H.28.12.18
8:45、興津駅をスタートする。東海道を歩くと、身延道との分岐に差し掛かる。駿河と甲斐を結ぶ道であった。と書かれていた。道標、髭題目碑、灯籠などが建っている。
東海道を歩いた時はまた街道にもどって歩いたが、今回はそのまま北進し、国道52号線の興津橋北交差点を右折し興津川に出る。土手を歩いて、おきつ大橋を渡る。道なりに歩き、休憩所の所を左折する。右折すると「白髭神社」がある。猿田毘古神(さるたひこのみこと)を祀っている。分岐に戻ると、銀杏を売っている人がいて、5袋も買い求めた。
歩道橋を渡り、由井駅でゴールです。駅前の食堂は行列ができていた。12:30の電車で藤枝に帰った。
この倉沢は東海道の「間の宿」で、明治天皇が休憩した、脇本陣・柏屋、名主を勤めた川島家・本陣跡が残っている。
左に折れると、「宗像神社」がある。海上航海の守護神である宗像神を祀っている。平安時代中期の創建で、樹木の繁る神社の森「女体の森」は海上からの目印となっていた。
その向かいには、小池邸がある。由井地区で長年名主を勤めた小池家の母屋は明治期に建てられたもので、建物の外観は低い軒の瓦葺き、正面の潜り戸付の大戸、格子等、当時の寺尾地域の民家の面影を残している。
右側に「あかりの博物館」がある。東海道を歩いた時は、500円は高いと思ったので入らなかったが、今日は300円ということで、入ってみた。大正時代に建てられた民家を利用して、いろいろな時代のあかりが展示さている。コーヒーを御馳走になった。火打石の実演もあった。
峠の駐車場を過ぎ、下り坂になる。下り終えると「西倉沢の一里塚」がある。その向かいには「望嶽亭」がある。富士山の眺望が良いことから望嶽亭と名付けられた。文人墨客が好んで休息した。幕臣山岡鉄舟が官軍に追われ逃げ込んだ屋敷と伝えられ、ピストルが残されている。また、彼を逃がしたとされる隠し階段などがある。東海道を歩いたときは閉まっていた。イベント時しか開けないそうです。
駿河湾、富士山を見ながら、夏ミカン畑の間を歩く。途中パパイアの木が数本あった。日当たりが良いので、熱帯植物も育つのだろう。
参加者で渋滞する山道を進むと、目の前が開け、薩埵峠に着いた。(薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていた。1185年に、近くの海から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、これを山に祀った。山の名前も地蔵と同じ意味の薩埵と呼び変えられた。薩埵越えは、東の箱根越え、西の鈴鹿越えとならぶ難所だった。1655年朝鮮通信使のために山腹を切り開いた道がこの「中の道」である。)