房川の渡しは「舟渡し」であった。当初関所は中田にあったが、後に対岸の栗橋に移転した。
東武動物公園~古河
2022.5.25~26
街道はその先で左に曲がる。その手前に創業文久年間(1,861~64)の「石太菓子店」があり、塩がまの老舗。お土産に買い求めた。
その先の左側に「雷電神社」がある。幸手宿の総鎮守。御神体は幸手城主一色氏が奉納した雷神。
橋を渡り、渡り詰を左折し、1本目を右折する。国道4号線の下道を歩く。しばらく歩くと右側に「筑波道追分道標」がある。安永4年(1775)交流の道標には「左日光度道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれている。かわつまは茨城県五霞村字川妻、前ばやしは茨城県総和町前林のこと。
左側に「雷電社湯殿社」がある。外国府村の鎮守。境内には馬頭観音、青面金剛像庚申塔、弘化2年(1845)建立の如意輪観音像十九夜塔などがある。
左側に「古河城御茶屋口門跡がある。古河藩初代藩主土井利勝がここに茶屋を設け、将軍家光を出迎えた。以来歴代の将軍はここから古河城に入った。
街道に戻ると、左手に「旅館あさよろず」がある。現在は近代的なビルになっているが、文政2年創業で、板垣退助や伊藤博文等が宿泊した。ポケットパークにある地図に昔のあさよろずの写真が載っていた。ポケットパークは問屋場跡で人足溜、馬小屋等があった。
堤防上を歩き、利根川橋で利根川を渡る。茨城県古河市に入る。利根川渡り詰を左折すると「中田宿解説」がある。中田宿は利根川河川敷に設けられていたが、明治末の利根川改修によって宿は利根川橋下の河原になってしまった。
幸手駅に向かって左折すると、一色稲荷神社がある。江戸時代初期まで幸手を支配した一色氏の陣屋跡。稲荷は一色氏の守護神で、陣屋稲荷と言われた。道を横切って右手に入ると「天神社」がある。祭神は菅原道真。一色氏館の鬼門に位置し、館の守護神であった。
右側に「渡辺勘左衛門邸」がある。豪壮な家屋と蔵を残している。質業を営み、多数の小作人を抱えていた。
県道373号線を進み、国道4号に合流すると右側に「八幡神社」がある。境内には文政10年(1827)建立の手水鉢や享保5年(1720)建立の笠付青面金剛像庚申塔がある。
幸手駅入り口交差点てまえに「有形文化財」の印があるカフェがある。交差点には「明治大帝行在所跡碑」がある。名主中村家に2度宿泊した。
2日目
荒宿交差点の左手に「聖福寺」がある。日光社参の将軍や例幣使の休息所であった。山門は勅使門。本堂の「将軍の間」の欄間は左甚五郎作と言われる。
角には「幸手の一里塚跡」がある。両塚とも幸手宿内で、塚木はエノキであった。江戸日本橋より12里目。
元和2年(1616)近郊の郷村を集めて宿場を創立した。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒であった。
県道65号を歩き、北側用水を筋違橋で渡る。橋を渡る前に左の方に入る方が良かったが、校庭の周りを1周して「橘守部翁遺跡碑」にたどり着いた。幸手桜高校の校庭隅にある。国学者の守部は29歳の時に田村家の娘と結婚し20年間この地で過ごした。
川を挟んで反対側には「八幡神社」がある。そのそばには「内国府間八幡神社注連縄稲圃場」と書かれた田圃があり、田植えが終わっていた。八幡神社は明応元年(1,492)創建で内国府間(うちごうま)村の鎮守。
木柱道標を2本過ぎると「炮烙地蔵」がある。関所破りが「火あぶりの刑」に処せられた刑場跡。刑死者供養のため建てられた。素焼きの炮烙が奉納されている。「エボ地蔵」とも呼ばれ、線香の灰をイボに付けると霊験あらたかという。
そこに「会津見送り稲荷」がある。会津藩士が道に迷った時、助けてくれたのが狐の化身であった。ここには「名物粟餅」を売る茶店が8軒あった。会津見送り稲荷の御神体は狐に乗った茶吉尼天(だきにてん)である。仏教の夜叉である茶吉尼天は稲荷として信仰されている。厨子の中に入っていて見ることはできなかった。
しばらく歩くと、旧家門がある。蔵がある立派なお屋敷だ。国道4号線の下道を通り、東北新幹線の高架をくぐり、栗橋第一劇場を左折する。すぐに川通神社がある。鳥居には「香取八幡宮」と刻まれている。境内には文化11年建立の常夜燈がある。カーブする道を進むとY字路になり、木柱道標がある。「→北広島地蔵 →炮烙地蔵」「→会津見送り稲荷」
真光寺の横に「小右衛門の一里塚」がある。西塚の形態を残している。塚木ははエノキであった。塚上には、権現堂川から移設された弁財天堂が再建されている。江戸日本橋より13里目...。
寺の後方に「小右衛門下組八幡神社」がある。小右衛門村の鎮守。小右衛門はこの地の新田を開発した者の名前。
道は右にカーブするが、そこに「道標」が立つ。大正4年の建立で、「久喜方面」「幸手方面」と刻まれている。
その横に「角穀屋跡」がある。小島定右衛門邸で、商家と蔵を残している。屋号は枡形の通りの角にある米穀屋の意味である。
その先で、左折すると、「愛宕神社」がある。杉戸宿の鎮守。境内には落雷によって幹を裂かれたイチョウの木があり、その中に「銀杏観音」と呼ばれる瑠璃観音が祀られている。街道に戻る途中に「小林質店」の看板がある。ここは「伊勢屋長兵衛跡」で造り酒屋であった。
「本陣跡地前」信号機を左折する。「明治天皇御小休所址碑」が立っている。その先に「漢方医虎屋跡」現、とらや薬局。「名主鈴木小左衛門宅跡」現、埼玉県信用金庫。「脇本陣蔦屋権左衛門跡」現マツモト金物(今は駐車場)ほとんど残っていない。
昨夜は久しぶりに長く歩いたので、足がつったりして、よく眠れなかったが、朝食がついてない宿だったので、早起きして,6時30分に宿を出て、栗橋駅に向かい、東武日光線で南栗橋駅に着いた。7時40分、昨日の場所に向かい街道を歩き始める。
幸手市と久喜市の境を過ぎ、小さな円形トンネルをくぐる。左手に真光寺がある。明治6年、栗橋南小学校の前身となった敬愛学校 ○○学校が開設された。墓地の隅には、青面金剛像庚申塔、文政8年(1825)建立の如意輪観音像がある。
中川を行幸(みゆき)橋で渡る手前の権現堂堤の上に{明治天皇権現堂御野立所」碑と「行幸堤の碑」がある。権現堂堤は江戸を洪水から守るために寛永18年(1641)に築堤された。明治8年に新権現堂堤が完成し、9年明治天皇奥州巡行の際にここに立ち寄ったところから「行幸堤」と呼ばれるようになった。
圏央道をくぐり日光道中・日光御成道合流点に出る。右折すると、太子堂がある。明治11年太子堂を仮校舎として上高野小学校が開校した。
東武日光線踏切を渡ると、右側に「上高野村道路元標」がある。元は日光御成道沿いにあった。道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定した。付近の電柱には昭和22年のカスリーン台風の際に浸水した深さを示すテープが張られている。
右手にホームセンターがあり、入り口に警察官が立っている。警笛が響き渡り、1台の車が一旦停止違反でつかまり、傍の空き地に誘導された。次の車はその空き地に入らず、走り去った。逃げ得かと思っていると、パトカーがサイレンを鳴らして追いかけた。サイレンはすぐなり終えたので、捕まったようだ。逃げ得はさせないようだ。
国道を進むと、左側に「厳島神社」がある。境内には天満宮や文政5年(1822)建立の庚申塔等がある。「大島」信号機の奥に「恭倹舎跡」がある。心学者大島有隣が天明5年(1785)に創建した学舎で、村民に心学(神道、仏教、儒教の教えを日常生活に合わせた倫理)を教授した。敷地内には有隣の祖大島右京亮がこのちに土着した際に鎮守社とした稲荷社がある。
左側に「宝生院」がある。「杉戸不動尊」と言われ、不動堂に「安産不動明王」を安置した。境内には文化7年(1,810)建立の日光道中と刻まれた「馬頭観音像」などがある。
その先の右側に古い店構えの「渡辺金物店」がある。平成に入り、店を閉じたが、営業当時、お店は格子のついた衝立で囲まれ、主人が座る様子が印象的だったということです。今も不定期に「クラブ茶屋」という交流会がもようされている。と書かれていたが、コロナでどうなったでしょうか。
この角を入り「鷹見泉石宅跡」を目指す。古河藩の家老を勤めた人物で、渡辺崋山の描いた人物像で有名。明治維新後ここは鷹見家のものになり、もともとは建坪200坪あったが、平成2年の解体修理で「鷹見泉石記念館」として開館された。
左手に「浄善寺」があり、境内には「大銀杏」があるが枝をすっかり払われ寂しい姿になっている。樹齢330年。「原町口木戸跡」は古河城下の江戸口で土塁が築かれ番所があった。「古河宿燈籠モニュメント」がある。
暫く炎天下のウオーキングが続き、原町に入ると、「古河第二高等学校」があり、その手前の右角に「十九夜塔」がある。校庭隅に「原町の一里塚」が復元されている。その先には道標がある。「左にっこう 右みちのく」と刻まれている。
日光街踏切を渡る。右手に「中田の松原」の説明板がある。踏切から原町入り口の間には寛永7年(1630)古河藩2代藩主が植栽した松並木があった。戦時中「松根油」採取のため伐採された。今、松並木が復活している。その裏側に「香取神社」がある。宝永元年(1704)創建で、茶屋新田村の鎮守であった。
利根川の舟運で栄え、近畿からの廻米の積み出しが行われた。対岸の中田宿とは合宿で、問屋業務は半月交代で行われた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒。
北条氏が滅亡すると、古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となり、城下町が形成され歴代将軍の日光社参の2泊目は古河城であった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒。
左手の「円光寺」が見事な庭園があり、さつきが満開であった。右手の本願寺には、文化年間(1,804~18)に発掘された板碑がある。
左側には「本陣知久家跡」がある。現「うなぎ義語家」。初代帯刀は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねた。門構玄関付きで建坪170坪余であった。
左側に「神宮寺」がある。源頼朝は奥州征伐の途次に戦勝を祈願した。倉松川を志手橋で渡ると、「神明神社」がある。境内には「螺不動尊」がある。参道には高札場があった。
日光御成道、筑波道の要衝を控え、権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ねた。本陣1軒、旅籠27軒であった。
国道を進むと、左側の「山田うどん店」の角に「茨島の一里塚跡」がある。茨島村地内で塚木はエノキであった。江戸日本橋より11里目である。茨島村は、当初幕府領で、元禄8年以降は、旗本大久保氏の知行地で、杉戸宿の助郷であった。その先で「杉戸町」から「幸手(さって)市」に入る。
街道に戻る途中に「鮒甘露煮製造元 ぬたや」があった。鮒甘露煮は古河の名物である。JR古河駅から東京に出て、藤枝に帰った。
この辺りは道路の付け替えなどで、「八坂神社」は堤防の上に移っていた。栗橋宿の総鎮守。狛犬が鯉になっている。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来する。栗橋関所跡などは場所が分からなかった。
深廣寺・{南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ2間の六角名号碑が21木並んでいる。
浄信字・梅澤太郎右衛門の墓がある。秀忠日光社参の際に、増水した利根川に飛び込み、舟橋を守った。
顕正寺・栗橋宿を創設し、本陣を務めた池田鴨之介と代々の墓がある。
その先陸橋をくぐり、左折して東武日光線の南栗橋駅に行き、今日の宿がある栗橋駅に向かう。駅の近くには「静御前の墓」があった。
迷いながら今日の宿「王将」に向かう。
その隣に「光了寺」がある。静御前を葬った栗橋の光了寺がこの地に移転した。後鳥羽上皇より賜った「あまり龍の舞衣」等の遺品が保存されている。境内のヒノキは姿が美しいということで名木になっていた。
県道228号線を歩き、左手に「鶴峯八幡宮」がある。源頼朝が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した。