H.31.3.14~15
もう少し町を歩こうということになった。「多治見銀座」があり、「銀ぶら市」と書いてあるので歩いたが、店はほとんどなくすっかりさびれている。残った八百屋さんで「銀杏」を買う。中ほどに「多治見国長邸跡」がある。多治見国長は美濃守護土岐頼貞の一族で、多治見郷に在住したことにより多治見氏と名乗った。1324年、後醍醐天皇の密旨を奉じて鎌倉幕府討伐に京都に上った。この密事が露見し、国長の宿所京都錦小路高倉邸が六波羅探題に襲撃され国長は非業な最期を遂げた。この事件を正中の変という。
多治見にある永保寺の御開帳に合わせて多治見に行くことにした。前の日、午前7時49分の東海道線で浜松、豊橋、金山と乗り継ぎ、中央線に乗り換え多治見に10時59分に着いた。約3時間の鈍行の旅だった。
駅前のホテルに大きな荷物を預け、駅前地区にある本町オリベストリートに出かける。駅前商店街を抜け、ながせ商店街を歩く。途中に「虎渓道」の道標がある。虎渓山永保寺に行く道である。両商店街はシャッター商店街ほどではないが、人通りは少なかった。
陶磁器問屋などを見て回り、いったんホテルに帰る。夜また本町ストリートにもどり、「そば処 井さわ」で蕎麦をいただく。
梵音巌の上には六角堂がある。六角堂は霊揺殿ともいわれ、千体地蔵が祀られている。願をかける人が地蔵を借り、願が叶うと新しい地蔵を添えて返している。滝の水は虎渓山北西部にあるシデコブシの群生地付近の湧水集めている。六角堂の御開帳はなかったが、千体地蔵を拝みたかった。
開山堂(国宝)(入母屋造檜皮葺き。永保寺開創の夢想国師および開山仏徳禅師坐像が安置されている。1352年ころに足利尊氏が建立したといわれ、純正唐様ともいうべく、室町初期の代表的な建築です。祠堂の背面の裳層部に仏徳禅師の墓と言われる石造宝篋印塔がある。その前に夢想国師と仏徳禅師の坐像が安置されている。
僧堂・座禅堂(雲水修行の場であり、大小の禅堂と侍者寮がある。臨済宗ではこの禅堂は食堂、浴堂とともに三黙堂と言われている。正面には文殊菩薩が祀られている。)
多治見市は、岐阜県の南部に位置し、美濃焼の産地として知られている。市内には由緒ある窯元や陶磁器に関する美術館、資料館、ギャラリーが点在している。美濃地方における陶磁器の集積地として古より繁栄してきた。 美濃焼は平安時代に作られた須恵器から発展してきた。隣接する瀬戸ほどではないが、古瀬戸系施釉陶器を焼くあな窯による陶器生産が開始された。桃山時代になると、志野焼に代表される「美濃桃山焼」が焼かれ、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、織部焼が生み出され「御深井」が焼かれる。
かっぱ広場があり、織部焼の河童の置物がある。ここでは、毎火・水曜日にかっぱ市が開かれているようです。屋根神様が祀られている古い民家がある。屋根神様は岐阜県や愛知県を中心に屋根の上に祀られている神様のこと。庶民の間で、近くに神様がいないため、身近に信仰したいということで屋根の上に祀った。多治見のマスコットキャラクターは「うながっぱ」で、やなせたかし氏が制作した。
朝ホテルを出て、駅の反対側にあるバス停に向かう。歩いても30分くらいと聞いていたが、バスに乗り、「虎渓山」で降りる。しばらく歩いていくと、「虎渓山永保寺」がある。臨済宗南禅寺派の寺院で、雲水の修行道場(僧堂)である虎渓山道場を併設している。
神輿には鳳輦(ほうれん)御前神輿、陽物神輿がある。鳳輦とは田縣神社の祭神(御歳神)の御神像を神輿に収めて引く。御前神輿は祭神玉姫命の背の君である「建稲種命」の御神像を神輿に収めて担ぐ。陽物神輿はお供え物の「大男茎形」(おおおわせがた)を神輿に収めて担ぐ。おおおわせがたは直径50~60cm、長さ厄2m、重量250~300kgである。
田縣神社の豊年祭は毎年3月15日に執り行われる。この祭りは直径60cm、長さ20mあまりの大男茎を毎年新しく檜で作成し(大工さんが毎年作るのだそうです。)厄男が神輿に担ぎ、御旅所から行列をなして田縣神社に奉納し、五穀豊穣、万物育成、子孫繁栄を祈願する。天下の奇祭と言われてる。
多治見駅に戻り、中央線で大曾根に出て、地下鉄名城線に乗り換え、平安通駅から上飯田経由小牧線に入る。「田縣神社前」で降りる。
永保寺は観音堂と開山堂が国宝に指定されている。いつ行ってもお参りができるが、3月15日は涅槃会に合わせて、御開帳がある寺宝の風通しで、歴代住職の書や「釈迦涅槃図」が飾られ、涅槃図の説明があった。今まで涅槃図を見てもお釈迦様の死を悲しんで万物が嘆き悲しんでいる図と解釈し、細部を見たことはなかったので、ためになった。
今年は熊野社が御旅所で、熊野社に置かれている「おおおわせがた」を見学する。午後2時に行列が熊野社を出発する。少し進んでは休むので,遅々として進まない。見学者にお酒とつまみがふるまわれる。小さな陽物を抱えた女性の姿もあり、皆それを撫でている。先回りして田縣神社で行列を待つ。3時30分前に行列が神社に入ってくる。隣にいた夫人が息子さんが厄年で神輿を担ぐということで、楽しみにしていた。お神輿が前を通り息子さんも分かったようでお母さんは名前を叫んでいた。
田縣神社の祭神は「御歳神」御神豊穣の神、「玉姫命」子宝・安産の守護神、創建は弥生時代までさかのぼる。古来より男茎形(おわせがた)をお供えする風習があり、五穀豊穣、国の発展を神に祈ったと伝えられる。
ちょっと湿ったところがあるが、水量が多いとそこに滝が現れるようだ。展示された屏風に滝が描かれていたので、どこにあるのだろうと思っていた。
国の名勝である「永保寺庭園」と「無際橋」。永保寺開創・夢想国師は中近世の日本庭園の発達に大きく貢献した作庭家として知られている。観音堂西の岩山を梵音巌、これにかかる水流を梵音の滝といい、今も水が流れている。池は臥龍池とも心字池ともいわれている。池にかかる橋は無際橋といい中央に屋形が設けられている。
旧銀行のカフェ
2日目
お昼になったので、先ほどの「魚関」に戻り「うな丼」をいただく。関西風で皮がパリっとして美味しかった。いつもは蒸して焼いた柔らかな鰻を食べているので、新鮮な食感だった。 魚関は明治30年に、村手関三郎氏が鮮魚商として創業。大正時代に料理屋としての店舗を構えた。それにしてもこのあたりには鰻を出す店が多い。
下街道とは、善光寺道とも呼ばれ名古屋と中山道(大井宿)恵那を結ぶ脇往還であった。商店街の陶器屋さんに昔の商店街の写真があり、そこに(下街道ははじめ土岐川に沿ってあったが、洪水がたびたび起こるので、こちらの通りに付け替えられた。)とあった。
本町は昭和初期まで、この地方の陶磁器問屋街で、今でも残る商屋や蔵を生かして、ギャラリーや飲食店が並ぶ。「織部うつわ邸」が大きくてたくさんの器を見られた。ひな人形や、五月人形も飾られている。
心配していた雨も降らず、永保寺、田縣神社と見て回れた。それにしても、変わったお祭りで、毎年作った男茎は払い下げられるそうです。結構な値段だそうですが。
名古屋に出て、新幹線、東海道線で藤枝に帰った。
土岐川の袂に「魚関」という鰻屋さんがあり、「鰻塚」があった。土岐川を多治見橋で渡ると、オリベストリートがある。
観音堂(国宝)一重裳階(もこし)付き、入母屋檜皮葺きの仏殿。南朝時代のもので、「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩が須弥山上の岩窟厨子の中に安置されている。岩窟は108本の流木で造られている。1314年、無双国師が虎渓に来られた翌年に建立されたとされ、禅宗伽藍の中では一番重要な仏殿である。
光明天皇勅願所碑
2003年9月に本堂、大玄関、庫裏が火災で焼失した。2007年に庫裏が完成し、本堂と呼ばれる方丈華蔵庵と唐破風の大玄関は平成23年に竣工した。
樹齢約700年の銀杏の木
本堂には新しく作られた「聖観世音菩薩、文殊菩薩、勢至菩薩」が祀られている。