雀宮~徳次郎
2023.5.24~25
東海道新幹線、東北新幹線と乗り継ぎ、宇都宮まで行き、雀宮に戻る。9:13、雀宮駅から歩き始める。駅から、街道に出て、右折し、暫くすると、右手に「馬頭観音」が祀られている。祠の中に安政5年建立の馬頭観音や生駒観音、勝善神が安置されている。
釜川にかかる弁天橋を過ぎると、左手に光明寺がある。寺前には野沢村の立場があった。将軍日光社参の際には、境内に御茶屋が設けられた。道の反対側の奥に進区と奥州に落ち延びた義経を追う静御前のサクラの杖が根付いたといわれる「靜桜」があるという。境内に平成25年に移植された靜桜の木が2本ある。一枝に花弁が、一重、八重、かぶとが混じる。
細谷新道を過ぎると、文星芸術大学の手前に「上戸祭の一里塚」がある。両塚とも並木の外側に原形を留めている。昭和58年に修復整備された。江戸日本橋より28里目。
宇都宮環状線を横断すると、国道119号線に沿って桜並木が始まる。歩道が一段高くなったところにあり、歩きやすいが、容易に向こう側に渡れない。
その先は、枡形の痕跡を残した鍵の手になっている。
そこから40分程歩き、栃木医療センター交差点を左折し、その敷地内に入ると「宝の木」がある。和名は「コノテガシワ」で、推定樹齢約450年、樹高8m、目通り幹囲 1.1m。「宝木」の地名由来になった。旧国立栃木病院。旧帝国陸軍第14師団の駐屯地で、栃木医療センターは師団司令部跡。
その先の左手に「一向寺」がある。応永12年(1405)宇都宮12代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像は「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異変が起こる前に汗をかくといわれ、関東大震災の前にも汗をかいたという。国指定重要文化財で、日曜日に拝顔出来る。
左側に「富士重工工場」があり、「この地にて、鉄道車両を製造す。1946~2003」と書かれ、車輪が飾られている。その先でJR日光線高架橋を渡る。眼鏡橋とあるが、上からは分からない。
その先の右手に菅原道真を祀る天神社、「菅原神社」がある。この辺りは、台新田村立場跡で、高札場があった。領内の名主や町年寄は、当社で宇都宮藩主参勤の送迎を行った。将軍社参の際には境内に仮の御茶屋が設けられた。
その先の右手に「雀宮神社」がある。長徳3年(997)八幡太郎義家の創建。雀宮村の鎮守。正徳3年(1713)東山天皇より金文字で「雀宮」と書かれた「勅額」が下賜されたため、日光社参の将軍や大名は参詣を常とした。社殿の裏には、御神木の大ケヤキが立っている。
山王団地入口交差点のところに「大谷道道標」が植え込みと草の間から頭を出している。富屋小学校前バス停のあたりが徳次郎宿の江戸口であった。
下金井町に入り、宇都宮北道路高架をくぐる。上金井町に入ると「高谷林の一里塚」がある。東塚は昭和58年に補修され塚木は杉、西塚は原形を残し塚木は桜と桧。江戸日本橋より29里目。
東北自動車道高架をくぐると、右の土手の上に「第六接合井」がある。大正4年建設の水道施設で、浄水の送水管にかかる水圧を調整している。レンガ造り上屋は登録有形文化財。
早朝バス乗り場に向かったが、清住行きのバス停には待つ人の長蛇の列ができていたので、タクシーで向かう。昨日の延命院の前でおろしてくれた。案内板に「延命院のトチノキ」とあるので、もう一度入ってみた。地蔵堂の後に樹高 18m、目通り幹囲 3.4m 樹齢 350年のトチノキが立っている。「とちぎの名木100選」に選ばれている。
宝勝寺の前を右折すると、右奥に延命院がある。木造延命地蔵菩薩立像(県指定)を安置する地蔵堂は享保年間(1716~35)の建立で市内最古。快慶の流れをくむ作風で、像高 175cm。門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」碑がある。住職良快から読み書きの手ほどきを受けた。
裁判所前を右折し、宇都宮小幡郵便局の先で左折する。この辺りが「奥州道中追分」である。右折すると「上野本陣跡」があるが、見落としてしまった。問屋を兼ね貫目改所が置かれた。右手に蔵作りの商家がある。油を商い副産物の油粕を肥料として農家に販売していた。
左手に「熱木(ねぎ)不動尊」がある。康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈念して彫った不動尊を祀っている。宇都宮城乾の守護仏であった。その先の右側に「歌橋番所跡」あるはずだが場所が分からない。ここには宇都宮城の木戸口があり番所が置かれていた。
東武宇都宮線のガードをくぐると「蒲生君平勅正碑」がある。高山彦九郎、林子平と並ぶ寛政三奇人のひとり。明和5年(1768)宇都宮で生まれる。尊王家で明治になって遺功が追賞された。
宇都宮宿は二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野国「一ノ宮」や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願した「討つの宮」を地名の由来としている。その後宇都宮藩の城下町として発展し、鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中一の賑わいであった。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒であった。
10分ほど歩くと、左側に「大榎」が聳えている。個人の家の敷地内にある。根方に鳥居と石祠が祀られている。
陸上自衛隊北宇都宮駐屯地を過ぎ、30分程歩くと、左手に「寿鶴(すず)薬師堂」がある。この辺りが、上横田村と台新田村の堺であった。台新田村は、当初「横田新田村」と呼ばれていたが、高台に位置しているところから「台新田村」と改称された。雀宮宿の助郷村であった。
雀宮宿へ
大沢宿へ
右側の住宅の門に「仮本陣・名主跡」と書かれている。「徳次郎宿」の説明版もある。
徳次郎宿(とくじら)は、下、中、上の三宿で一宿とし、10日づつ勤めた。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠72軒であった。
上御田入り口バス停付近から左の旧道痕跡に入り、その先で国道に合流する。
右側に「智賀都神社」がある。宝亀9年(778)日光二荒山神社の分霊を千勝森に勧請し、「智賀都明神」とした。徳次郎六ヶ郷の鎮守。参道の「長寿の夫婦ケヤキ」は推定樹齢700年、目通り幹囲 8.0m、7.3m 樹高 40mで、県天然記念物に指定されている。
徳次郎交差点を左折し、進むと「痣地蔵尊」がある。土中から掘り出された地蔵尊で、「痣」や「いぼ」に霊験あらたかという。街道に戻ると「見世蔵」の案内板がある。小日野屋が所有する石倉で、商店と住宅を兼ねている。建物の外壁には、徳次郎石が張り石として、庇にも用いられている。
その隣には下町薬師堂がある。入母屋風の二重屋根で、境内の覆い屋野中には、六地蔵石憧、如意輪観音像、十九夜塔、三面六ピ馬頭観音像が安置されている。
その先の左に入ると「赤岡神社」がある。神社脇には下町屋台庫がある。
すぐ先を左折すると「高尾神社」がある。境内の地蔵堂には「妙吉安産子育高地蔵尊」安置されている。堂裏の「妙吉塚」には宝篋印塔が安置されている。
その先の左側に「柿塚神社」がある。境内の神輿庫には、「石橋町無形文化財神輿師」作の精巧な神輿が保存されているというが、見ることはできなかった。長岡街道を過ぎると、左手に薬師堂がある。薬師如来を安置している。
右隣に「琴平神社」がある。四国金毘羅山の分霊を祀っている。境内には清住不動尊がある。
PM..3:00になったので、バスで宇都宮駅まで行き、今日の宿に入る。今日はお天気も良く、足もつることが無く、快適に歩くことができた。
2日目
街道に戻り、少し進むと、「桂林寺」がある。墓所には蒲生君平や戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。本堂は官軍の官舎隣、会津藩の襲撃を受け、灰塵に帰した。
左側に「三峯神社」、「宝勝寺」があるが、再開発のため更地になり、神社は分からず、寺は社殿がむき出しになっていた。宝勝寺参道前に、「宇都宮追分一里塚」案内がある。塚木は杉であった。江戸日本橋より27里目。
街道に戻ると、正面に「天満宮」がある。菅原道真を祀る。宇都宮城西の守護神であった。宇都宮西郵便局の角を右折すると「材木町木戸跡」がある。武家屋敷に通じる木戸があり、武士が場内に通う朝晩だけ開門され、日中は閉門されたため、「不明門(あかずのもん)」と呼ばれた。
その道の奥には「報恩寺」がある。茅葺の山門は寛永16年(1636)創建時のもの。境内には戊辰戦争で戦死した薩摩、長州、大垣藩士の「戦死烈士墓」がある。
街道に戻ると左手に「一向寺旧地蔵寺参道寺標」が立っている。その奥に「台陽寺」がある。墓所には戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。参道の「子安地蔵尊」は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊であった。
その先を右折し進むと左手に「新町のケヤキ」切株がある。昭和63年の案内板には(宇都宮城下の入り口に当たる場所に立っている。樹高 43m 目通り幹囲 7.9m 樹齢 800年)と書かれている。
不動前交差点を左折する。そこに「不動堂」がある。宇都宮朝綱が造立した不動明王が安置されている。昭和3年建立の石道標には「正面東京ニ至ル、右奥州街道及日光街道
左裁判所ニ至ル」と刻まれている。江戸時代の初めに「奥州街道」と日光街道を付け替えた。ここは旧街道の分かれ目であった。