暫く歩いていなかったので、JR窓口が朝6時からになっているのを知らなかった。30分ほど待って切符を買い、新幹線を乗り継いで、宇都宮駅に着いた。駅からタクシーで前回バスに乗った地蔵前バス停に着いた。首切り地蔵は宇都宮の刑場跡で、根来衆はここで斬首された。首切り地蔵は根来塚に安置された物。なかをのぞくと、石の地蔵様が祀られている。

2025.12.18~19

orareta.

大谷街道との追分道標には「右江戸海道 左水戸かさま下だて 下づまみち」と刻まれている。ここには氏家宿の南木戸があり番所があった。

道の向こう側に渡り細い道を進むと「船玉神社」がある。阿久津河岸の守護神で「船玉」を祀っている。覆い屋に覆われた本殿は豪奢で往時の繁栄が偲ばれる。境内にある弘化2年(1845)建立の常夜燈には「左江戸道 右奥州道此方河岸道」と刻まれている。

鬼怒川阿久津大橋で渡る。宇都宮市とさくら市の堺である。さくら市には「シルビアシジミ発見の地」と書かれていた。シルビアシジミは羽根を広げると2㎝程の小さな蝶で絶滅危惧種らしい。

西鬼怒川を西鬼怒川橋でわたると「白沢の一里塚跡」がある。本来の位置は鬼怒川渡船場の河原にあったが洪水により流失してしまった。江戸日本橋より30里目。西鬼怒川は往時、鬼怒川本流に匹敵する流量があり、舟渡しであった。

突き当りの土手を上り左に進む。途中の分岐を斜め右に河原の方に下りていく。「鬼怒川の渡し跡」の標識がある。昔はここから舟渡しであった。土手に戻り、大橋の手前左側下に「築堤記念碑』が2基立っている。

その先が「宇賀地本陣跡」で、秋田藩、大田原藩、盛岡藩の関札を残している。(ここは江戸より30里)と書かれていた。

中海道バス停の先の左側に「感恩報徳碑」が建っている。(下川俣村に生まれた小林清次郎は安政5年(1858)海道新田村に水路を開き水田開拓に尽くした。村民は「豊栄神社」を建立して翁を祀った。)と書かれていた。その家は小林家であった。

その先に「浮島地蔵尊」がある。元文4年(1739)造立。洪水にも流されず浮いて踏みとどまり、人々を救済する霊力があると言われた。

白沢宿

この後、白沢宿標識があるというが、2か所ともない。左側に神道系の馬頭観音、勝善神(そうぜん)が建っている。

街道に戻ると、桜並木が続く。杉が混じっている。北西に日光連山の男体山、女峰山、赤薙山が望める。

屋号の木札を付けた家が並ぶ。

宇都宮~氏家

将軍地蔵の裏道を行くのが街道だったらしいが、前の道を進み国道4合線に出てしまった。スマホのナビを頼りに「お伊勢の森」を目指す。伊勢神宮を勧請したもの。氏家の宿役人は氏家以北37家の参勤大名や公用役人の送迎をここで行った。

橋を渡り、土手を歩いて渡し跡まで戻る。田圃の中の細い道を歩き、街道に出る手前に「白木地彫刻屋台庫」がある。何もかかれていないが、これが屋台庫だろう。安政4年(1857)製の屋台には菊の彫刻が施されている。街道に出ると「与作稲荷道標」がある。

海道を右に少し入ると「古町薬師堂」がある。薬師如来が安置されている。

JR氏家駅から宇都宮に出て新幹線を乗り継いて帰った。

右の鬱蒼とした林の中に「将軍地蔵」がある。源義家が奥州征伐に向かう途次、鬼怒川の悪蛇に進路を阻まれた。宗円法師が念じると「将軍地蔵」が現れ悪蛇を退散させてしまった。境内に樹齢600年の立派なイチョウの木があり、銀杏がたくさん落ちていた。

宇都宮駅からバスで昨日のバス停まで戻る。白沢宿の北の枡形の奥に「薬師堂」があり、宇賀地家の墓所があった。枡形の角には、「經力稲荷大明神」が祀られている。

坂を下る途中「やげん坂」の説明版がある。(この坂は、漢方の薬種をくだく船形の薬研に似ているところからやげん坂と言われる。白沢宿として町割りができる前から街道の道しるべとして大きな夫婦ケヤキが立っていた。)

その先には、江戸時代の公衆便所跡がある。後ろに廻ると、桶やひしゃくがあり、昔は田畑の肥料としていた。

その先に「住吉屋跡」があり、「番所跡」は現宇都宮東警察署白沢駐在所」で、なにも残っていない。

昔の岩曽村、下川俣村を過ぎると、右側に馬頭観音が立っている。1940年の建立。

JR東北本線を旧奥州街道踏切で横断する。

左の道の脇に石塔があり、向かいには木製道標がある。(→お伊勢の森 ←奥州街道道標石)

稚児坂バス停を過ぎると、道は上り坂にある。稚児坂と言われる。建久元年(1190)源頼朝の命により伊沢家景が奥羽総奉行として赴任する途中、同行した稚児がこの坂で病死したのでこの名が付いた。

駐在所の左隣に「白髭神社」がある。鳥居をくぐると100段はある石段があり、ここで遥拝した。駐在所のお巡りさんに聞くと、薬師堂の角を曲がった先で宇都宮行きのバスの終点があり、その先に行くと宇都宮に戻れなくなるというので、バス停で宇都宮に戻った。

2日目

右側に「白沢地蔵堂」がある。境内には廃仏毀釈のため首を切られた地蔵が多数ある。伊沢家景の子をここに葬ったという。

慶長5年(1600)徳川軍の上杉攻めの際に先陣を白沢村庄屋宇賀地家と上岡本村庄屋福田家が道案内して無事に鬼怒川を渡河した。宇賀地家が本陣、福田家が脇本陣を務め、共に問屋を兼ねた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒であった。

上阿久津村と氏家村の堺をなす急坂「逢坂」を上ると、「勝山食堂」があり、「氏家ちたけうどん」を食べた。ちたけというきのこをいれたうどんは栃木県の名物らしい。

男女双体道祖神」の先に道を挟んで

高尾神社

がある。上阿久津の産土神、水神玉井護神を祀り河岸衆の崇敬が篤かった。延宝6年(1678)建立の総檜造りの社殿は明治39年に消失した。

街道に戻り、交差点の奥に入ると「輿作稲荷神社」がある。三本杉に流れついた稲荷社がここに移された。

岡本街道口バス停を左に曲がると白沢宿の宿並に入る。

角の右側に「旅籠高砂屋跡」があり、「明治天皇御休憩之所」碑がある。

その先で、右の小道に入っていくと「日吉神社」がある。海道新田村の鎮守で、平野神社を合祀している。鳥居には平野神社の扁額があり、社殿は日吉神社になっている。境内に合体木があった。