H.27.05.23~24
福井県小浜市にある。暦応2年(1339)に足利尊氏の命を受け諸国に建立した若狭国安国寺である。泰永3年(1344)に炎上したため、若狭守護の大高重成が再興した。寺号は大高重成に由来する。
神照寺は、滋賀県長浜市にあり、真言宗智山派に属する。宇多天皇の師であった本覚大師が同天皇の勅命により寛平七年に創立した。当時は七堂伽藍完備し寺領十町四方を有する巨刹であった。足利尊氏が近江の浅井郡八相山や蒲生野で戦った後、和議のために仮泊したことがある。天正元年小谷城落城の折、信長の兵により焼失する。秀吉は天正6年に、164石を寄進して朱印状を附与した。
芭蕉句碑「名月や 北国日和 定めなき」
本堂(金堂跡)
中門跡
南大門跡
道には「鯖街道起点」の文字が。鯖街道とは、若狭国などの小浜藩領内と京都を結ぶ街道の総称。魚介類を京都に運搬する流通ルートで、主に鯖が多かった。
東京からくるツアーと米原で合流し、待っていたバスに乗り込み、ツアーが始まった。
深沙大将・仏教の守護神の1人。大般若教の16善神の上首として信仰されることが多い。玄奘三蔵がインドへ行く途中、砂漠の中から現れ、玄奘を守護したと伝えられる。姿は、一面2ひ、髑髏の瓔珞を付け、象皮の袴を履く。持ち物は、蛇や戟(げき)を持つ。
午後4時過ぎに宿に入る。夕食までの時間に「小浜の古い街並み」を散策することにした。小浜公園の近くに、かって遊郭として栄えた古い街並み「三丁目街並み」が200m以上残っていて、料亭やお茶屋さんがある。
神照寺
国分寺の大仏
若狭国分寺
不動明王・密教特有の尊格である明王の一尊。シヴァ神の化身ともいわれる。五大明王の一員である。真言宗では、大日如来の脇侍として、天台宗では、在家の本尊として置かれることも多い。
天徳寺
賀茂神社から100m上りつめたところに為生寺の本堂とされる観音堂がある。この本堂に安置されていた千手観音菩薩立像は、本堂後ろのコンクリート製の収蔵庫に安置されている。桧材の一木造りで、頂上仏を除く像高は108,5cm。平安時代中期の作で、重要文化財である。
国分寺は、奈良時代に、聖武天皇の勅願により、天平9年(737)凶作と疫病の流行に悩まされ、神仏の加護を念じて丈六の釈迦像を造らせたのが始まりである。国ごとに設置された国立寺院で、僧寺、尼寺の二寺制をとっていた。昭和17年から49年の発掘調査により、現在の釈迦堂をひとまわり大きくした金堂をはじめ、塔跡、講堂、南大門、中門、参道などが検出された。また境内には径45mの大円墳も出土し、塔跡からは、相輪も出土した。薬師堂には、鎌倉時代の薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来が安置されている。
羽賀寺
2日目
駅前のアーケードにはいってみました。ほとんどの店はシャッターを閉め、2軒の魚屋さんが営業していました。店先には「アマダイ」の干物が干してあります。
常光院・近江小谷城主浅井長政とお市の方の次女、初は京極高次の夫人。大津宰相京極高次は関ヶ原の戦いで家康に味方し、その功績で小浜藩主となった。1609年夫の死去と共に出家し、栄昌尼と名乗る。1630年、ここに槐堂和尚を招き、常光寺を建立した。
(この像は平成2年に小浜市の浜に打ち上げられた。13世紀に中国で製作された古像で、日本にはない香りの強い木で造られ、目にはガラス玉がはめ込まれている。この迦楼羅立像は若狭湾から文化が流入してきた貴重な漂着像と言える。)
「若狭のみほとけ展」を見学する。
行基が彫ったとされる本尊・木造千手観音菩薩立像は、平安中期の作で、桧の一木造。頭上には菩薩の顔が3面あり、そのほかに菩薩面、憤怒面、大笑相面など合わせて21面を抱いている。実際に千本の手が整然と美しく配され、長く秘仏であったため、彩色が残り、黄金色に輝いている。
妙楽寺
(写真)
門を入ると「中川淳庵」の碑があった。(小浜藩医であった中川仙庵の子として江戸で生まれる。前野良沢、杉田玄白と共に、人体解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として発行した。)
「金銅透彫華鬘」はもともと野の花を紐でたばねて仏前に捧げた風習が変化したもの。11枚。仏殿の欄間や梁に掛ける仏具となった。
本堂・重要文化財
最後の、明通寺は、時間が余ったので、予定にはないが拝観することができた。一日目の高成寺の十一面観音を拝観できなかったが、一ヶ寺多く拝観できてよかったです。小浜の街も何回か訪れているが、散策したのははじめてです。駅前はどこの街も同じで、寂しくなっていました。でも、泊まったホテルでは盛大な結婚披露宴が開かれていて、華やかな雰囲気でした。 「日本海肴さかな町」に寄って、米原で皆さんと別れ新幹線で帰りの途につきました。
国宝・三重塔
延暦の昔、この山中に一大ゆずり木があり、その下に不思議な老居士が住んでいた。坂上田村麻呂はある夜、霊夢を感じ、この老居士の命ずるままに、堂塔を創建し、ゆずりの木を切って薬師如来、降三世明王、深沙大正の三体を彫って安置した。
明通寺
杉、桧の群立する境内の奥まった一角から湧出する「瓜割の滝」
厨子の上の掛仏
多聞天像は、四天王の一員で、北方守護神である。武具をまとい、武神として仏を守護する像である。重要文化財。
阿弥陀堂
木造阿弥陀如来坐像は、宇治平等院の如来像に最も近いといわれている。重要文化財。
三仏とも、木造、寄木造り、彩色、玉眼で、鎌倉時代の作。重要文化財に指定されている。
地蔵堂・木造地蔵菩薩坐像(伝恵心僧都作、平安後期作。)
本尊・十一面千手観音は秘仏で、拝見できなかった。平安時代初期9世紀後半頃の作で、若狭地域の千手観音の最古作例として国指定重要文化財に指定されている。(本仏は、昔、遠敷明神の本地佛であったと言われている。平安時代、観音信仰深きこの地の 山伏が霊験を感じ、遠敷より当地へ艱難辛苦をへて遷座した。山の上に青井山堂を建ておおいに参詣者ありと言われた。)
大日如来像
木造不動明王立像(平安中期)県指定文化財。一木彫彩色像。
木造毘沙門天立像(平安時代)重要文化財。毘沙門天は四天王又は十二天のひとつで、北方鎮護の護法天である。一木彫で33cm。
薬師如来坐像・重要文化財
(パンフレットより)
宝物館で、国宝の華籠(けこ)と重要文化財の華鬘(けまん)や仏像を見せていただく。
釈迦如来
阿弥陀如来
樹齢500年のカヤノキ
福井県立若狭歴史博物館
「金銀鍍透彫華籠」は仏教法会の際に、蓮弁をかたどった紙を盛る器のこと。16枚。
木造半肉彫千手観音は平安時代の作で、重要文化財に指定されている。(撮影禁) 漆箔像で、光背に半肉彫の千手観音を浮出している。
長楽寺は、大飯郡おおい町大島にある。飛鳥時代、用明天皇の勅願により、586年に聖徳太子が大島半島に来島し、東村に阿弥陀堂を建立し、1丈6尺の阿弥陀如来を安置された大島最古の寺院である。
降三世明王・明王は人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」とよばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界に波及しないように聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えで民衆を何としても救わんとす慈悲の怒りをもって人びとを目覚めさせようとする仏である。三世界主を三毒と解釈してこれを降伏するから降三世という。 降三世明王は、三面八ぴで、両足で、地に倒れたシヴァとパールヴァティを踏みつけている。降三世とは、「三つの世界を収めたシヴァを下した明王」という意味である。
天徳寺は、元正天皇の養老7年(723)泰澄大師が当地で馬頭観音一躯を刻み、山の岩洞に安置したことによる。村上天皇の天徳元年(957)勅願により、馬頭観音を祀る七間四面の草堂が建立され「天徳寺」の寺号と二十町歩の斎田を賜った。
賀茂神社
円墳の上には「若狭姫神社」が祀られている。
塔跡
羽賀寺は、福井県小浜市羽賀にある高野山真言宗の寺。霊亀2年(716)鳳凰が舞い降りた吉祥を慶び、元正天皇の命により、行基が開山する。朝廷の勅願寺として、盛時には、寺坊18坊を数える。現存する本堂は、日ノ本将軍安倍康季により再建され、今日に至る。鳳凰伝説や天狗伝説の残る寺である。本尊・十一面観世音菩薩は女帝・元正天皇御等身像といわれ行基の作と伝えられる。
長楽寺
毘沙門天、吉祥天、善膩師童子立像は古来秘仏として毘沙門堂の厨子の奥深く安置されてきた。文化庁、県、町の助成により鉄筋コンクリート造りの収蔵庫が建設され、平成元年11月吉日盛大な落成法要が営まれた。
青雲寺は、福井県大飯郡おおい町の西村集落の通称浦底にある。創建は、永長元年(1096)自耕善光和尚が開山、当時は天台宗であった。永正10年(1513)春江永公和尚が中興し、臨済宗相国寺派に転宗する。その後類焼し、大正13年に再建する。
青雲寺
宿に入り、小浜の海の幸をいただく。
丹後街道に沿って「八幡神社」がある。大変立派な神社です。丹後街道とは、越後国・敦賀から若狭国を横断して、丹後国・宮津に通じる街道である。
妙楽寺は、小浜市にある高野山真言宗の寺で、養老3年(719)僧行基の開創にして、延歴16年(797)弘法大師が再興したと伝えられる。若狭における最古の建造物である本堂(重要文化財)は、寄棟造り檜皮葺で、安置される木造千手観音菩薩像は重要文化財に指定されている。(写真禁)、
高成寺
国宝・本堂
重文・薬師如来坐像
重文・降三世明王立像
重文・深沙大将立像
重文・不動明王