5日目
ホテルを出発して「太原」へ約4時間30分の移動である。
太原は山西省中部に位置する省都。東、西、北の三方を山に囲まれ中部と南部には平地が広がる。山西省の略称を晋というが、これは周の武王の子唐叔虞(とうしゅくぐ)が唐を滅ぼしたあとに封ぜられ、その子燮父(しょうぶ)が国名を晋としたことによる。その晋国が春秋時代末期の紀元前497年に汾河(黄河の支流)ほとりに晋陽城を築いたのが太原のはじまり。則天武后(唐代)詩人の王維、白居易(唐代)三国志演義の作者羅貫中(元)などを輩出している。私達は町の中心部には行かず、清の末期の商人の邸宅・喬家大院を訪れる。
ガイドの楊さんと添乗さん
ホテルを出てカンフーで知られる少林寺へ向かう。約2時間で着いたが、あすからの少林寺の大会のため途中でバスを止められ目指すレストランへ行くことができない。ガイドの判断で急きょ手前の尼寺(永泰寺)のレストランに変更する。
9日目
関羽像
殷墟遺跡
東南アジアの寺院のレプリカが立ち並ぶ一角に2010年にインドから贈られたインド風寺院が建っている。
関林廟は三国時代の蜀の武将関羽(~219)の首が埋葬されていると伝えられている廟。関羽の主君に対する一途な忠誠心は、民族の支持を受け続け、今日では商売の神として信仰され、世界中に廟が建てられている。廟内には、龍頭栢をはじめ彗柏の木が生い茂っている。舞楼、山門、儀門、拝殿、二殿、三殿、などが配置され、三殿の後ろに関羽の石坊と首塚がある。
しばらくフリータイムになり、町を散策する。平遥古城の中央に立つ3層の市楼の前で集合する。創建年代は不明だが、現在の建物は1688年(清代)に建てられた。高さは18.5mで楼上にも上がることができる。
郷土料理の昼食をとる。
雲崗と龍門を見たいということで参加したツアーだった。中国は広いのでバスでの移動が多く、毎日中華料理だったが、飽きもせず美味しくいただけた。中国の仏像はやたらに大きく、金ぴかで日本の仏像とは違っていた。でも人々は線香をもって拝礼し熱心に拝んでいた。歴史で習った殷墟も見ることができて、中国の歴史にいったんを覗き見ることができた。 日本のラーメンのような麺はなく、いろいろな麺料理が出たが、日本のうどんのようなものだった。唯一北京空港で食べた麺が日本のラーメンに似ていた。日本のラーメンはもう「ラーメン」として確立していると思った。
ホテルを出発して鄭州の空港に向かう。9時45分の北京行のCA1332に乗り11時25分に北京の空港に着いた。ここで5時間程待ち時間があった。まいったと思っていたが、仲良くなった千葉の方と旅行や山の話をしてあっという間に5時間が過ごせた。17時10分発のCA183便で羽田空港に21時30分に着いた。新幹線が無いので予約してあった東インに泊まり翌日家に帰った。
11日目
3時間バスに乗り鄭州に戻り、昨日と同じレストランで中国最後の夕食をとる。ホテルまでのバスの中で、ガイドの楊さんが千昌夫の「北国の春」を歌ってくれた。リクエストに応えて中国語の歌詞の北国の春も歌ってくれた。
公園内では小学生が写生をしていた。堂々と描く生徒や恥ずかしいのか隠しながら描く生徒がいて、かわいらしかった。
婦好墓は1976年に発掘された陵墓。規模は南北5.6m、東西4m、深さ7.5m、ほぼ完全な形で発掘された。「母辛享堂」は第23代皇帝武丁の妃だった婦好を祀った所で、その前に像が建てられている。
発掘された墓の中に入る。
車馬坑展庁は中国最古の馬車が発掘された遺跡。6つの馬車抗と馬車が通った道路の跡。馬車1台につき2頭の馬と二人の男性が発見されているが、その内の1人は少年だったことが分かっている。
殷王朝の占いの記録だった甲骨文字は中国最古の体系的文字である。今までに215万枚の甲骨片が発掘され、4500以上の文字が発見されている。
殷墟博物館は2005年に完成した。貴重な資料物が600点以上展示されている。青銅器の高度な制作技術を示す「司母戊鼎(しぼぼてい)」(高さ133cm、長さ110cm、幅78cm、重さ875kg)の複製品が有名。現物は中国国家博物館にある。青銅器は商時代の奴隷制度と人々の優れた想像力の象徴である。
安養陽殷墟は、紀元前17世紀から11世紀にかけて存在した王朝「商」(日本では殷)後期の都城遺跡。1899年に獣骨に刻まれた甲骨文字が発見され、発掘調査の結果、その疑問視されていた存在が実証された。
ホテルを出発して約3時間30分走って安陽に着いた。安陽は北京の南約500km、河南省の最北端に位置し、山西省、河北省、河南省の境界に接するところにある。中国七大古都(北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封)のひとつで文字に記された中国最初の都である。町の北西郊外の小屯村では、商王朝(紀元前17世紀~11世紀)の古城遺跡である殷墟が発見され世界遺産に登録された。漢字の起源である甲骨文字が多数発見され、ヒエログリフ(エジプト)楔方文字(古代オリエント)と並ぶ世界最古の象形文字。
約2時間かけて鄭州に戻る。昼に食べられなかった酸辣湯麺の夕食をとる。酸辣湯は酢の酸味と唐辛子や胡椒の辛味と香味をきかしたスープ。
少林寺の西にある歴代の僧侶の墓地で、墓塔が林のように立ち並んでいる。唐代から清代にかけて煉瓦でできた240余りの塔である。塔林の中央に立つ1339年建立の菊庵禅師塔の銘文は日本人僧侶邵元の手によるものである。
修行によりへこんだといわれる「武僧脚抗」と呼ばれるへこみがある。
少林寺
嵩山山中の少室山の北麓、五乳峰の下に495年(北魏)に創建された古刹。527年にインドの僧菩提達磨はここで禅宗を開いた。唐初、少林寺は少林拳により唐の李世民の天下統一を助け、少林拳を天下に知らしめた。
少林寺は河南省鄭州登封にある中岳嵩山にある寺院。インドの達磨大師がここで禅宗を開いた。少林武術の中心地でもある。「少林寺武術館演武丁」で演武を鑑賞する。
白馬寺は68年(後漢)の創建。仏教が中国に伝わって初めて建立された仏教寺院で1900年以上の歴史をもつ。祭愔(さいおん)秦景の二人が仏教経典を求めて西域に向かった際、天竺僧節攝魔騰(せつまとう)と竺法蘭(りゅうほうらん)の二人に出会い白馬に「四十二章経」という経典を積み都の洛陽に向かった。
関羽の首塚
田舎料理の昼食をとり、関林廟に向かう。
西山石窟には北魏の宮廷生活を描写した賓陽三洞、数cmの仏が1万5000体彫られた万仏洞、天井の大きなハスの花が目を引く蓮花洞、則天武后をモデルにした廬舎那仏のある龍門最大の奉先寺、薬の調合法が記されている薬方洞、龍門最古の歴史を誇る古陽洞などがある。
奉先寺の廬舎那仏
龍門石窟は敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟と並ぶ中国三大石窟で世界文化財に指定されている。石窟の運営が開始されたのは、北魏の孝文帝が平城(現在の大同)から洛陽に遷都した493年前後とされる。その後も多くの王朝が絶え間なく開削と造営を続けたため、山に掘られた洞は数千に及ぶ。洞は西山石窟と東山石窟に分けられる。
龍門石窟
洛陽は河南省の西部に位置し5000年の歴史を誇る古都である。東周、後漢、三国の魏、西進、北魏などが都を置いたところから「九朝の古都」とも呼ばれる。中国歴代王朝文化の結晶で世界遺産のひとつである龍門石窟、仏教が伝来して初めて建立された白馬寺、洛陽博物館などがある。今日から河南省に入ったので、ガイドの屈さんとお別れで楊さんがホテルで待っていた。
郷土料理の夕食をとりホテルに入った。
郷土料理の昼食をドライブインでとる。水餃子が美味しかった。大黄河を渡り約5時間走ってかって九つの王朝の都として栄華をきわめた洛陽に着いた。
中国の黄土高原には「ヤオトン」と呼ばれる洞穴式住居がある。黄土地質が厚いため、土を掘って住居にするのに適している。ほとんどが使われなくなったが、まだ住んでいると思われる「ヤオトン」が道筋に見られた。
写真ではこの大迫力は伝えられないが、このような滝を見たのは初めてだった。
黄河は全長5464mで、中国では長江に次いで2番目に長く、世界では7番目に長い。中国で「河」と書くと黄河で、「江」と書くと長江を指す。
山西省と陝西省の境を流れる大黄河の瀑布。付近で川幅が400mから30mくらいに急速に減り、黄色の泥水が勢いよく落ちてくる。毎秒1000ml~3000mlの水が落差30~50mある滝壺に落ちていく。龍門に下りられるのは1年のうち2か月ほど。水量の多い時や凍ってしまう時期は入れない。今年は50年ぶりに水量が多いそうで、昨日は多すぎて入れなかった様です。 濁流が川底に落ちていくさまが壺の口に似ていることから壺口瀑布と言われる。最もおおいのは雪解け水が流れ込む4月と言われている。
7日目
票号とは銀行の前身というべき私的な金融機関で、日昇昌は1823年(清代)に創業した中国最初の票号。これら企業集団は国内のみならず、日本や朝鮮などの海外に支店を設けた。20余りの建物を利用した展示で、100年にわたる票号の栄枯盛衰を知ることができる。
日昇昌(中国票号博物館)
城壁の高さは12m、幅は3~5m、正方形に近い形をしており、一辺の長さが1.6mで外観はレンガで覆われている。城壁入り口(拱極門)から上に上がる。城壁が突き出た所は防御施設で、とん台と言われる。城壁上には6つの重層の城楼と四隅に角楼が築かれていたが、現在は東南の奎星楼がそびえるのみである。城壁の内部には大砲や兵士の像が置かれている。
拱極門
奎星楼
裁判の劇
「古衙署(県衙)」を見学する。元代から清代まで平遥の宮庁所在地で、現存のものは1370年に建てられた。大堂は県の知事が公務を行ったところ。、裁判所の前で裁判の様子を再現した劇が始まった。どういうことなのか分からなかったので、後でガイドの紅葉さんにあらすじを教えてもらった。
宿の前には「酢屋」がある。この先の通りにも酢屋が軒を連ねている。黒酢は高粱から作られ、高粱は酒の原料にもなります。平遥の黒酢は有名です。
平遥は山西省の省都である太原の南西90kmにある。かっては古陶と呼ばれていたが、5世紀の北魏王朝の時に平遥と改称された。明時代の城壁がほぼ完ぺきな形で保存されている中国唯一の町であることから、1997年に世界文化遺産に登録された。現存する城壁は、明代を基礎として清代に補修したもので、煉瓦の城壁が約6kmにわたって巡っている。ほぼ正方形の平遥城は正面にあたる南の迎薫門を頭、東西二つの門を脚とみなし、北の拱極門を尾、門外にある二つの井戸を眼とみなして亀の形にたとえられ、別名「亀城」とも呼ばれる。
清朝末期から中華民国にかけての金融資本家喬一家の邸宅で、現在は民俗資料館になっている。巨大な敷地で、300余りの部屋がある。他にこの様な大院はいくつかあるが、チャンイーモンの映画「紅夢」が撮影されたことで有名になる。喬家には「妾を納れるな。使用人を虐待するな。博打をするな。女遊びをするな。酔って暴れるな。」という家訓がある。
安陽河南岸に位置する商王朝の政治的中心地。東西650m、南北1000m。宮殿や宗廟など80以上の遺構が発掘され、甲骨文字や青銅器、玉器など大量の文化財が発見されている。
万仏洞
蓮花洞
壺口瀑布
郷土料理の昼食をとって約5時間バスに乗り壺口に着いた。
甲骨文字の刻まれた碑
聴雨楼
大堂
6日目
平遥古城
喬家大院
二人の山の達人
発掘された婦好墓の内部
司母戊鼎(しぼぼてい)
文殊殿内に置かれたガラスケースの中には達磨の9年間の修行により影が付いたとされる「面壁影石」が置かれている。
李世民
対岸から見た奉先寺の大仏
古陽洞
薬方洞
黒酢
クルミや木の実類
先ほど買った「落雁」のようなお菓子。美味しかった。
清代に名を轟かせた商業資本家「喬至庸」の在宅である。建物は清代の北方民家の独特の風格を表している。日中戦争の際に八路軍に武器を調達したため、日本軍をさけて異郷に落ちのびた。1938年9月、北京や天津に立ち去り、それ以来戻らなかった。
なんだか食べているばかりのようだが、ホテルに入り郷土料理の夕食をとった。
殷墟宮殿宗廟遺趾
塔林
白馬寺
8日目
豆類