静岡駅で参加者を乗せたバスは、焼津駅で、私たちを乗せて、出発した。朝から土砂降りの雨で、心配したが、走るごとに、お天気は回復したり、雨になったりめまぐるしく変わる。美濃関物産館でトイレ休憩兼買い物をして、美並町の「みやちか」で、「天然鮎づくし」の昼食をいただく。

長良川の鵜飼い

H.26.08.23

ヤナとは、急流な瀬の川両岸から一直線に横断するように「人」字形の堤を設け、中央に水路をあけ、竹筒を張って鮎をとる方法。特に郡上郡美並のヤナ場は全国一の大きさを誇っている。

江戸時代には、藩主によって、泉の保存と古今伝授が顕彰され、石の水場が整備された。水場は、湧口から水、飲料水、食糧洗浄水、さらし場(食器等洗浄水)と取り決めがある。

宗祇.水は、水の町・郡上八幡のシンボルで、室町時代の古今伝授を伝える湧水です。

鵜飼は、鵜を使って(ここでは、ウミウを使っているそうです)魚をとる漁法で、長良川では1300年以上前から行われていた。昔は時の権力者に保護され21人の鵜匠がいたといわれているが、明治維新後特別な保護もなくなり、やめる人が続いた。明治23年からは宮内庁に属し、現在に至っている。鵜匠は世襲で岐阜市には6人います。長男が継ぐそうで、養子や女子は継げないそうです。正式職名は、宮内庁式部職鵜匠といい、鵜飼用具一式国の重要有形文化財、長良川鵜飼漁は岐阜県重要無形文化財に指定されている。

甘露煮、塩焼、から揚げ、釜飯の鮎づくしで、どれも美味しく、鮎を堪能しました。ヤナに行く途中で二人の若い女性が食事をしていたが、彼女たちは、鮎のお造りがついていた。骨が気にならず美味しかったといっていた。

お店の向かい側には、長良川が流れていて、このところの雨で水かさが増し、流れも速くなっていた。普段は、つかみ取りもできるそうだが、台風で、土台が壊されて危ないということで、今日はどんなものか見るだけとなった。小さな鮎が竹の上で、ひくひくと動いていた。これから秋にかけて多い日には何万匹もの落ち鮎が、ヤナにかかるそうです。

しばらく歩くと「史蹟 八幡城大手門跡」の看板がある。(昔この四辻は侍町四辻といわれ、明治維新まで黒塗りの立派な大手門が建っていた。) この角を右折すると山の上に郡上八幡城がある。安養寺の屋根の向こうに城が見えた。日本一美しい山城と言われる。1559年に遠藤盛数が砦を築いたのが始まりで、現在の城は昭和8年に再建されたもので、木造再建城としては日本最古の城である。この城に行く途中には「山之内一豊とお千代」の像があり、千代は遠藤森数の娘と言われている。

宗祇水は、環境庁の名水100選の第一号として指定された名水である。高名な連歌師である飯尾宗祇と郡上領主・東常縁という当時の二大歌人がこの泉のほとりで、歌を詠み交わしている。

郡上踊り発祥碑がある。郡上踊りは、32夜踊られる盆踊りで、国の重要無形文化財になっていて日本三大民謡の一つになっている。道の真ん中に屋形を置き、輪になって踊る。8月13日から16日までの4日間朝まで踊り明かされる徹夜踊りは圧巻です。

総がらみの様子(絵葉書から)

鵜舟は、全長13mで、鵜匠のほかに助手の「なか乗り」と舵をとる「とも乗り」が乗っている。かがり火をたきながら、舟がやってきた。流れが速いので、あっという間に通り過ぎる。次々とやってくるが、鵜が魚を捕る様子までなかなか見ることができない。 最後に「総がらみ」といって、6隻の鵜舟が横隊になって、浅瀬に鮎を追い込みまき狩りをする。「ホウホウ」という掛け声をかけ船底をたたいて、鵜匠と鵜、鵜舟が一体となって鮎を追う。今回はこれからもう一回鵜飼いがあるということで、盛大な追い込みはなかった。鵜がこれで終わりと思ってしまうので、と言っていた。鵜がとった獲物は、鮎を除いては、鵜の餌になるようです。

私たちの乗った舟は、秋篠宮が来られた時に造られた船で、「秋雲丸」という名前でした。

普段は、狩り下りといって、鵜匠の船と観光船が並走して川を下り、鵜が魚を捕る様子を見るのですが、今回は増水していて川の流れが速いため岸に船を並べ、やってくる鵜舟を見学するということでした。時間まで、お弁当を食べて待っていると、踊り船が通り過ぎたりしているうちに、時間になり、花火が上がった。今日は41隻の観光船出ているということで、船はなかなかやってこない。

乗船する前に、鵜匠の杉山さんに鵜飼の説明を聞きました。
 風折烏帽子(かがり火から頭髪を守る)漁服(黒または紺の木綿でできていて胸当ては火の粉や松脂の油をよける)腰みの(わら製で水しぶきを払い、体が冷えるのを防ぎます。)足半(普通のわらじの半分の長さで、魚の油や水あかで滑らないようになっている。)

屋根神様(昔、川が洪水で水があふれたので、神様を屋根の上にあげたということです。火伏の秋葉様が祀られている。)昔ながらの古い家並みが残っている一角でした。

バスで、岐阜に移動し、鵜飼い船のでる川原町を散策する。

橋を渡ると正面に「神農薬師」がありその向かいには、「サンプル王・岩崎瀧三の生家」と書かれた家があった。中に入って、竹の籠と鰻籠を買い求めた。

吉田川新橋で渡る。新橋は夏になると子供たちがここから飛び込む姿がTVで紹介されていました。川面から13mのジャンプは子供たちの度胸試しということだったが、付近にいた方が「最近は危ないので、禁止されている。」と言っていた。橋にも「飛び込み自粛」の看板が出ていた。

旧庁舎記念館のすぐ裏手にはある小道は「いかわこみち」と言われる。(寛文年間にできた用水は、地元住人に大切に管理され、今も生活に利用されている。たくさんのアマゴ、イワナの渓流魚や鯉が泳いでいる。)

郡上八幡旧庁舎.記念館は平成6年まで役場として使われていた。

工房を右折すると「やなか水のこみち」があり、きれいな水が流れている。用水に沿って柳の並木と蔵屋敷が並ぶ。敷石は、長良川と吉田川の川石で、町の名にちなんで八万個であるという。

吉田川を宮ケ瀬橋で渡って向こう側に行くと、サンプル工房がある。郡上八幡は、全国一の食品サンプルの生産を誇っている。店の中は観光客でごったがえしていた。

小駄川と清水橋

まず、「郡上八幡博覧館」に入場する。浴衣を着た女性が「郡上踊り」の説明をし、みんなでまねして踊ってみる。400年以上の歴史を持つといわれている。初代藩主遠藤慶隆が、領民の融和を図るため、郡上各地で踊られていた盆踊りを集め、奨励したと伝えられている。そのあと、ガイドの方の説明を聞きながら館内を見学する。

玄関にあった(旧宮内省御陵場跡)の案内板によると、(当地は徳川時代より、明治2年まで、郡上藩主青山氏に鮎を献上していた伝統あるヤナ場です。。明治26年より昭和21年まで、宮内省の御陵場となり、ヤナに替わって、長良川小瀬の鵜飼丸、一年に4,5回鵜飼いをして、鮎を献上したところです。長良川の上流部郡上川は、全国屈指の清流であり、そこで育った天然の鮎は、格別においしいと皇室に献上されていたほどの逸品なのです。)とあった。

初めて、鵜飼いというものを見たが、流れが速いこともあって、あっという間に終わってしまった。こんな風にするということが分かっただけだたが、後世に残してほしいものだと思う。

袖壁と紅柄格子の残る職人町、鍛冶屋町を歩く。

酒屋さんの前に置いてある樽の中に郡上踊りの免許(名人に与えられる免許)があった。

バスで、郡上八幡へ。到着後、市内を散策する。

岐阜城が雨に霞んで見えました。

郡上八幡楽藝館