H.29.3.5
博物館を出て、大井川の土手に出て、「大井川橋」を渡る。強風の中1026.4mの橋を14分かかって渡った。昭和3年に架けられた鋼製のトラスト橋で、井筒型の基礎と門型の橋脚によって構成されている。土木学会推奨土木遺産として認定された。
島田博物館、天下三名槍に出会う 旧東海道ウオーク 藤枝 島田、金谷
東海道は狭いので、迂回しながら歩き、小さな橋を渡ると小さな祠と「御小休所後阯」と刻まれた石碑が立っている。明治天皇とは刻まれていないので、誰のか分からない。
東海道を歩いているときに歩いた街道である。雨に降られたり、大井神社で毎日お参りに来ているという元気な90歳のおばあさんに会い、写真を送ってあげたら、お礼に靴下を送ってくださったことを思い出した。14kmは長かったが、お天気も良く歩けました。14時9分の電車で藤枝に帰りました。
少し行くと道の反対側に「塚本如舟邸跡」があり、芭蕉の句碑が建っている。(塚本家は代官から川庄屋の初代を任命されている。代々宿役人の要職を勤めた。芭蕉が江戸に向かう途中に訪れている。その後川止めなどで、四泊五日滞在している。「やわらかに たけは今年の手作麦 如水 田植えと共に 旅の 朝起き はせを」
島田宿には、ほかにもたくさんの芭蕉句碑がある。はせをとは芭蕉のことである。川を渡ると、「金谷宿」に入る。江戸時代初期には柏屋、佐塚屋が本陣で、、山田屋は脇本陣でした。大火や東海大地震により、今は何も残っていません。、駅の近くには「一里塚跡」がある。
島田市博物館で開かれている「島田の刀鍛冶と天下三名槍」を見学する。槍は先ほどの「海野光弘版画記念館」にあるというのでまた戻って見たが、レプリカなのでありがたみが無い。
三名槍は、「御手杵」「日本号」「蜻蛉切」の三本で、江戸時代に東の御手切、西の日本号と並び称され、明治時代になって、蜻蛉切が入り「天下三名槍」と言われるようになった。
東海パルプの所を左に入っていくと「川越遺跡」がある。(川越の料金を決める川会所や川越人足の集会所である番屋などが復元されている。「上段の間が現存する塚本家」
島田駅への交差点を過ぎると、大井神社がある。社殿の前には「帯祭りの大奴」と「鹿島踊りの三番叟像」がある。大井川の氾濫や水害の無いことを祈って建立された神社で安産の神様としても信仰を集めている。
小さな川と橋のそばに「監物川と監物橋」の説明板がある。(寛永12年、島田宿は田中藩の預かり所となった。城主の水野監物が水不足に悩む栃山川以東の農民のため、灌漑用の水路を造った。島田宿の南に水門を設け、樋山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れた。農民は川を監物川と呼び、幅三間、長さ二間の短い土橋を監物橋と呼んだ。)
その先の右側に「古東海道蹟」がある。(昭和30年代までは、石碑から西に瀬戸山の丘が続いており、この碑の所から続く山道が中世から瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道です。)と書かれている。石碑の横から暫く小路を歩く。
「宿東入り口、枡形跡」の説明板がある。(島田宿には、枡形の見付けが設けられていた。宿の境界として設けられ、本陣の主人や、町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所である。)と書かれている。
川会所
番所
島田宿西の枡形跡(島田宿の西の入り口には、川沿いを土手で囲い、東側は正覚寺入り口の小路で囲った、例の少ない枡形の見付けが設けられていた。)を過ぎると、大善寺がある。(大善寺の梵鐘は時の鐘として設けられた。明け六つと暮れ六つは大井川の川越の始まりと終わりの合図になっていた。太平洋戦争で供出され、現在の鐘は昭和48年に新しく造られた。)
島田宿には上本陣村松家、中本陣大久保家、下本陣置塩家の三軒があり、脇本陣はなかった。
島田宿に入る。帯通りを歩くと、「御陣屋跡」がある。(島田宿には。志太郡や榛原郡の天領を支配する御陣屋(代官所)が設置されていた。本陣跡には。からくり時計があり、ちょうど11時30分で、帯祭りの大奴が出てきて踊った。
「島田市道悦島」の道標を過ぎ、「栃山橋」を渡る。傍の案内板に(大津谷川と伊多谷川がこの橋の川上で合流して栃山川と名前を変える。昔は島田川と呼ばれていた。江戸時代は土橋で、長さ17間(36.6M)横幅3間(5.4M)橋杭は三本立てで、七組で支えていた。土橋とは、板橋の上に柴を敷き、その上に土を貼ったもの。この橋の東端が、島田宿と道悦島村の境となっていた。)と書かれている。
一里山交差点の所に「上青島一里塚跡」の石碑と「東海道夢舞台」の道標があった。昭和30年代までは松並木が残っていた。と書かれていた。今も松並木は少し残っている。