い浮かべていた。伊賀焼に至っては何も知らなかった。
今回ツアーに参加してみて回り、歴史や今の状態を知ることができた。
食器を買う時に今までと違う見方、買い方ができるのではないかと思った。
洞本業窯
親方や職人がここに住み、工場は丘の上にあり、そこに通った。厩もあり、荷物を馬で運んだ。馬の目模様の皿が飾られている。
母屋、別荘は代々長谷家の住居で2001年まで窯元が暮らしていた。
赤松の薪
大正館は大正時代に建てられ、10年前までは実際に事務所として使われていた。電話や金庫などもそのままで大正の雰囲気でコーヒーが飲めるカフェになっている。
名古屋に戻り、享保年間創業の老舗「八百彦本店」で夕食をとり、ホテルに入った。
窯垣の小径資料館
坂を上り下りする細い道を歩き、陶磁器会館に戻った。
3日目