R.1.5.23~25
夕食は「たたき」と呼ばれる近海で獲れたあおむろアジ、むろあじなどのすり身に調味料を混ぜて練ったものがでた。油で揚げた「たたき揚」とみそ汁にも入っていた。青いものはすべて「あしたば」で若芽をとるそうです。
すでに水はほとんど残っていなかった。利島の神様は池に入って暴れた。池の水が四方に飛び散り、神津島はいたるところで水が湧き出るようになった。この会議が行われたのが神津島の天上山に残る不入が沢(はいらないがさわ)と呼ばれる場所で、いまでも聖地とされている。
大島
神津島
港から坂を上ると「物忌奈命(ものいみなのみこと)神社がある。祭神は物忌奈命。三島大神(事代主命)の嫡子で神津島の開祖。長浜・阿波命神社に祀られている阿波ひめ命は母神。立派な銀杏の木が御神木であった。
(神社の表参道88段の石段、裏参道の47段の石段はすべて島の神津沢の上流から氏子が人力で運び出した。この礎石もその時切り出されたもので、表参道の入り口にあった大鳥居の一部で、平成17年の大地震の後、台風の強風を受け倒壊してしまった。)向かいの港に「ジェット船」が入ってきた。
今日もよく晴れて、暑くなりそう。予定では出発まで自由行動ということだったが、昨日のガイドさんに郷土資料館に連れて行ってもらうことになった。細い道の角には「猿田彦大神」「道祖神」が祀られている。
島旅は3月に計画されていた。藤枝駅をバスで出発し、各地を回って三島に着くと、「今日は波が高く下田から船が出ない。」ということで、そのまま帰ってきた。再度計画され、13人しか集まらなかったが旅が成立し、下田から「あぜりあ丸」9:30に乗って、神津島の神津島港に11:40に着いた。神津島は面積約19k㎡ 周囲22km、 人口約1900人である。
11:50新島の野伏港に着いた。新島は面積が約24K㎡で周囲は約28km、人口は2300人。港の売店にはくさやの干物が売っていた。最近は魚も取れなくなっているようです。ガイドさんと待ち合わせをしてガラス工房まで海岸沿いを歩く。
左の出っ張った所が跡
沢尻海岸で休憩する。白い砂浜が広がる海水浴場で、キャンプ場としても整備されている。若者が一人テントを張って本を読んでいた。
島には天上山、秩父山、神戸山などがあるが一番高いのは天上山で標高572mある。新日本100名山に選ばれ、岩崎郎朗さんも登っています。山頂近くには不動池があり、雨上がりにはハートの形になる。またオオシマツツジも咲く。
間々下海岸は透明度が高く磯遊びもできる。鳥ヶ島は昔切り出したコーガ石をここから船に乗せて積み出した。島にはその跡が残っている。
少し戻った右側に「まました温泉」がある。内風呂、露天風呂があり、砂風呂もあるようだが今日はやっていなかった。海をみながら露天風呂に入る。ちょうどよい湯加減だった。せっかくお風呂にはいったのにもと来た道を歩いて港に戻る。
もらった地図ではその先に「地鉈温泉」が書かれていたので、その先に行ってみるが行き方が分からないのであきらめて松が下雅湯に戻った。
神津島は古くは神津集島(かみのあつまるしま)と呼ばれていた。伊豆の島の神々が集まって会議をしたという神話に由来する。伊豆の島々の神たちが水の分配の話し合いが開かれた。その結果、次の日の朝、早く来たものからものから順番に水を分配することになった。一番初めに来たのが御蔵島の神だった。続いて新島、八丈島、大島で、最後に利島の神様がやってきた。
海岸に沿って歩くと崖の下に「閻魔堂」がある。中に入ると地蔵菩薩や数体の石仏があり、笑顔の閻魔像が安置されている。
渦巻き岩が見えてくる。神津島を代表する「流紋岩」の特徴が良く出た岩で、集落から温泉センターへ向かう道路沿いにある。流紋岩はマグマが地表付近で急激に固まった時にできる。
「温泉保養センター」に着いた。自然の岩を利用して作られた露天風呂に水着を着て入る。大きなほうは夏にならないと温泉が入らないということで、小露天風呂と展望露天風呂に入った。露天風呂に入ったのは4人だけで、あとの人たちは内風呂に入ったようだ。疲れてしまって時間まで休憩場で休んだ。
村営バスで港まで戻り、民宿に分宿するので、迎えに来た車に乗って今日の宿に入る。
キンメダイの煮つけ、カツオのお刺身、明日葉の天ぷらなどの夕食をとる。海が近いというので夕日を見に行った。午後6:40くらいだった。
郷土資料館に着いたが、時間が早くまだ開いていなかった。隣には昨日行った「物忌奈命神社」の鳥居がある。石段を上がりうっそうとした道を歩いていくと、神社に出た。裏参道だ。境内には木の幹に穴が開いた洞が祀られている。
郷土資料館に入り島の成り立ちや展示されているものを説明してもらった。この島では黒曜石が採れた。黒曜石とは流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出し、急に冷やされることで生じる。割ると鋭い歯断面が生じることから、先史時代からナイフや矢じり、槍の穂先の石器として用いられた。関東では箱根、天城山、神津島にある。
今年8月18日に「第50回ジュリア祭」が開かれたことを昨日、島のTVで見た。ジュリアとは17世紀の初頭、家康の棄教の命令に背いて神津島に流されたキリシタンの侍女で「おたあジュリア」のこと。ジュリアの石碑もありその前でジュリア祭が行われたようです。本土からのカトリックの神父さんが何名も出席されていた。朝鮮出兵の際に小西行長が三歳の幼女を連れてきて養育した
港の近くに「水配り像」がある。寝転んでいる利島の神様がこの後暴れて水が四方に飛び散った。という伝説に基づいている。
「希望の丘」には、コーガ石の彫刻が並んでいる。
ガラスアートセンターは島特産のコーガ石をガラス細工に使っている。新島以外での採掘は、世界でもイタリアのりバリ島のみという貴重な産物である。工芸体験も楽しめる。うすみどり色のきれいなガラスの器や花瓶、造形物などが売られている。
新島にはあちこちに「モヤイ像」がある。コーガ石の像で渋谷のハチ公のところにもあるそうです。「新島~式根島」の連絡船が出ている桟橋で「にしき」に乗る。式根島の野伏港に着いた。民宿の車で「石白荘」に向かう。今日も分宿で、私たちは4人だけだった。
3日目
漁港の先に「松が下雅湯温泉」がある。ここで水着にきがえて早速湯船に入る。手前の池は熱く、海岸に近いほうはちょうどよかった。しばらくすると違う民宿に泊まった人が来て一緒に「足付温泉」に向かう。
海岸に沿って歩くと「足附温泉」があった。解説によると(寛政17年の「伊豆七島風土細覧」によると、「敷根島の温泉に浴すれば・・・・・」とあるので、早くから湯治の人があり、200年前には新島の人は足附の浜に小屋掛けをして利用していた。温泉は磯浜から吹き出し、干潮時には50℃近くになり、硫化水素を含み外科的疾患に効果があるといわれている。潮の満ち干で湯加減が変わる。)ちなみに先ほどの松が下雅の湯は内科的疾患に効果があるという。入ってみたが、苔が生えていてぬるぬるするし、今は干潮でお湯はぬるかった。しっかり管理整備されていない感じがした。
宿に帰り、朝食をいただいて、集合場所に車で送ってもらう。親切なおじさんは、昨日と違う道を走ってくれ、いろいろ説明をしてくれた。「養殖場」は太平洋の潮の満ち干を利用して真鯛やシマアジなどを養殖している。
地鉈温泉に降りる崖の上で車を止めてくれた。足附温泉から「いこいの家」まで出て足付展望台のある小山を越えたその先にある温泉だった。そこからまた崖下まで降りていく。寅さんのロケ地でもあるということだった。 解説によると(大地を鉈で割ったような峡谷を下りていくと、海岸沿いの岩と岩の間から温泉が湧き出ている。神経痛や胃潰瘍などの内科的疾患に効果がある。干潮時には80℃を越える。以前は大変険しい道だったが、明治41年に泊浦の港工事に来島した静岡県の石工が道を造り整備した。)
日陰を探しながら舗装された道を歩く。左側に「吹之江遺跡」がある。ガイドが地層を指さして説明してくれた。(昭和40年代にヘリポート建設の際に発見された。上部に「白ママ」と呼ばれる886年生成の新島向山の火山灰、その下部に「灰トジ」と呼ばれる838年生成の神津島天上山の火山灰の堆積が見られる。遺物包含層は灰トジを挟んで上下に存在し、上部からは平安時代、下部からは奈良時代の遺物が出土している。更に下層には縄文時代の包含層が続いている。)素人には良く分からなかった。 その先の閉められている敷地がヘリポートになっている。
「泊神社」がある。(この神社は七島の開神、事代主命の后神の久爾都比め命を祀っている。是より北方に御池、泊御途口などの神話に語られる広大な神域がある。古来より島の鎮守として親しまれている。)神域では子供たちは悪さをしないということでした。
泊海水浴場がある。名勝・泊浦は神話の中や出土する遺物などで、この入り江が古くから使われていたことがわかる。江戸時代、三宅島や八丈島へ向かう船はここで風待ちをした。近くにある「帆縫原」は帆の修理をした場所と言われている。慶長5年(1600)関ヶ原合戦で敗れた西軍の宇喜田秀家は八丈島に島流しになったが、その途中この浦で何日か風待ちをした。明治21年、新島から8名が移住することになった。明治42年に日本で最初の漁港整備工事が完了した。当時の「なまこ型桟橋」、石張りの船揚場跡が残っている。
錆崎トンネルを抜けると「錆崎海岸」の説明がある。
2日目
式根島、
足湯に入ったり、温めの湯につかったりしてのんびりした。このような露天風呂に入ったのは初めてで、こんな感じいいな。
途中で、天草を積んだトラックに出会った。天草は島の特産品である。
集合場所の神引展望台に行くとガイドさんが待っていて説明を始めた。式根島の形は北海道に似ているという話から始まる。カンビキ山展望台に上る。標高98.5mで北に伊豆半島、富士山、南に三宅島、硫黄島、神津島など晴れた日には360度の大パノラマが見える。しかし今日は晴れているものの、遠くはかすんでいた。神引湾の水の色が透きとおっていてすばらしい。
朝早く起きて昨日行けなかった海岸にある温泉に出かける。途中「式根島まいまいず井戸」がある。(明治21年、式根島開島当時、新島から移住してきた人は足付き海岸の釜場の水を飲んでいた。3年の歳月をかけてこの井戸を完成させた。「まいまいず」とはかたつむりのことで、井戸に降りる道の形状が似ているため。この井戸を中心に集落を形成しながら広がっていった。)今は新島から水や電気も引いているそうです。海岸に降りる前に「与謝野晶子」の歌碑があるということだったが見つけられなかった。昭和30年に訪れて詠んだという歌である。
式根島は、面積約3.9K㎡で、周囲は約12km(道路一周は約5km)人口は約520人である。別名を「式根松島」と呼び、美しい海岸線を描くリアス式海岸は大自然の芸術品と呼ばれている。
ママケーブル跡・ママケーブルは強風や季節風などの悪条件を克服するために、クリエートセンターの付近の丘から鳥ヶ島までケーブルでつなぎ、中鉱石やコーガ石、砂鉄やとじ、豚などを出荷するため、港代わりに利用された。当時はイラストのように鳥ヶ島に船をつけ、島の産物を出荷していた。
10:30の船で島を離れ新島に向けて出港する。島の観光協会の方とガイドさんがテープをもってお別れをしてくれた。今でも出航は「蛍の光」の音楽が流れる。いつまでも手を振ってくれた。
御池が見える。野伏港で大島行の船を待つ。鶴瓶さんに贈られた「ミニオン」の等身大のフィギュアが飾られていた。
2時間ほどで大島に着いた。大島は面積約91k㎡、周囲約52km(道路一周約44km)、人口約8000人。以前訪れたことがあったが、その時は土砂降りの雨で、「椿祭り」が行われていたが、寂しいものだった。三原山も見えず散々な旅行だった。今回は快晴で、三原山もよく見えた。展望台から溶岩先端部まで散策する。
三原山は海抜550mの三原山頂口より溶岩流先端までは平たんで、その先から一気に680mまで登り坂になる。約45分で噴火口まで行ける。
大島滞在はわずか2時間で、ジェット船に乗り込み、熱海に向かう。熱海でバスに乗り換え帰途に就いた。
港にある「よっちゃれーセンター」でキンメダイの昼食をとり、島のガイドさんと島の散策に出かける。港では「鶏冠海苔」(とさかのり)に塩をまぶし「塩蔵とさかのり」を作っていた。あとで「乾燥とさか海苔」を土産に買った。
伊豆七島は最近は「伊豆諸島」というようです。三宅島と 利島、御蔵島以外は訪れたことになります。どこの島もゆっくり出来たら良かったと思った。船で島を巡る旅も楽しいと思います。もっと若かったら、キャンプのできるし、夏は海水浴も楽しそうです。新島には神社があるそうなので、また是非行ってみたいです。地鉈温泉も入ってみたい。
夏になると海水浴客で賑わうようだ。今日も遊んでいる人がいた。
1986年11月19日、山頂火口から流れ出た溶岩は斜面を下り、カルデラ内に流れ出た。溶岩流の先端部で5mの厚さがある。表面は起伏に富み、ごつごつした岩塊に覆われている。このような溶岩をアア溶岩という。
コーガ石でできた神殿のような建物を過ぎると「湯の浜露天風呂」がある。丘の上にコーガ石でできた古代ギリシャ風の建物が見える。足湯もあった。
奇妙な岩が続き、湾の向こうに今日行く「温泉保養センター」が見える。
新島