H.30.1.7~8

滋賀・洛南2日間

新年の御開帳 光明寺の重文・薬師如来像と志賀・洛南 11ヶ寺の重文を訪ねて

東京から来る参加者と米原で合流した。冷たい雨の中、9名の参加者とお寺詣りに出発する。

光明寺

佛性寺

梵釈寺

光明寺滋賀県東近江市下羽田町にある浄土宗の寺院である。聖徳太子ゆかりの巡礼堂であった。今日は法事があるということで、終わるまで15分程バスの中で待った。

福林寺

志那街道の解説がある。(志那街道は志那港を起点として、片岡、長束などを経由し、守山市今宿にいたる全長約7kmの街道である。)和尚さんも、琵琶湖周廻道路ができるまでは、このお寺のすぐそばまで湖が広がり、向かいの港から船で来て、奈良まで続く道があったと、嘆いていた。その時湖に生えていた葦が消滅し、生態系が変わり、湖の水が汚れ、魚も採れなくなったということです。

蓮海寺滋賀県草津市志那町にある最澄が開基したと伝えられる浄土州の寺である。水難除けの地蔵様として知られ、信仰を集めて来た。御本尊の木造地蔵菩薩は、全体的に黒ずんでいるが、衣に彩色されている。鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。

蓮海寺

重文・阿弥陀如来坐像は膝上に定印を結び、定朝様の阿弥陀像の流れを汲むものであるが、硬化現象をたどるこの時代の像にあっては、優れた作である。平安時代後期の作と考えられる。木造、漆箔、像高は281,5cm。

重文・木造十一面観音立像、平安時代、像高162.2cm、ヒノキ一材、内刳り後頭部 背面、両肩以下を矧ぐ。頭上面彩色は後補。彫りは浅い。奥の収蔵庫に安置されている。

福林寺守山市木浜町にある。桓武天皇の勅願によって最澄が開いたとされる。もとは野洲にあったが、戦国時代に現在の場所に移り、再興された。本尊。木造十一面観音像は井上靖の「星と祭り」の中で「天平の貴人」と評したことで知られている。境内の石造宝塔は頼朝方の武将・佐々木高綱が「宇治川の戦い」に出陣する折に建立した。

護摩堂(不動堂)に安置されている半六丈の木造不動明王坐像は近江最大と言われ、脇侍の二童子とともに国指定重要文化財に指定されている。不動明王、平安時代、像高 142.4cm。二童子105cm。  

東門院

冷泉寺はこの地域唯一の曹洞宗寺院。山門は古いものだが、御堂は建て替えられコンクリート製である。ここの本尊・千手観音は冷泉寺の前身であり七堂伽藍を備えた曼荼羅坊という巨刹で千手観音もそこの本尊であった。彫りのはっきりした平安仏で顔は厳しく口元をしっかりと結んだ実直さが伝わる表情。千手の表情が印象的で、厨子いっぱいに拡がる姿は木の根のように力強く延びている。木造、高さ107cm。

泉寺

石造 宝篋印塔 鎌倉時代末の建立刻銘がある。石材は日野町蔵王で産出する米石と言われる花崗岩が使われている。

重文・宝冠阿弥陀如来坐像は、本来観音菩薩として指定されている。金剛界八十一尊曼荼羅に描かれている阿弥陀如来像を彫像したものだからである。頭上に高く髷を結い、通肩の衲衣を纏って、腹前で両手を組んで、定印を結んでいるところから、宝冠阿弥陀如来と呼ばれる。ヒノキの一材で彫成し、肩幅広く、胸の厚さもあり、量感豊かで、着衣には翻波式の衣文が見られる。平安前期の優品である。像高 120cmである。

梵釈寺東近江市蒲生岡本町にある。創建時期は不明である。享保13年京都宇治・黄檗山万福寺の末寺となり、現在に至っている。近江商人で謄写版の発明者堀井新次郎父子の菩提寺でもある。

雨の降る寒い一日が終わり、南草津駅前のホテルに入る。

重文・阿弥陀如来像は鎌倉時代後期、ヒノキ材寄木造、玉眼、漆箔、高さ97,5cm。右手は屈臂し、左手は下垂して第一・三指をそれぞれ捻ずる。東部の表現や衣文の彫法、衣の着し方などから鎌倉時代後半の作と考えられる。

敬恩寺は金勝山の北に立つ浄土宗の寺院。開基は不明だが、本尊の台座に記された銘によると、室町時代、明応7年(1498)に浄土宗寺院として建立されたとされる。

敬恩寺

安養寺栗東市安養寺にある。聖武天皇の勅願によって創建され、良弁僧正が開基。真言宗湧泉派の寺院である。室町9代将軍足利義尚の陣所だった。天平12年、聖武天皇により建立、弘法大師復興の古刹である。重文・薬師如来坐像は木造、像高136.8cm。薬師如来は薬師瑠璃光如来とか大医王仏とも呼ばれ、東方瑠璃光世界の教主で、人間の病苦をいやし、内面の苦悩を除くなど12の誓願をたてた如来様です。

重文・聖観音立像は平安時代、一木造り、高さ143.6cm。重文不動明王立像は平安時代、一木造り、高さ169.4cm。
矜羯羅童子(こんがら)、制咜迦童子(せいたか)平安時代、一木造り 高さ99.1cm。 住職は音楽関係の人で、仏教音楽を取り入れようとして、仏教の修行に入ったとの事でした。 

金剛定寺蒲生郡日野町中山にある。

金剛定寺

龍王寺は、蒲生郡竜王町にある天台宗の寺院で、行基によって雪野寺として建立された。重文・十二神将像は本尊薬師如来像の眷属として左右に六躯づつ安置されている。鎧を身につけ、剣、鉾、弓矢などを持ち、武装している像である。それぞれの頭上には十二支の標識を戴いている。ヒノキの寄木造りで、鎌倉時代末期の作である。「喘息封じ」の寺でもある。

龍王寺

東門院守山市守山にある。延暦年間、「比叡三千坊」といわれる比叡山の僧坊として最澄が開創。正確には「比叡山東門守山寺」とされる。桓武天皇から「比叡を守る東門」としてこの名を賜った。本尊の十一面観音菩薩は多くの信仰を受けて来た。

金剛定寺聖徳太子建立の四十八精舎のうち17番目の寺と伝えられる。室町時代文亀3年に起きた兵火で、ことごとく焼失したが、それまでは三重塔や大金堂を持つ東大寺別院であった。本堂大悲閣には、本尊・十一面観音坐像が安置されている。

庭園は県の名勝に指定されている。

安養寺

不動明王、二童子

聖観音立像

寺には、重文の薬師如来坐像大黒天立像がある。どちらも藤原時代のものである。薬師如来は黒くなっていて良く分からなかった。大黒天は25cmと小さく盗難を心配して秘仏になっていて、見ることはできなかった。堂内には、「聖徳太子像」があった。

これで、11ヶ寺のお参りが終わり、京駅までバスで走った。1日目は冷たい雨で、2日目は予報に反して晴れたが、風が強く吹き、寒かった。お寺も撮影を許可してくれるところあり、してくれないところもありました。
 京都駅で、皆と別れ、新幹線、東海道線を乗り継いで、藤枝に帰った。

佛性寺野洲市乙窪にある天台真言宗の寺院。建久年間に源頼朝の願いにより建てられた。かっては七堂伽藍をもっていたが、天正年間に織田信長の兵火により多くの建物を失った。阿弥陀如来坐像は焼失を免れ、収納庫に安置されている。

金ぴかの御本尊

重文・十一面千手観世音菩薩立像

予報に反して、青空ものぞく天気になったが、風が強い。

2日目

市指定の聖観音

十三重の宝塔国の重要文化財に指定されている。現在は九,十、十一を欠く十重となっている。正面の一面には二体のびく形を彫り出した珍しい形式の層搭になっている。

宝亀8年(777)小野時兼から寄進された梵鐘は霊験あらたかな梵鐘として数々の伝説が生まれ、平安時代、寛弘4年(1007)一条天皇のお耳に入り、「竜寿鐘殿」の直額を賜った。以後雪野寺から龍王寺と改められた。