飛島・粟島3日間

H.25.07.13〜15

予定には、なかったが、時間があると言うことで、村上市にある「喜っ川」に立ち寄る。

東京駅に集合し、やまびこ129号で、福島駅まで行き、バスに乗り換え、月山8合目まで走った。45名の参加者で、バスは満席だった。月山8合目は、以前出羽三山のツアーで来たことがある。前回は、お天気も良くて、1周出来たが、今回は、雨と霧、風も吹いて、カッパを着て、月山神社中之宮まで行き、帰ってきた。晴れていれば一周1時間くらいで、高山植物の咲く弥陀ヶ原を散策できた。

2時間30分のハイキングを終え、マリンプラザに戻り、昼食のお弁当を食べた。午後は、釣をする人、自転車で島内を回る人、ガイドさんと島内を歩く人に分かれた。私は、ガイドさんについていくことにした。

館岩は、ウミネコの繁殖地で、その数は4〜5万羽。階段を上って上に上がると、石塁(砦)があり、海賊の城跡とも言われている。また古代文字とも言われる未解読文字の刻まれた岩がある。

2日目

出羽三山の主峰月山神社は、月読大神を祀り、広く庶民の信仰を集めている。月山8合目には、弥陀ヶ原と言われる湿地帯が広がり、130種以上の高山植物が群生している。

テキ穴。(昭和39年、平安時代のものと思われる人骨が土器と共に発見され、昭和44年に発掘調査が行なわれた。全長50mで、第一洞、第二洞、第三洞まであり、途中まで入ったが、その先は止められていた。)

荒岬の植物群落は、トビシマカンゾウが咲き残っていた。先週は満開だったようです。オニユリ、スカシ百合が咲くそうですが、まだ蕾でした。

この島の成り立ちがわかる地層

飛島は、周囲約10.2km、面積約2.7kuの島で、酒田港より北西に約39km、山形県と秋田県の県境より、西に約28kmの日本海に浮かんでいる。氷河期の氷が融けた海面の変化により、島は50m以上、40m、20m、5mの段丘、海岸低地面、海蝕台からなり、ほぼ扁平な台地状である。周囲には、対馬海流(暖流)が流れているため、平均気温は12℃以上と高く、島は一年中タブノキやヒサカキなどの常緑広葉樹に覆われている。

鶴岡のホテルの送迎バスで、酒田港まで送ってもらい、75分の船旅の後、飛島に着いた。夜降っていた雨もあがり、何とか天気も持ちそうです。

内浦の港から釜谷まで、海岸線をクルーズする。船酔いしそうだったので、船内に入っていたため、写真はありません。釜谷で、民宿のマイクロバスに分譲し、今度は上から、海岸線を走る。仏岬の展望台でバスから下りる。(仏岬とは、昔釜谷の漁師・六蔵によって、この沖合いの海底から木彫り等身大の観音像(現在内浦の観音堂秘仏)が発見され、名づけられた。)

人間国宝鹿児島寿蔵歌碑(紙塑人形の製作に独自の技法を確立し、人間国宝第一号に指定された。アララギ派の歌人でもあり大正13年、飛島に遊びその自然美を詠んだ。)

村上では、100種類以上の鮭料理がある。塩引き鮭のように時間をかけて発酵させて作るものから、新鮮な白子の刺身、心臓の塩焼き、中骨を柔らかく煮込んだものなど、特殊な料理が受け継がれている。 発酵させて作る代表的なものに、塩引き鮭、鮭の酒びたし、鮭の飯寿司、鮭のめふんなどがあり、塩引き鮭で、約3〜4週間、酒びたしで1年、飯寿司で1ヵ月、めふんは2年もかけて出来上がります。

帰りは、高速船で、岩船港に帰った。粟島は散策がなかったので、なんとなく印象が薄かった。

島を1周して、内浦の民宿で「ワッパ煮」の昼食をとる。45名の食事を用意するのは大変だったらしく、いろいろ足りなくて、3人分のご飯がこなかったり、グラスが足りなかったり、お刺身が鯛の人や、ぶりの人がいたり、出ているものが食べ終わる頃やっとメインの「ワッパ煮」だ出てきた。 ワッパにお魚を入れ、焼いた石を入れて煮立たせると言うもので、今は、あらかじめ焼いた魚を使っているそうです。珍しいけれど、石がジャマだった。足りなかったご飯は焚きたての温かいご飯が出てきた。やっぱり、焚いていたんだ。

粟島は、新潟県岩船郡粟島浦村に属している。面積は、9.86kuで、286mの小柴山がある。縄文時代の遺跡が発見されているところから、すでにその時代には人が住んでいたと思われる。昭和36年の新潟地震により、島全体が1mも隆起し、水耕栽培がむずかしくなり、水田が姿を消した。東海岸は平坦であるが、西海岸は奇岩が立ち並ぶ断崖絶壁になっている。

港のそばにある、弁天岩。岩の上に弁天様が祀られていて、海の神、航海の神として信仰されてきた。新潟地震以前はこの岩は海に囲まれていた。池は海につながった海水である。

昭和25年には、1451人だった人口が、減り続け今では300人足らずになってしまった。離島を整備する条例により、港が立派になったが、今までの、家内工業的なイカ漁が、船が大きくなると、本土の酒井港のほうに持っていってしまうため、島の産業が錆びれ、人口が減ってしまったそうです。殆どの島民が本土にも家がある、二重生活になっているそうです。そういえば、ガイドさんも本土から付いて来た。 

船に乗り、酒田港に帰り、ガイドさんと別れ鶴岡のホテルに入る。夕食は、「米沢牛の陶板焼き」と「地魚の握りずし」など。蕎麦の実もでた。

半鐘、前は上のほうにつるしてあったが、最近はいたずらする子供がいなくなったので、下に吊るすようになった。今は、有線放送を使うので、半鐘は使われなくなったそうです。

小中学校。ここ9年休校だったが、介護のため5人家族が戻ってきて、小学生が3人になったので、また開校した。校長、教頭、担任、事務と職員のほうが多い。「ここは、少子高齢化ではなく、無子高齢化です。」と言っていた。

中村の部落の家々には、このような注連縄がぶら下っている。小物忌神社の火合せ神事が今日7月14日にあるそうです。鳥海山大物忌神社双方でかがり火を焚きあい今年の五穀豊穣、豊漁を祈願する。)

昔の水場、昔は水不足で、大変だったようだ。本土からタンクローリーで運んだそうです。

婦人火防組発祥の碑(漁に出ている男に代わって日本で最初の婦人消防組織(婦人火防組)が組織されその活動が全国に広まった。)

荒岬からは、島を南に縦断します。

この付近に来ると、盲島のジジ岩、ババ岩が良くわかる。漁師がこの穴を目印に帰島したそうです。

賽の河原の北に明神社が、御積島を向いて建っている。明治以前この神社は、外浦観音、飛鳥大明神などと呼ばれ、遠賀美神社(龍神)、小物忌神社(風神)を祀っていた。神社の歴史の中で色々な変遷を経ているらしい。囲いの石垣は、沖縄の石垣と同じだそうです。

賽の河原。烏帽子群島から賽の河原周辺まで、海台(海の台地)で、粉砕された玄武岩は潮の流れに乗って海台を転がり、角が取れて海岸にあがった。

かに

カメノ手(以前、屋久島の民宿で食べたことがある。)

御積島は、飛島の西方2kmにある島で、ウミネコの繁殖地である無人島。島内には、大きな洞窟があり、洞窟内の竜の鱗の形をした石がキラキラと輝くため、白竜の鱗紋として信仰され、女人禁制の聖地とされてきた。この洞窟を遠賀美神社の本殿とし、付近の烏帽子群島が神社の境内に例えられている。

小松浜海岸の百合島 ウミネコの繁殖地。小松浜海岸は、人工的に砂を入れた海水浴場。

飛島の歴史 島内では、6千年前の縄文時代の遺物が発見されている。遺跡の特徴は、北方系と南方系が混在するところにあり、その頃から、重要な文化の交流地点であったことがうかがえる。平安時代には、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏等の勢力下におかれ、その後、秋田の仁賀保氏、武藤氏、最上氏、酒井氏と移り、本島の名称も都島、渡島、分之島、鶴路島、潮島、豊島、とど島とかわり、江戸時代に現在の飛島となった。昭和25年に酒井市と合併した。

鼻戸岬と高正直島

新潟駅から新幹線に乗り、東京へ、新幹線を乗り継いで家に帰りました。

御積島 

ハクサンフウロ

ニッコウキスゲ

夜中に降った雨も上がり、村上市・岩船港からフェリーで、粟島に渡った。

バスで、鶴岡まで走り、2連泊のホテルに入り、「平田牧場の三元豚のしゃぶしゃぶ」などをいただく。

コバイケイソウ

イワイチョウ

遠賀美神社。(4月には、神事、鉾立、船行列など、数日に渡って家内安全や子孫繁栄、商売繁盛、大漁などを祈願する。)

トビウオのあごだしを袋に詰めていた。さっき売店で買ったあごだしはこのお婆さんが作ったものだろうか。

円福院

オカトラノオ

クルマユリ

ツリガネニンジン

蝋燭岩

釣人発見

地元のガイドさんと海岸遊歩道を歩く。

霧に包まれた中之宮。ここから月山山頂に行けます。

海岸遊歩道を歩く。

盲島

3日目