日下門から境内に入り、チケットをもらって普門院、開山堂に向かう。1280年入定の聖一国師を祀っている。楼閣そびえる伝衣閣(でんねかく)である。「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。普門院前の庭園は江戸中期の名園。
H.29.11.28
焼津駅から出発したバスは、藤枝駅で私たちを乗せ、六合、吉田インターで参加者を乗せ、東名に入り、京都を目指して走る。
南禅院は亀山上皇の離宮時代の「上の宮」跡に造られた南禅寺の別院で、南禅寺発祥の地と言われる。庭園は離宮時代のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式庭園である。作庭は夢窓国師といわれ、天竜寺庭園、苔寺庭園とともに京都の三名勝庭園のひとつになっている。現存の建物は、桂昌院によって再建された、入母屋造こけら葺きである。
東福寺に着いた。バスを降り、観光客であふれる道を寺に向かう。東福寺は聖一国師を開山としている。天皇より初めて国師号を贈られた禅寺である。中国(宗)に渡り、多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与した。杭州径山の茶の種子を郷里に伝えた。静岡茶の茶祖でもある。
天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師をお祀りする南禅寺の開山塔である。方丈は細川幽斎によって再建されたこけら葺き屋根の建物で、内部は長谷川等伯筆の障壁画で飾られている。方丈前庭は菱形の畳石が横切る枯山水庭園で、小堀遠州の発案である。書院南庭は池泉回遊式庭園で、南北朝時代の面影を残す。
方丈庭園「虎の子渡しの庭」
偃月橋を渡って、庫裏,方丈を過ぎ、石段を上ると「十三重石塔があり、鐘楼、五社成就院がある。
方丈は国宝で、大方丈と小方丈からなる。
バスに乗って「南禅寺」に向かう。京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗の寺院である。開基は亀山法王、開山は無関普門(大明国師)で、日本最初の勅願禅寺である。日本の禅寺の中で最も格式の高い禅寺である。
方丈背後には開山堂がある。正面に足利義満筆「霊光」,堂内に「勅謚大明国師」の扁額が掲げられ、大明国師坐像(重要文化財)を安置している。
東庭「不離の庭」方丈と庫裏を結ぶ渡り廊下に面した長方形の庭園。赤砂を敷いて中央に長石を臥せ、その前後に白黒の二石を配している。狼に襲撃されそうになった国師の身を二頭の犬が守ったという国師幼少期の故事にもとずいて作庭された。
表門は桃山時代の建築で、重要文化財である。西庭(龍の庭)寺名の「龍吟庵」に因み、龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組みによって表現している。南面は「無の庭」方丈正面の南庭は一木一草を用いない簡素な白砂敷である。
偃月橋 を渡って龍吟庵に入る。偃月橋(えんげつ)は三ノ川の上流に架かる木造橋廊。1603年の建築で、単層切妻造りの屋根は桟瓦葺き。国宝「龍吟庵」は東福寺第三世住持大明国師墓所である。書院造と神殿造の名残をとどめる、現存する日本古来の方丈建築である。単層入母屋造の杮葺。正面は八間、側面は六間で南面している。
広大な境内に北谷、中谷、南谷の三つの渓谷を巧みに取り入れている。渓谷には三つの歩廊橋がかかっている。上流から偃月橋、通天橋、臥雲橋で、「東福寺の三名橋」という。臥雲橋から上流に架かる通天橋を見る。事故があったということで、橋の上からの写真はNGになっていたが、皆無視してカメラを向けている。紅葉の向こうに通天橋が望める撮影ポイントである。
夕日に照らされた紅葉を見ながら、京都を後にした。あとはひたすらバスで走り、藤枝に着いたのは午後9時30分だった。駅前のクリスマスイルミネーションが迎えてくれた。
南禅寺三門は五間三戸(正面柱間が五間)で、内中央三間が出入り口の二重門。藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進した。上層は「五鳳楼」といい釈迦如来と十六羅漢像のほか、藤堂家歴代の位牌、大坂夏の陣の戦死者の位牌などを安置する。三門に上がって「絶景かな!絶景かな!」と言った石川五右衛門の気持ちを感じる。
方状庭園「如心庭」
庭園の南東隅に亀山法王廟所がある。法王の遺言により分骨された遺骨が埋葬されている。
境内を通る琵琶湖湖水水路閣がある。
禅堂は1347年の再建。我が国最古最大、中世から残る唯一の禅道場。鎌倉風の華頭窓が美しい。扁額「選佛場」は宗の佛鑑禅師(聖一国師の師)筆。
三門(国宝)は大仏様を思わせる。室町初期の再建。扁額「玅雲閣」は足利義持筆。楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には明兆と弟子による極彩画が描かれている。
東福寺本坊庭園(方丈庭園)は昭和の名作庭・重森三玲の作。「八相の庭」と命名され、近代庭園の傑作とされている。時間が無くて中に入ることができなかった。方丈は明治23年に再建。
通天橋を渡る。方丈と開山堂を結んでいる。ここから眺める渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉は絶景。黄金色に染まる三つ葉楓は聖一国師が宗から伝えた唐楓と言われている。