今回の旅行は、今までのとは違っています。ANAと旅行社、地元のバス会社、旅館が提携して、四国周遊のA,B,C,Dコースを作って、お客を運ぶということになっていました。 早朝家を出て、羽田空港に着き、9時30分の松山空港行きに乗る予定だったが、前日の雪の影響か、1時間遅れの10時30分に出発して、12時過ぎに松山空港に着いた。待っていたバスガイドさんに案内されて、Aルートのバスに乗り込む。早速昼食会場の「りんりんぱーくー」に行き、「海鮮にぎり鮨と島鍋御膳」の昼食をとる。ここでも、私達の旅行社では、昼食がついていたが、ついていない旅行社もあった。添乗員がいないので、ガイドさんが注文をとったりして忙しそうだった。 例年では、この辺りは、雪が降らないのだが、今年は2回も降って、高速道路が閉鎖されたそうです。
H.26.02.16〜19
香川県仲多度郡琴平町の象頭山の中腹に鎮座する神社である。海上交通の守り神として信仰されており、長く続く石段が有名で、奥社まで登ると、1368段になる。例大祭には、毎年、「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
大天守は、三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年に落成した江戸時代最後の城郭建築。現存する12天守の中で、唯一瓦には、「葵の御紋」が付されている。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手の二の丸・三の丸を監視防衛する重要な位置にある。
備前焼狛犬
数分の所に「坂本龍馬生誕の地」の碑が建っている。下の石には説明が刻まれている。(郷士坂本八平の次男 本名・直柔 。江戸に出て千葉定吉に師事。北辰一刀流の目録を受ける。時勢に感じ、武市瑞山の土佐勤皇党に加盟。文久2年3月24日に脱藩。勝海舟門下生になり、神戸海運塾の塾頭になる。長崎に海援隊を組織し、中岡慎太郎と共に、薩長連合を実現。後藤象二郎とと協力し、大政奉還運動を推進し、目的を達する。彼の政治改革案「船中八策」は新日本の行く手を示す基案となった。慶応3年11月15日、京都の宿近江屋で同士中岡慎太郎と共に切られる。33才)
その後、四国八十八箇所霊場・第三十八番札所・蹉陀山・補陀洛院・金剛福寺に御参りをする。弘法大師堂では、白装束のお遍路さんがご詠歌を詠じていた。
紫竹門東塀・乾門方面からの攻撃に備えたもの。天明4年雷火のため天守と共に焼失し、嘉永期の再建と見られる。
松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸を置く蓮郭式平山城で、山麓から本丸にかけて全国的に珍しい「登り石垣」が配置されている。創設者は、加藤善明である。当時の天主は五重であった。その後蒲生氏郷が入国し二の丸を完成させる。その後、伊勢桑名城主松平定行が城主となり、五重の天主を三重に改築する。その後、落雷により、天守が焼失し、12代藩主勝善の時、悲願の天守が復興した。これが、現在の天守閣で、姫路城と並ぶ連立式天守を持つ、我が国最後の完全な城郭建築と言われる。
ホテルから数分で「道後温泉本館神の湯」があります。ホテルで入浴券を貰って出かけました。道後温泉本館は、北に神の湯本館、東に叉新殿・霊の湯棟、南に南棟、西に玄関棟が互いに接続して建つ複雑な構成を持つ。現在の姿は、明治中期から昭和初期にかけて整えられた。 1階に神の湯、2階に霊の湯がある。また、叉新殿は、皇室専用浴室で、御影石の最高級品・庵治石を使った浴槽がある。最近60年は使われていない。屋上にある振鷺閣の太鼓は、時太鼓として朝6時、昼12時、夕6時に打ち鳴らします。
境内には、「能因法師・雨乞いの楠」がある。説明板によると(樹齢3000年の日本最古の楠で、後冷泉天皇の御世(900年前)伊予国守藤原範国は能因法師を使者として祈雨の為、参拝させた。その時、天の川 苗代水にせきくだせ 天ふります神ならば神 と詠じ幣に書き付け祈請したところ、伊予国中に三日三晩雨が降ったと伝えられる。)
その後北上し、瀬戸内しまなみ海道を通って「大山祇神社」に向かう。大山祇神社(おおやまずみ)は、今治市大三島町宮浦にある神社で、式内社、伊予国一宮。全国にある山祇神社の総本山。主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧進した三島神社は、四国を中心に北海道まで広がる。静岡県の三島大社ともに三島神社の総本山でもある。
愛媛県今治市にある、世界初のタオル文化を提案する施設である。タオルの製造工程を見学できるコットンロードや、タオルアートの展示、タオルコレクションショップなどがある。2014年トーベ・ヤンソン生誕100年・ムーミンの世界展〜ようこそムーミン谷へ〜が開かれていて、沢山のムーミン谷の住人が出迎えてくれた。中国製の安いタオルにおされて、現在は、高級なタオルに転換して、生き残りを図っているようです。
旭社
山門
金比羅本教総本部
来島海峡大橋
坊ちゃんからくり時計=振鷺閣(しんろかく)を題材に作製された。1時間ごとに上演されます。
鶴姫ロードに鶴姫の銅像が建っていた。鶴姫は、戦国時代の伝承的な女性。伊予国・大山祇神社の大宮司・大祝安用の娘。1541年、大内氏配下の水軍・白井氏らが侵攻すると、神職となった兄に代わって、次兄・安房が陣代になった。安房は、河野氏、来島氏と連合し、大内軍を撃退したが、安房は戦死する。その後、安房に代わって16歳の鶴姫が陣代として出陣する。この戦いで、戦死した兄や恋人を思い入水自殺をしたと伝えられる。(鶴姫伝説)宝物館には、鶴姫愛用の胴丸が保存展示されてていて、現存する唯一の女性用胴丸である。
タオル美術館ICHIHIRO
灯明堂と釣灯篭
今日のバスの走行距離は、約258kmである。
和霊神社
一ノ門は、天守に通じる本壇入り口を守る門で、木割りも大きく、豪放な構えとなっている。形式は、上方からの攻撃が容易な高麗門でニノ門との間は枡形という方形空間になっていて、ニノ門南櫓・小天守・三ノ門南櫓から攻撃できる。
筒井門は、築城の際に、正木城から移築されたと伝えられる松山城最大の門である。三の丸・二の丸から本丸に向かう大手の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な所となっている。
乾櫓は、築城当初の二重の隅櫓で、本丸の隅の石垣の上に鈍角の櫓が建っている。乾門・同東続門と共に、搦め手を防衛する重要な門である。
今日の宿は、「ホテル椿館」である。「明治レトロの趣たたよう宿」ということで、坊ちゃん、マドンナのお迎えがありました。夜9時からは、伊予の伝統芸能「水軍太鼓」生演奏があり、勇壮な音が広々としたロビーに響き渡りました。
大山祇神社
ジョン・万次郎は、現在の土佐清水市の半農半漁の家の次男に生まれた。父の死去、病弱な母や兄に代わって家族を養っていた。天保12年、漁に出て、嵐に遭い、仲間4人と共に遭難する。無人島・鳥島に漂着し、143日間生活する。アメリカの捕鯨船ジョン・ハイランド号に救助される。アメリカに渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子になり、勉強する。その後鎖国の日本に帰国する。坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物といえる。バスガイドさんは、「大河ドラマでとりあげてくれないかなー」と言っていました。
瀬戸内海しまなみ海道は、広島県尾道市を基点として向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島をへて愛媛県今治市にいたる延長59,4kmの自動車専用道路である。
本宮から見た風景
時間の関係で、奥社までは行けなかった。帰りは、階段でない道を歩いて下りました。 高松空港から帰るために、1号車から2号車に移って、空港に行きます。今日は、高松に泊まってEルートを旅する方たちもいます。空港で、「讃岐うどん」を食べ、羽田空港に向けて飛立ちました。
龍馬の格好をして記念撮影する同じバスの男の子
龍馬の部屋
駅前広場の志士三人 武市半平太、中岡慎太郎 竜馬は補修中でいませんでした。
はりまや橋
今日の宿は「城西館」で、耕地で一番の旅館だそうです。「皿鉢料理」を堪能しました。
坂本龍馬の銅像
投網漁・小船の舳先から網を投げて、魚を捕まえる。「土佐打ち」とも呼ばれる独特の投げ方で、大きな網を操ります。今日は、2回投げてくれたが、網には何もかかりませんでした。また、クーラーボックスの中も空でした。今日は、不漁のようです。
アカメ・西日本の太平洋岸だけに分布し、河口などの汽水域によく進入する大型の肉食魚。目が赤いのでこの名が付いている。これは体長30cmほどだが、大きなものは1mをこえる。大きくなると美味しくないそうです。(茶店の水槽で)
柴漬漁・椎の木などの枝を束ねた物(柴)を川に沈め、枝の間に潜んでいたウナギやエビなどを柴の束ごとすくい取ります。今日は、小さなウナギと蟹が3匹取れました。窓から蟹をほおりなげて見せてくれました。
四万十川遊覧・四万十川は高知県西部を流れる四国で最長の川である。屋方船に乗り、お弁当を食べながら、ガイドのおじさんの名(迷)調子に笑い転げる。
佐田沈下橋に行く。沈下橋とは、増水時に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のことである。河口から一番近い沈下橋は、佐田沈下橋で、最も長く、291、6mある。四万十市内だけでも9箇所の沈下橋があるそうです。
ジョン・万次郎の銅像が建つ。左右の足場は万次郎と同じ目線で風景を見るために作られて、2月一杯設置されていると言うことを後でTVで知った。この日は風雨が強かったので、誰も上る人はいなかった。
足摺岬灯台
今日の走行距離は、約201kmでした。
今日の宿は、「四万十の宿」です。お料理も美味しく、露天風呂は海水のお風呂でした。
和霊神社は、宇和島市街地の北端、鎌江城跡に鎮座する。宇和島藩家老・山家公頼を主祭神とする。山家は伊達政宗の家臣であったが、政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに伴い家老として、藩政を支えた。元和6年、藩主秀宗は、公頼を嫉妬する藩士による諫言を信じ、公頼とその息子らを殺害した。「和霊騒動」公頼を慕う領民が密かに城北森安の八面荒神お境内に祠を設け公頼一族の霊を祀った。その後、無実が判明したため、公頼を祀る神社を創設し、山頼和霊神社とした。
宇和島真珠会館で、「宇和島名物・鯛の姿盛り御膳」の昼食をいただく。普通鯛めしと言えば、米の上に鯛をのせ炊き込み、身をほぐしていただくが、こちらでは、鯛の刺身をたれに漬け込み、その汁ごとご飯にかけていただくというものでした。変わっていて美味しかったです。また、左上の皿は、「ふくめん」と言って、味付けした糸こんにゃくの上に、ネギ、そぼろ、卵などを覆面のように載せたもので、混ぜていただく。
二宮敬作先生住居ノ碑「女医イネ発祥の地」(文政10年、父ドイツ人シーボルト、母滝との間に、長崎にて誕生する。14歳から5年間、卯之町で二宮敬作の指導により、日本初の女医が誕生した。安政元年、敬作から一般医学、村田蔵六から蘭学を学び、産科医に成長した。後、上京し、宮内庁御用掛など大きな足跡を残し、明治36年76歳で世を去った。)
酒屋さん
松屋旅館
末光家住宅
開明学校
申義堂
宇和民具館
加藤善明公の銅像
天守閣から見た風景
三ノ門は、本壇における3番目の門で高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓、天守閣から射撃される構えとなっている。天明4年に焼失し、安政元年に再建される。
太鼓門・同南北続門・巽櫓はひとつの防御単位を構成し、高さ5mの石垣に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えている。
Bルートのバスに乗り込み、松山空港に今日のお客さんを迎えに行き、1号車には、4人の乗客が乗ってきました。
坊ちゃんの登場人物が登場します。一番下は、温泉です。
放生園(建武年間に伊佐爾波神社が現在の所に移された時、境内の御手洗川の引水をたたえて池が作られた。この池は放生池といい、聖浄の地とされたが、現在では埋め立てられてこの公園となっている。1羽の傷ついた白鷺が、湧き出る湯で傷を癒したのが、道後温泉の始まりという伝説に基づく、足跡の残った「鷺石」や明治24年から昭和29年まで使用された「湯釜」などがあります。)
湯釜から湯が流れ出ていて、足湯になっている。
伊予鉄道・道後温泉駅
坊ちゃん列車
2日目
1日目の走行距離は、約210kmでした。
楠の大木に「大山祇神社楠木群」の説明板があった。(境内の楠は、昭和26年、国の天然記念物に指定された。指定樹38本の他、大小約200本の楠が群生する。)
四国は、学生時代に友人とまわっているので、約45年ぶりとなります。行った所、行かない所がありましたが、風景はあまり変っていないような気がします。しまなみ海道などは、もちろんその頃はなく、宇高連絡船の時代でした。夫は、四国八十八ヶ寺を自転車で、まわっているが観光はしていないので、今回が初めてということでした。 季節的に、まだお遍路さんが歩く時期ではないので、四国は静かで、穏やかな所でした。道後温泉もそんなに寂れた感じはなく、ゴミも落ちていない綺麗な街でした。
琴陵宥常像(元金比羅宮宮司)
バスで1時間ほど走って、香川県の金比羅山に着いた。麓の総本山善通寺に行く人達と別れて、地元のガイドさんと一緒に参道を歩き始める。
大歩危は、吉野川の中流域に位置する渓谷。数キロ先の小歩危と共に、大歩危・小歩危と一括りにされることが多い。「ほき」「ほけ」は、断崖を意味する古語で、大またで歩くのは危険と言う意味ではない。 この地域の地質は、変成岩類で構成されている。川に沿って、土讃線が走っている。
高知駅前にある「龍馬伝 ・幕末志士社中」を見学する。大河ドラマ・龍馬伝で使った龍馬の生家セットを再現している。
昨日のバスの中から、旅館の近くに「龍馬生家跡の碑」があったので、散歩がてら早朝出かけた。旅館には、「皆様に支えられて140周年」の垂れ幕が塀に掛けられていた。吉田茂元首相の顔もあった。
椿の咲く道を通って「天狗の鼻」から岬を臨む。
天気予報では、今日は雨ということだったが、予報どおり朝から雨が降っている。しとしと降る雨は四国では珍しいらしい。ホテルの車で、バス乗車場に行き、Cルートのバスに乗車します。雨の中、足摺岬に向かって走ります。
松屋旅館には、ご来館の著名人や、宿泊した著名人の名前が書かれていた。尾崎行雄、後藤新平、前島密など、知っている名前も何人かいました。
開明学校で、明治の授業を受け、修了書をいただく。
西予市宇和島散策
ニノ門は、本壇のおける2番目の門で、薬医門の形式を持つ。天守閣三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。天明4年に焼失し、安政元年に再建される。
松山城
マドンナに見送られて椿館を後にします。ホテルの車で、集合場所の「からくり時計」前に集合する。
「高野長英の隠れ家」(高野長英は、岩手県に生まれ、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。長英は「夢物語」渡辺崋山は「慎機論」を書き、「蛮社の獄」で入牢する。入牢5年目に、獄舎が火災になり、一時釈放され、そのまま逃走する。諸国の門人や学者、宇和島や薩摩藩主に守られながら6年間潜行する。宇和島、薩摩などに潜伏するが、嘉永3年江戸にて、捕縛され、自刃する。)
3日目
4日目
上演前
足摺岬は、高知県土佐清水市に属し、太平洋に突き出た足摺半島の先端の岬。
路面電車の走る市内を見学しながら、高知空港に今日から参加する客を迎えに、高知空港にバスを走らせる。時間になっても来なかったようで、キャンセルがこちらのバス会社に伝わっていなかったようです。今日はDルートを走ります。
大歩危峡遊覧
金比羅宮
本宮