H.25.10.04〜05
東京駅に、朝9時に集合し、9時20分のあさま511号で出発し、上田駅で下車しました。待っていたバスに乗り、安曇野めぐりが始まりました。
随身門から約30分ほど歩くと、石の階段の上に、九頭竜社がある。(御祭神は、九頭竜大神である。九頭竜社は、奥社に天手力雄命が奉斎される以前に、すでに地主神として奉斎されていた。現在も、毎朝神饌所で焚いたご飯を本殿にお備えする儀式が行なわれ、戸隠信仰の源態を伝えている。生命の源の水を司る神とされる九頭竜神は、古来より、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として尊信されている。)
杉の木は、400年以上たった木が多く、中が空洞になっているものがある。この洞は、吉永小百合さんが、CM撮影で入った洞で、皆が入るので、禁止のため、注連縄を張ったそうです。
サワフタギの青い実(別名ウシコロシ、昔、牛の鼻輪に使った。牛の勢いを殺すという意味。)
バスに乗り、火之御子社に向かう。
参道を下り、随身門を右に曲がると、戸隠森林植物園にはいる。
秋も深まり、もう直ぐ紅葉も真っ盛りになり、雪が降る季節になります。奥宮は、冬の間は閉じられ、お正月だけ、開かれるそうです。また、来年の5月の連休みから、参道も歩けるようになるようです。 今回は、一部歩きましたが、バスの窓から見ていると、「戸隠古道」の道標が立っていたのが見えます。ガイドさんによると、全部歩くと一日かかるそうです。
仁科神明宮
大王窟と書かれた洞窟があり、説明板によると(恒武天皇の頃、魏石鬼(ぎしき)八面大王という怪力無双の首領がこの安曇野を治めていた。全国統一を目指す中央政権は、東北を侵略するに当たって、信濃の国を足がかりに沢山の無理難題を押し付け住民を苦しめていた。大王は、坂上田村麻呂率いる軍勢に刃向かうつもりはなかったものの、追い詰められ、わずかな部下を伴い、有明山の麓の岩屋にこもって力の限り戦ったが、ついに矢に当たって倒れた。大王は余りに強かったため、生き返らないように、体をばらばらにして埋められた。当農場の一角には、胴体が埋められ、大王神社として祀られている。)
いろいろな散策コースがあり、集合時間まで農園内を散策した。
大王わさび農園
(この地は、平安時代には、「戸隠三千坊」といわれた山岳密教の聖地でした。また、明治以前の神仏混淆時代には、戸隠神社は、戸隠山顕光寺と呼ばれており、神社でありながら宿坊でもあるのは、このような事情があるからです。
境内にある二本杉
(創建は、1098年と伝えられ、御祭神は、主祭神が天の岩戸の前で艶やかな舞を舞った女神天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に三柱の神様をお祀りしている。神仏習合の時代にあっても、この社だけは純然たる神社として祀られてきた。戸隠神社太々御神楽は、この神社に仕えていた社人によって伝えられ現在に至っている。舞楽芸能上達、開運、結縁、防火などの御神徳がある。)
蕎麦の昼食の後、バスに乗り、直ぐ降りて、中社に向かう。(御祭神は、天の岩屋にお隠れになった天照大神にお出まし願うため天岩戸開神楽を考案された智慧の神様、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、学業成就、試験合格、商売繁盛、家内安全に御神徳がある。社殿「龍の天井絵」は」平成15年に復元した狩野派の天才絵師河鍋暁斎の作である。ここでは、正式参拝ということで、拝殿にあがり、祝詞をあげていただき、玉串を代表者が奉納した。あとで、紅白の落雁をいただいた。
30分ほど歩くと、随身門がある。この辺りは、随身門から500mにわたって、200本のクマスギの並木が続く。
穂高神社(日本アルプスの総鎮守)
わさび田
水車小屋は、黒澤監督の「夢」のロケ地にもなったところで、ゴムボートに乗れる。
道祖神
幸いの架け橋 この橋をカップルで渡ると幸せになれる。
宝光社
戸隠山の岩峰が見えてきた。
参道の石積みが切れているところが時々ある。これは、両側に御坊があった跡である。
咲き残ったオオシラヒゲソウ
犀川の小田切ダム
木崎湖
青木湖
元御神木
(この神輿は、江戸時代に、戸隠神社の4社に配置すべく造られたうちで、唯一基現存するものです。宝光社と中社の間の約2kmの道程をかついで奉納していた。貴重な文化財でもあるため、幾分小さく、軽いお神輿を新調し、この神輿は大切に保存することとした。)
(宝光社は、奥社に相殿として奉祀されていたが、第70代後冷泉天皇の時代(1058年)に、現在地に遷祀された。270段余りの石段を上ると、神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿がある。拝殿まわりは、宮彫師北村喜代松の彫刻で飾られる。御祭神は、中社祭神天八意志兼命の御子神、天表春命(あめのうわはるのみこと)で、女性、子供の守り神としても信仰されている。)
タクシーに分乗して、「忍者そば 山口屋」に行き、戸隠蕎麦をいただく。戸隠蕎麦は、円形ざるとぼっち盛りに特徴がある。一つのざるに5ないし6束の蕎麦がのっている。蕎麦はニ八蕎麦で、コシがあり美味しかった。ツキダシの蕎麦を使った小鉢も美味しかったです。
随身門から20分ほど歩いて、鏡池に到着する。戸隠連峰の姿を鏡のように映すことからこの名が付いた。人工湖で、下の田んぼに暖めた水を流すためにこの池に水を溜めているそうです。今日は、雲が多く、霧がかかっていて、山の上まで見えませんでした。
階段を、上って行くと、奥社がある。御祭神は天手力雄命(あめのたちからおのみこと)。(神代の昔、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、岩屋を開いた天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まる。戸隠神社の御本社として,開運、心願成就、五穀豊穣、に御神徳がある。参道は約2キロ、中ほどに、萱葺きの赤い随身門があり、その先に、樹齢約400年を超える鬱蒼とした杉並木が続いている。途中、修験道の大講堂跡や院坊跡に遺る苔むした礎石が往時の隆盛を偲ばせる。)
2日目
神社の前に、道祖神が並んでいる。「千国街道と道祖神」と書かれた説明板には(ここは、昔、安曇野を南北に結んだ千国街道です。北は遠く日本海に通じ、上杉謙信が塩を運んだ塩の道と言われている。過疎の村里に取り残された道祖神、二十三夜塔をこの場所にお祀りしました。)
(戸隠界隈には、このような宿坊が沢山あり、現在は、宿として宿泊客を泊めている。主人は神職の人で、宿坊には、神社が祀られている。)とガイドさんの話です。
火之御子社から宝光社まで山道を歩いた。途中にある杉の木の所でガイドが止まった。「伏拝み所」といい、(室町時代の古書に「御正体 飛来の処 伏拝みと称す。」と記しています。950年頃、阿智の祝部(神主)が、宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀した。1058年、天表春命の御正体が、この地に飛来し、「奥社は女人禁制にして、冬は登攀が困難である。この地は、四季をとおして老若男女がお参りできる。この社を建て、我を安置せよ。」と申された。里の人々は、この御神意によって宝光社を建立し、御正体をお祀りした。)
境内には、樹齢700年を超える御神木、樹齢800年を超える三本杉がある。中社の前に、鳥居を中心にして正三角形に並んでいる。この杉には「百比丘」の伝説がある。
咲き残ったトリカブト
フッキソウの白い実
木に絡まったツタウルシの紅葉
ツリバナの実
木道を歩く。
ナナカマドの赤い実
戸隠神社奥宮社入り口から、歩き始める。ガイドさんと合流し、話を聞きながら、静かな参道を歩いていく。
戸隠神社は、霊山戸隠山の麓にあり、奥社、中社、宝光社、九頭竜社、火之御子社の五社からなる。遠き神代の昔、「天の岩戸」が飛来して出来たと謂われる戸隠山を中心に開かれ、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を御祭神としてお祀りしている。
大座法師池
仁科三湖(木崎湖、中綱湖、青木湖)を抜けて、大座法師池に出る。(大座法師池は、飯綱高原にあり、はるか昔、ダイダボッチ(巨人)が、飯綱山に腰をおろし、一歩足を踏み出した時の足跡に水がたまって出来た池と言い伝えられている。)
神門
阿曇比羅夫之像(天智天皇の命を受け、百済の王子豊璋を百済に護送、救援し、新羅・唐の連合軍と戦うも、白村江の戦いで破れ、戦死する。御船祭りの起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られる。)
神船(平安時代風木造屋形船・穂高丸)昭和58年に奉納された。
大王神社
戸隠山登山口がある。毎年何人かが滑落して亡くなるそうです。
(仁科神明宮は、かってこの地域一帯が、伊勢の神宮の御領として、「仁科御厨」であったことから、御厨の鎮護のため祀られたお社とされている。900年ほど前の平安時代中頃の御厨の設定の時期であろうと考えられる。20年に一度の式年造営を行なってきたが、江戸時代初頭の寛永13年以降は、社殿の部分修復にとどまってきたため、本殿、中門、釣屋は日本で一番古い神明造りの形を遺し、国宝に指定されている。直線的な屋根と、千木、かつお木、簡素で素朴な古来の建築様式は、周囲の社叢に溶け込んで、深叢な雰囲気をかもし出している。)
餅つき道祖神
穂高神社本宮(奥宮は上高地明神池湖畔に鎮座、嶺宮は奥穂高山頂に鎮座する。)
見張り台を下りると、「萬緑の湧水」があり、水が滴り落ちていた。
その有明山の麓の岩屋を再現し、空高く積み上げられた築山を「大王様の見張り台」と名付けた。