エンジュ(槐)の木
H.22.3.23〜26
西安の南東3kmにあり、隋代の創建当時は霊感寺といわれた。唐代には隆盛を誇り、空海、円行らも清龍寺で修学した。1981年日本人により空海記念塔、1984年には空海記念堂が建てられた。
唐三彩の数々
身分、階級により、髷や着るもの、靴などが違っている。表情も一体一体手作りで異なる。
跪射俑
始皇帝陵東側の果樹園で井戸を掘っていて、地中から陶製の馬像や武士像を掘り当て、当局に申し出た楊さん。 楊さんの前にも見つけた人は何人かいたようだが、申し出なかった。楊さんは博物館の名誉副館長に任命され、今は体調によっては、居ない日もあるようだが、今日は出勤していて、兵馬俑の本にサインをしてもらい握手した。前にサインをしてもらった人の話だとサインの字がうまくなっているとのことだった。
名古屋〜上海、上海〜西安と乗り継ぎ(各2時間半)AM.10:40西安に着いた。インドに行った時、デリー〜ムンバイの乗り継ぎで、人の後に付いて行ったら、デリーに出てしまったので、心配していたら、上海の空港で「西安」と呼びかけがあり、無事に西安空港に着いた。総勢19名のツアーになった。西安の空港で中国人のガイドと合流した。
中国人ガイドのハンさん
西安の空港に移動し、昼食をとって、ガイドのハンさんと別れ、上海乗継で、名古屋空港に着いた。 西安は内陸と言うこともあり、曇ると寒く、日が出ると暑い。曇りの日が多かったので、黄砂か?と聞くとハンさんはほこりだ。というが、車に積もったほこりを見ると、黄砂に違いないとおもった。 全体に黄色っぽい街の印象だったが、一度は見たかった兵馬俑を見ることが出来て、よかった。 まだまだ掘れば、何が出てくるかわからないと言う、国土の広さには驚くばかりだ。
佛祖舎利
652年、唐の高僧玄装三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像を保存するために高宗に申し出て建立した。 7層64mで、現在は大慈恩寺の境内に立っている。名前の由来は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ一羽を塔を建てて埋葬したことに由来する。
鼓楼
747年、唐の玄宗が山の周りに宮殿を建て、城壁をめぐらせた。唐代の華清宮は安史の乱で壊滅してしまった。今の華清池は清代に再建されたものを整理修築したものである。 1982年、唐代華清宮御湯の遺跡が発見された。その中の海棠の湯は唐高帝の寵妃楊玉環(楊貴妃)のために作らせた浴槽で貴妃池とも呼ばれる。1936年、西安事件で蒋介石が捕らえられた場所でもある。
華清池
昼食
戦車の引き馬350余頭、騎兵用馬100余頭、各種武士俑900余、合計1300の陶俑、木製戦車89台。これらは歩兵、騎馬兵、軽車らが混成された一種の曲形陣。 まだ発掘中で、正面に予想図があった。
三号坑
兵俑、66体、馬俑、4体、戦車1台、で全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部) 1号坑より深いところに埋まっていた。
発掘したものを修復して並べてある。
秦兵馬俑壱号坑
遠くに大雁塔が見える。
景帝陵
1734年清時代の孔子像
石台孝経
唐景雲鐘
夕食は「城市酒店」で火鍋料理
春節の名残の飾りが残る南門。予約すると夜ショーをやってくれると言う、昔の兵士の格好をした人たちがリハーサルをしていた。
朱雀門とそこからの景色
歴代の高僧のお墓
中国では、結婚式の前に綺麗な風景のところで写真を撮るそうで、4組のカップルが写真撮影をしていた。
展示室が1〜4室まであり、おのおのの時代の書が収蔵されている。
唐代の石碑を収蔵するために1087年(北宋時代)に孔子廟跡に建てられた。周代から明代までの石碑、石刻3000点以上、秦から清代にいたる1000点以上の碑が収蔵されている。
3日目 西安市内観光
鐘楼は西安市のほぼ中心に位置し、明の時代には鐘楼の鐘を鳴らして庶民に時刻を告げた。もとは西大街の広済街口にあったが1600年ごろ現在の場所に移された 。. 鼓楼は鐘楼の西側にあり、かっては夕刻に太鼓を叩いて時を知らせていた。現在はテープが、朝と日暮れを告げている。
1号出水口
2号出水口
海棠湯(貴妃池) 楊貴妃の入った湯
2日目
ホテル近くの南大門と明朝城壁の夜景
大唐不夜城 大雁塔の近くに長さ1.5km、幅480mの唐の時代の建物を再現し、夜にはイルミネーションに飾られた通りが造られた。現在は片側だけだが、もう片側も建築中で、近いうちに両側がオープンするそうです。
西安五穀料理の夕食
空港道路建設の際に発掘された漢の景帝陵墓で、1999年9月に一般開放されたばかり。漢陽陵南部の8番目の陪葬穴の文物保護実験工事や、皇帝陵墓南部決闕門の遺跡、各種陪葬穴から出土した文物約1500点、漢陽陵東南側の陪葬穴の発掘現場などを見学できる。
塔の周りを一周すると一生平安と言うことで、まわってきました。
金沙洞 トンネルに入ると、湯の噴水があり、その入り口を入ると足湯が並んでいた。奥に女の子達がいて、足壷マッサージのお店のようだ。
それぞれの門は、南門(永寧門)、北門(安遠門)、東門(長楽門)、西門(安定門)と呼ばれ、闕楼、箭楼、正楼の三重の門楼からなり、敵を防ぐ。 西門から輪タクに乗った。途中止まって景色を見たり、写真を撮ってくれたりして、含光門、朱雀門の上を通って南門に着いた。約3km、20分ほどの輪タク体験だった。
西の城門
ホテルに帰って、頼んであった足壷マッサージで、大雁塔に上った足の疲れをとった。 もう少し頼んだ人がいると思っていたが、私達二人だけだった。個人で街のマッサージに出かけた人もいるようです。足だけでなく、体のほうもしっかりもんでくれた。
釈迦如来足跡石
1985年に日本から送られた桜の木、まだ咲いていなかった。
中国風の鳥居、木牌坊とその前のハン(サンズイに半と書く)池。ハン池は孔子廟独特のもので、ここが孔子廟だったことを如実に示している。
陜西省碑林博物館
陜西唐歌舞劇ショー(オプション)
西安名物の餃子は形と具と調理法を工夫し、180種類以上あるといわれている。殆どの餃子は水餃子か蒸餃子で、一口サイズになっている。これは、楊貴妃や西太后も食べたと言う名残かもしれない。 今回は、水餃子1種類、焼き餃子2種類、蒸餃子14種類出てきた。 どんなものかと全部食した。中にはシュウマイのようなものもあった。
鐘楼 台座上に36mの楼閣が釘を一本も使わず建築されている。
殷・周時代の青銅器
周、秦、漢、唐の時代を中心に陜西地方の古代歴史を今に伝える。唐代の建築様式を採り入れた管内には、1000年以上にわたる文物が陳列されている。その規模は北京の故宮博物館についで中国大2位の大きさ。
尚食湯 料理人がここで身を清めて料理をした。
星辰湯 唐の太宗皇帝の湯{露天風呂}だった。
温泉古源 今でも湯気が出ている。
蓮華湯 玄宗皇帝の湯
毛沢東の書(長恨歌)
現在の秦始皇帝陵墓
立射俑
鞍馬騎兵俑
高級軍吏俑
中級軍吏俑
2号坑から発掘された青銅製の銅馬車。実物の二分の一の大きさで造られた。始皇帝巡行用の馬車。 粉々になっていたのを復元した。
秦始皇帝陵墓の30年前の写真
1974年、始皇帝陵東側の果樹園で井戸を掘っていた農民が、偶然、地中から陶製の武士像や馬像を掘り当てた。以後の調査で、これらは地下に眠る皇帝を守る大部隊だということが判明した。見つかった6000体をこえる兵馬俑は実物大で、一体一体表情や服装、装備が異なり、馬も写実的に造られている。現在、1〜3号坑が公開されている。
兵馬俑坑博物館(世界遺産)
看板に、日本語で「そばや」と書いてあった。
五穀とは日本では、米、麦、粟、黍、豆を指すが、具体的な五種を指さず、穀物一般の総称として用いられている。いままで食べた中華料理とはちょっと味が違った。
大雁塔を模したというこのホテルは、レストランが狭く、3,4日目の朝食は満席で、中国人に割り込まれたり、とってあった椅子に他の人が座っていたりと朝食をとるのも大変な思いをした。
長安君楽城堡大酒店(グランドパークホテル西安)
公園で将棋を指している。
型にいれて作ったため皆同じ顔をしている。
復元された馬車
人間の形をした埴輪 腕は木で作ったため全部腐ってなくなっている。
発掘調査中
景帝は前漢の第6代目の皇帝
碑林
大夏石馬 大夏(西夏)の墓陵にあったもの。
夕食は餃子専門店 徳発長
王皇后陵
陽陵(地下遺跡博物館、漢陽陵帝博物館)
4日目
中国で旧城壁が完全に残っているのは西安だけ。頻繁に補修されているが規模は明代のままである。城壁の周囲は約12km、高さ12m、上は幅12〜14mの遊歩道になっている。城壁の東西南北にはそれぞれ門が設けられて、西門は安定門と呼ばれている。この城門からシルクロードが始まる。
二号坑
兵馬俑造営中に、項羽の略奪にあい、兵隊が持っていた武器などはすべて取られ、焼き討ちにあい、今でも黒くこげた痕跡が残る。 その後、洪水や土石流に埋まり、2200年の眠りに付いた。すべて発掘されれば、8000体、戦車100台、陶馬600体にのぼり、全部東を向いておかれている。
西安は、秦、漢、隋、唐、などの13の王朝が1100年にわたり都をおいた古都で、シルクロードの出発点でもあり、世界最大の国際都市でした。今でも城壁が残り、古都の面影を残している。 日本からの遣隋使、遣唐使を受け入れた。
ライトアップされた鼓楼
海棠の花
天龍宝厳素食館にて精進料理の昼食
清龍寺
真言宗の開祖空海が学んだ寺院
空海記念碑
大慈恩寺
大雁塔
上海空港の日没